鉄剣・鉄刀銘文(てっけん・てっとうめいぶん)は、鉄製の剣または刀に記された文字資料のこと。本項では日本の古墳からの出土品と石上神宮伝世の七支刀について述べる。なお、ここでいうは両刃、は片刃の武器を指す。これらは5世紀前後の古墳時代の情報を知るための貴重な史料である。特に稲荷山古墳出土の鉄剣銘文は文字数が多い。

稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣 編集

   
埼玉県立さきたま史跡の博物館展示。左は表面、右は裏面。

1968年昭和43年)、埼玉県行田市稲荷山古墳から出土した「金錯銘鉄剣」である。全文115字からなる象嵌の銘文が記されている[注釈 1]。全長73.5センチメートル、中央の身幅3.15センチメートル、鉄剣の表に57字、裏に58字の計115字の銘文が記されている。タガネで鉄剣の表裏に文字を刻み、そこに金線を埋め込んでいる。優れた技術者がいたと推測される[1]

辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比

<訓読>

辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。
  • 表の銘文
  • 裏の銘文
其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也

<訓読>

其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル(クヮクカタキル)の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。

解釈 編集

115文字という字数は日本のみならず朝鮮・中国の例と比較しても多い。日本で作られたと考えられる古墳時代の他の銘文について字数が多い例は、熊本県江田船山古墳出土の大刀銘75字、和歌山県橋本市隅田八幡神社所蔵の銘48字などがある。

辛亥年は471年が定説であるが一部に531年説もある。通説通り辛亥年が471年とするとヲワケが仕えた獲加多支鹵大王とは、大長谷若建(おおはつせわかたける)命・大泊瀬幼武(おおはつせわかたける)・雄略天皇であり、あるいは『宋書』倭国伝にみえる倭王であると比定される。大王という称号が5世紀から使われたことの確実な証拠となる。ヲワケが地方豪族であるか中央豪族であるかの判断など研究者で意見が分かれる。加多支鹵大王とはヤマトと異なる関東の大王だとの説も有り、それによるとヤマトの支配権は関東に及んでいなかったことになる(古田武彦説)。

銘文「意冨比垝」の「意」・「比垝」は百済の用字法にもある[2]。 『三国史記』百済本紀 513 年の条に、日本人 穂積臣押山おしやま穂積押山)の名が「斯移麻岐彌おしやまきみ」と記されている。また、『日本書紀』神功皇后 47 年 4 月の条に「百濟記に職麻那那加比跪ちくまなながひこ千熊長彦)と云へるは、蓋し是か」、同 62 年の条に「百濟記に云はく……貴國沙至比跪さちひこ葛城襲津彦)を遣はして之を討たしむ」とある。「垝」と「跪」とは同音である。

また「辛亥年七月中記」の「中」は、朝鮮古漢文でも758年頃に用法としてある[注釈 2][2]

「多沙鬼獲居」の「多沙鬼」は、『日本書紀』神功皇后 50 年 5 月の条に見える「多沙城」に由来する名と推定される。「多沙」は任那の地名である[2](→城 (き))。

ほか、「百練」以外の常套句・吉祥句がない。「辛亥年七月中記」中国的要素が強い。ヲワケの祖先八代の系譜を記している。ヲワケ一族の伝統とこの鉄剣を作った理由を記している。ヲワケの臣の父(カサハヨ)と祖父(ハテヒ)には、ヒコ・スクネ・ワケなどのカバネ的尊称がつかない。部民制の用例がみられない。ヲワケの臣。すでにウジ(氏)とトモ(伴・部)の成立がみられる。当時の倭国の人名・地名を漢字音で表記している。獲加多支鹵大王のもとに中国語に精通した記録者の存在を示している。

宮崎市定は「記す」の繰り返しは漢文として稚拙であるから最初の「記」は氏族名であり「記のヲワケ臣」が人名であるとした。また『古事記』中巻・崇神天皇のオホタタネコの系譜の最後に一人称「僕」が現れる例を挙げ、ヲワケの父の名はカサヒヨでなくカサヒであり、「余」は「われ」の意味だとして「余は其の児にして名はヲワケ臣」と読んだ。また「寺」(政庁)と「宮」の重複も不自然で、「寺」は「侍」(サムライ、貴人に仕えること)の略であるとして「奉事し来たりて今のワカタケル大王に至る。(私ヲワケ臣が)侍してシキの宮に在りし時」と読んだ。さらに「吾」の繰り返しも稚拙であり、「吾左治天下」の「吾」は本来は「為」の字で「天下を治むるを佐けんが為に」と読むべきとした。宮崎は著書の中で、最初に発表されたレントゲン写真では「為」に近い形であった文字に補修者が手を加え、「吾」という文字を創作したと述べ、写真を載せて非難した[3]

稲荷台1号墳出土の「王賜」銘鉄剣 編集

 
「王賜」銘鉄剣 (複製)
市原市埋蔵文化財調査センター展示。

千葉県市原市稲荷台1号墳から出土した鉄剣である。同古墳には2基の木棺が納置され(中央木棺と北木棺)、鉄剣は中央木棺から検出された[注釈 3]

鉄剣には、象嵌で、表面に「王賜□□敬□(安)」、裏面に「此廷□□□□」と記されている[4]。鉄剣に紀年が記されていないが、木棺に収められていた鋲留短甲と鉄鏃の形式から5世紀中葉と見られている。

銘文を読み下すと、「王、□□を賜う。敬(つつし)んで安ぜよ。此の廷(刀)は、□□□」となる。内容は、王への奉仕に対して下賜するという類型的な文章で、「王から賜った剣をつつしんで取るように」ということである[4]。被葬者は2人の武人であり、房総半島の一角に本拠をもつ武人が畿内の「王」のもとに出仕して奉仕し、その功績によって銀象嵌の銘文を持つ鉄剣を下賜されたものと考え、銘文中の「王」を倭の五王のうちの「済」(允恭天皇)とする説が有力である。しかし和歌山県隅田八幡神社所蔵の鏡銘に「大王」の記述が見られ、この鏡の銘の癸未年を443年とすると允恭天皇は「大王」を名乗っていたと推測されることから、「王」を上海上の首長である対岸の姉崎二子塚古墳の被葬者とみる説もある[5]

ほか、銘文の特徴としては、「王賜」の画線が他の文字よりも太く、文字間隔が大きい。また「王賜」の二字が裏面の文字より上位に配置されている。こうした書き方は、貴人に敬意を表す時に用いる擡頭法(たいとうほう)という書法である。

箕谷2号墳出土の「戊辰年」銘鉄刀 編集

1984年(昭和59年)兵庫県養父市八鹿町(ようかちょう)小山の箕谷2号墳から出土した鉄刀である。

現存長68センチメートルほどの鉄刀の佩裏(はきうら)に「戊辰年五月□」の銅象嵌で記されている文字が見つかった。おそらくこの刀が造られた年紀と考えられる。この「戊辰(ぼしん)年」は、608年と推定されている。

東大寺山古墳出土の「中平」銘大刀 編集

 
金錯銘花形飾環頭大刀
先端部(画像下側)に「中平」銘(逆向き)。東京国立博物館展示。

1962年昭和37年)奈良県天理市東大寺山古墳から出土した鉄刀である。鉄刀は長さ110センチメートルで、金象嵌が検出された。推定銘文は、次の通りである。

中平□□ 五月丙午 造作支刀 百練清剛 上応星宿 □□□□

解釈 編集

文の内容は、「中平□年五月丙午の日に、この銘文を入れた刀を造った。よく鍛えた鋼の刀であるから、天上では神の御意にかない、下界では災いを避けることができる。」という意味である。

中平とは、霊帝の治世の184年から189年の期間の年号である。この頃は、『魏志』倭人伝には、倭国乱れ互いに攻伐し合い、長い間盟主なく、のち卑弥呼が王となる、とある。 「五月丙午(へいご、ひのえうま)」とは、盛夏を意味し、刀剣や鏡などの金属器を造る時、太陽から火を採る最適の日と考えられている。実際の日の干支とは関係なく刻まれる吉祥句(常套句)である。箕谷2号墳出土の鉄刀にも五月と刻まれている。

東大寺山古墳は全長140メートルの前方後円墳で、4世紀後半頃に築造された。刀には環状の柄頭(つかがしら)が新しくつけられていた。この柄頭は、三葉環頭と称されるもので、埋葬の直前に付け替えられたと考えられる。約200年も経て埋葬された。下賜された人物とその子孫が権威の象徴として「伝世」したともみられる。

石上神宮伝世の七支刀 編集

七支刀は、神功皇后の時代に百済の国から奉られたと伝えられ、奈良県天理市石上神宮に保存されていた[注釈 4]。七支刀の名は、鉾に似た主身の左右から三本ずつの枝刃を出して計て七本の刃を持つ形に由来すると考えられる。主身に金象嵌の文字が表裏計61字記されている[注釈 5]

銘文 編集

泰□四年□月十六日丙午正陽造百錬□七支刀□辟百兵宜供供(異体字、尸二大)王□□□□作

また

泰□四年□月十六日丙午正陽造百錬□七支刀□辟百兵宜供供王□□□□作
先世(異体字、ロ人)来未有此刀百済□世□奇生聖(異体字、音又は晋の上に点)故為(異体字、尸二大)王旨造□□□世

また

先世来未有此刀百濟□世□奇生聖故為王旨造□□□世

解釈 編集

表面にある年紀の解釈に関しては未だ定説はないが、「泰和四年」として369年とする説、泰□四年を「泰始四年」として468年を当てる説がある。

宮崎市定は「泰□四年□月」を「泰始四年五月」として解釈し、次のように読解した[7]

  • 〔表面〕
泰始四年五月十六日丙午正陽 造百練鋼七支刀 呂辟百兵 宜供供侯王永年大吉祥

<解読>

泰始四年(468年)夏の中月なる5月、夏のうち最も夏なる日の16目、火徳の旺んなる丙午の日の正牛の刻に、百度鍛えたる鋼の七支刀を造る。これを以てあらゆる兵器の害を免れるであろう。恭謹の徳ある侯王に栄えあれ、寿命を長くし、大吉の福祥あらんことを。
  • 〔裏面〕
先世以来未有此刀 百□王世子奇生聖徳 故為倭王旨造 伝示後世

<解読>

先代以来未だ此(かく、七支刀)のごとき刀はなかった。百済王世子は奇しくも生れながらにして聖徳があった。そこで倭王の為に嘗(はじ)めて造った。後世に伝示せんかな。


表面は、製作の年月、鋳造に関する決まり文句(慣用的な吉祥句)。裏面は、倭王[注釈 6]に贈るために百済において製作したと書いている。百済王の近肖王(太子の近仇首王=貴須王)から倭王の「旨」のために造った、との解釈もある。

また、『日本書紀』によれば、神功皇后52年(252年?)九月丙子の条に、百済の肖古王が日本の使者、千熊長彦に会い、七支刀一口、七子鏡一面、及び種々の重宝を献じて、友好を願ったと書かれている。

五十二年秋九月丁卯朔丙子、久氐等從千熊長彥詣之、則獻七枝刀一口、七子鏡一面及種種重寶、仍啓曰:「臣國以西有水、源出自谷那鐵山、其邈七日行之不及。當飲是水、便取是山鐵以永奉聖朝。」乃謂孫枕流王曰:「今我所通東海貴國、是天所啓、是以垂天恩、割海西而賜我、由是國基永固。汝當善脩和好、聚斂土物、奉貢不絕、雖死何恨!」自是後、每年相續朝貢焉。[8]

この頃の書紀の記述は丁度干支二巡分(120年)年代が繰り上げられているとされており、訂正すると372年となって制作年の太和(泰和)四年(369年)と符合する。

千熊長彦は『百済記』によれば、「職麻那那加比跪」と表記され[9]、367年に新羅が百済の貢ぎ物を奪ったため、千熊長彦が新羅を責めたとあり、またその二年後の369年に千熊長彦が新羅を伐ち、比自火本、南加羅、安羅多羅卓淳加羅などの七カ国を平定し、また比利、布弥支、半古などの四つの村を平定したとある[9]。倭国によるこれらの事蹟に対して百済肖古王が、久氐らを派遣した。

なお、石上神宮は、朝廷の武器庫であり、多くの武器を宝蔵したともされる。七支刀もその一つ。

岡田山1号墳出土の「額田部臣」銘大刀 編集

島根県松江市大草町の岡田山1号墳から出土した鉄刀である。1915年大正4年)に土地所有者によって岡田山1号墳が発見された際の出土品で、保存修理中の1984年昭和59年)に銀象嵌の銘文が検出された[10]。出土当時は完存しており全長は約82センチメートルであったが、その後刀身の上半部が失われ残存長は52センチメートルである。銘文もわずか末尾の12文字が残っているに過ぎず、確認できる銘文は「各田卩臣□□□素□大利□」である[注釈 7][11][12]

「各田卩臣」は「額田部臣(ぬかたべのおみ)」と読む。ウジに関する史料としては隅田八幡宮人物画像鏡に次いで二番目に古い例であり、部民制の表記としての「部」の最も古い史料である[13]。額田部臣は出雲臣と同族であり、出雲国大原郡を本拠としていた[14]

元岡G-6号墳出土の金錯銘大刀(庚寅銘大刀) 編集

福岡県福岡市西区元岡古墳群G群6号墳から出土した金象嵌銘のある大刀。古墳から出土した金象嵌銘の大刀としては日本で3例目という。長さは74センチ、刀身の棟には「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果□」(最後の字は「練」か)の19文字が金象嵌で表されている。庚寅年の正月六日が庚寅となるのは、西暦570年にあたる。2019年国の重要文化財に指定[15][16]

江田船山古墳出土の銀錯銘大刀 編集

 
江田船山古墳出土鉄刀(国宝)
東京国立博物館展示。
 
鉄刀(国宝)銘文 「治天下獲□□□鹵大王」表記は写真右上。

1873年明治6年)、熊本県玉名郡和水町(たまなぐんなごみまち)にある江田船山古墳から横口式家型石棺が検出され、内部から多数の豪華な副葬品が検出された。この中に全長90.6センチメートルで、茎(なかご)の部分が欠けて短くなっているが、刃渡り85.3センチメートルの大刀(直刀)があり、その峰に銀象嵌の銘文があった。大正末期に日本刀研師により研磨された[17]。字数は約75字で、剥落した部分が相当ある(研磨の際に失われた可能性が高い)。

治天下獲□□□鹵大王世奉事典曹人名无利弖八月中用大鉄釜并四尺廷刀八十練九十振三寸上好刊刀服此刀者長寿子孫洋々得□恩也不失其所統作刀者名伊太和書者張安也

<訓読>

天の下治らしめし獲□□□鹵大王の世、典曹に奉事せし人、名は无利弖、八月中、大鉄釜を用い、四尺の廷刀を并わす。八十たび練り、九十たび振つ。三寸上好の刊刀なり。此の刀を服する者は、長寿にして子孫洋々、□恩を得る也。其の統ぶる所を失わず。刀を作る者、名は伊太和、書するのは張安也[18]

解釈 編集

ワカタケル大王(雄略天皇)の時代にムリテが典曹という文書を司る役所に仕えていた。八月に大鉄釜で丹念に作られためでたい大刀である。この刀を持つ者は、長寿であって、子孫まで栄えて治めることがうまくいく。大刀を作ったのは伊太□(ワ)で、銘文を書いたのが張安である[19]

かつては「治天下𤟱□□□歯大王」と読み、多遅比弥都歯大王(反正天皇)にあてる説が有力であったが、1978年に埼玉稲荷山古墳出土の鉄剣に金象嵌の銘文が発見されたことにより、「治天下獲□□□鹵大王」 と読み、獲加多支鹵大王(ワカタケル大王、雄略天皇か)とする説が有力となった。

この説によれば、金象嵌の鉄剣と銀象嵌の鉄刀が製作され、それらを下賜された人物が、北武蔵野稲荷山古墳と肥後の江田船山古墳に埋葬されたことになる[注釈 8]

この銘文には、治天下、八十たび、十握などの強い日本調が混じっている。大王と王恩、四尺と一釜、十握と三寸などの前後を対応照応させて、漢文の本来の手法を巧みに利用している。年号はない。『宋書』倭国伝に引く倭王武の上表文にみえる「自昔祖禰 躬擐甲冑 跋渉山川 不遑寧處 東征毛人五十國 西服衆夷六十六國」(東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国)の表現に対応するかのごとくである。

熊本市出土の「甲子年」銘文鉄刀 編集

熊本県熊本市中央区の熊本城跡から出土した鉄刀である。2022年に実施された理化学器材を用いた文化財調査によって象嵌銘文が発見された[20]。出土状態としては遺構に伴っていなかったが、本来は付近に存在する千葉城横穴に副葬されていたものである可能性がある[20]。鉄刀は全長約55センチメートルと大刀としては短いもので、柄頭を金属板で包む袋頭大刀であるとされる[20]

X線解析によって確認された銘文は6文字で、「甲子年五月カ中カ」が判読されているが、象嵌材質、書体などの詳細は2023年現在は不明である[21]。鉄刀の形態的特徴から、銘文の「甲子年」は604年を指す可能性が高い[21]

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 1978年9月の保存修理の結果。
  2. ^ 例:「二塔天寳十七年戊戌立在之」(『葛項寺造塔記』758 年)
  3. ^ なお、中央木棺からは他に鉄剣3口、鋲留短甲(びょうどめたんこう)1、鉄鏃3、刀子1が検出され、北木棺からは大刀1口、鉄鏃一種、胡簶(ころく)金具1組が検出されている。
  4. ^ 千年以上もその存在が忘れられていたが、菅政友(かんまさすけ[6]、1824年 - 1897年)によって見出され、金象嵌の文字が研ぎ出された。
  5. ^ 表に34字、裏に27字、表裏併せて61字あり、読めるもの49字、全く読めないもの4字、後の8字はわずかに残る線画によって推測。
  6. ^ 倭王とは九州の倭国の王で、後に倭国からヤマトに七支刀が奪われたとの説も有る(古田武彦説)。
  7. ^ 5文字目は「令」「今」「㐱」、6文字目は「河」「珂」「阿」、7文字目は門構えの文字、9文字目は「伊」または「得」、12文字目は「刀」または「也」の可能性がある。
  8. ^ 一方、この「大王」を、ヤマトとは別の九州の大王と見る説も有る(古田武彦説)。それによると、この頃ヤマトの勢力は九州に及んでいなかったことになる。

出典 編集

  1. ^ 推定銘文及び訓読は(埼玉県教委 1979)による。
  2. ^ a b c 村山・国分 1979.
  3. ^ 宮崎 1983, p. 145.
  4. ^ a b 東野 2010, pp. 12–13.
  5. ^ 原島 1993, pp. 11–14.
  6. ^ コラム古代からのメッセージ > 倭の五王の時代 > 七支刀の銘文 (№151)”. 藤井寺市 (2009年6月4日). 2013年11月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年1月4日閲覧。
  7. ^ 宮崎 1992.
  8. ^ 『日本書紀』神功皇后摂政五十二年九月の条
  9. ^ a b 加藤ほか編 2005.
  10. ^ 池田 1984.
  11. ^ 勝部 1984, pp. 76–77.
  12. ^ 鬼頭 1987, pp. 73–74.
  13. ^ 鬼頭 1987, p. 74.
  14. ^ 岸 1987, pp. 122–123.
  15. ^ 令和元年7月23日文部科学省告示第26号
  16. ^ 文化審議会答申 ~国宝・重要文化財(美術工芸品)の指定及び登録有形文化財(美術工芸品)の登録について~(文化庁サイト、2019年3月18日発表)
  17. ^ 青木・犬竹 1995.
  18. ^ a b 江田船山国宝展実行委員会 2001.
  19. ^ 国宝がやってきた「江田船国宝展」 ~熊本の技と美の1500年~”. 熊本県教育委員会文化課. 2005年2月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年1月4日閲覧。
  20. ^ a b c 林田・三好 2023, p. 28.
  21. ^ a b 林田・三好 2023, p. 29.

参考文献 編集

  • 青木繁夫、犬竹和「象嵌された遺物のプラズマによる保存処理について」『保存科学』第34号、東京文化財研究所保存科学研究センター、1995年。 
  • 池田満雄「岡田山1号墳の発掘と保存の足跡」『島根考古学会誌』第1号、1984年。 
  • 江田船山国宝展実行委員会『江田船山国宝展』2001年。 
  • 勝部昭「岡田山1号墳出土の大刀」『島根考古学会誌』第1号、1984年。 
  • 加藤友康、瀬野精一郎、鳥海靖 ほか 編『日本史総合年表』(2版)吉川弘文館、2005年。 
  • 岸俊男「日本古代史上における岡田山鉄刀銘文の意義」『出雲岡田山古墳』島根県教育委員会、1987年。 
  • 鬼頭清明「銘文解読」『出雲岡田山古墳』島根県教育委員会、1987年。 
  • 埼玉県教育委員会『稲荷山古墳出土鉄剣金象嵌銘概報』1979年。 
  • 東野治之『書の古代史』岩波書店、2010年。 
  • 林田和人、三好栄太郎「熊本市出土「甲子年」銘文鉄刀について」『令和5年度九州考古学会総会研究発表資料集』、九州考古学会、2023年。 
  • 原島礼二『古代東国の風景』吉川弘文館、1993年。 
  • 宮崎市定『謎の七支刀 五世紀の東アジアと日本』〈中公新書〉1983年。ISBN 9784121007032 
  • 宮崎市定『謎の七支刀 五世紀の東アジアと日本』〈中公文庫〉1992年。 
  • 村山七郎、国分直一『原始日本語と民族文化』三一書房、1979年。