鍋島 直彬(なべしま なおよし)は、肥前国鹿島藩13代(最後の)藩主。佐賀藩主・鍋島直正(閑叟)の甥。

 
鍋島直彬
Nabeshima Naoyoshi 1914.jpg
鍋島直彬
時代 江戸時代後期 - 大正時代
生誕 天保14年12月11日1844年1月30日
死没 大正4年(1915年6月13日
改名 熊次郎(幼名)、直彬
戒名 静観院万物自得大居士
墓所 佐賀県鹿島市古枝町久保山の普明寺
官位 従五位下備前守備中守侍従正五位従四位子爵錦鶏間祗候従三位正二位
幕府 江戸幕府
主君 徳川家慶家定家茂慶喜明治天皇大正天皇
肥前鹿島藩
氏族 鍋島氏
父母 鍋島直永鍋島茂延娘於統
鍋島直賢
兄弟 唯証院、直彬、謁女ら
鍋島直正養女葛子
神代子、直縄
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鍋島直彬公の像。佐賀県鹿島市の旭ヶ岡公園にて。

生涯編集

天保14年12月11日(1844年)、第10代藩主・鍋島直永の三男として生まれる。嘉永元年(1848年)9月14日、第12代藩主の鍋島直賢(直永や直正の弟で叔父にあたる)が本家の鍋島直正によって強制的に隠居させられ、その養子として数え6歳で家督を継いだ。

嘉永6年(1853年)にロシアプチャーチン長崎に来航した際には、警備を行なっている。また、藩校・徳譲館を弘文館と改名して文武を奨励するなどした。万延元年12月(1861年)、従五位下・備前守に叙位・任官する。幕末期は佐賀藩と行動を共にし、直正の命令で朝廷との交渉役を務めている。文久3年(1863年)11月19日に備中守に遷任する。慶応2年(1866年)には幕府に追われていた副島種臣を庇護したりしている。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府に恭順した。明治2年(1869年)6月の版籍奉還で鹿島藩知事に任じられ、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で藩知事を免官されて東京に移った。

明治5年(1872年)8月からアメリカ視察を行なっている。明治9年(1876年)には侍従に任じられ、明治天皇の側近として仕えた。明治10年(1877年)の西南戦争で明治天皇が京都に赴いた際には同行、同年に侍補、翌明治11年(1878年)に宮内御用掛・文学御用掛に任命、明治12年(1879年)4月に初代の沖縄県令に任じられた。明治13年(1880年)に正五位に昇叙、明治14年(1881年)に従四位に叙せられて元老院議官となる。

明治17年(1884年)の華族令子爵に叙せられた。明治21年(1888年)に帝室制度調査委員に任じられ、従三位に叙せられる。明治23年(1890年)の第1回帝国議会選挙では貴族院議員に選出され、その後も4回にわたって再選を果たした。なお、地元・鹿島などでは病院や学校の設立に尽力している。1890年10月20日、錦鶏間祗候となる[1]

これらの功績から明治天皇の死後も重用され、大正4年(1915年)には正二位に叙せられたが、6月13日に死去した。享年71。

沖縄県令としての鍋島直彬編集

子爵で旧藩主である直彬が沖縄県令に任命される人事は、門地を重んじる民心をふまえ、華族の権威を利用して琉球処分(廃琉置県)から間がない沖縄県政の確立を企図したものであった。新県庁職員は、直彬が引率した佐賀県出身者(当時は長崎県)が要所を占めることになった。直彬は、政府の方針にしたがい土地・租税・地方制度などの旧慣をすべて継承する「旧慣温存」を表明し、勧学と勧業を重点施策に掲げ実行に移した。2年余の在任中に、糖業奨励策をめぐり旧琉球王国以来の特権を有していた鹿児島系寄留商人と対立し、琉球士族らの反抗もあり、県政は行き詰まり、明治14年(1881年)に辞職を余儀なくされたが、直彬に率いられた30名余りの部下(原忠順ら)共々、沖縄の基礎作りに貢献した。ただし、多数の部下を引き連れたことで現地職員と大きな軋轢を生んだことを反省し、後任の上杉茂憲には人数を絞るよう助言している。上杉に同行したのは、従僕含め7名のみであった。

栄典編集

位階
勲章等

系譜編集

脚注編集

  1. ^ 『官報』第2195号、明治23年10月22日。
  2. ^ 『官報』第1018号「叙任」1886年11月19日。
  3. ^ 『官報』第3266号「叙任及辞令」1894年5月22日。
  4. ^ 『官報』第308号、1884年7月9日。
  5. ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
  6. ^ 『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。

関連項目編集

外部リンク編集

日本の爵位
先代:
叙爵
子爵
鹿島鍋島家初代
1884年 - 1915年
次代:
鍋島直縄