鍾離(しょうり)は、中国にかつて存在した国名・地名。

歴史 編集

鍾離は春秋時代の小国の名。のちにに属した。淮河の南方にあり、現在の安徽省滁州市鳳陽県一帯に相当する。鳳陽県の臨淮鎮の東に鍾離国故城遺跡がある。その周辺で発見された青銅器の刻文に「童麗君柏」と書かれており、「童麗」は「鍾離」のことと考えられている[1]

春秋時代の鍾離は楚との境界近くにあり、紀元前518年に呉によって鍾離は滅ぼされた[2]。『史記』の呉太伯世家・楚世家および伍子胥列伝に伝える伝説によると、もとは鍾離と隣りあう呉の村との子供(または女)同士の争いだったのが、村どうしの戦いに発展し、最後に国どうしの戦いになったという[3]

が楚を滅ぼすと、鍾離を県とした。九江郡後漢淮南郡と改める)に属した。東晋では鍾離郡を置き、鍾離県はその郡治となった。6世紀には鍾離の戦いが起こっている。

以降、鍾離郡は濠州となったが(何度か鍾離郡に戻っている)、鍾離県はそのまま残った。

洪武2年(1369年)ににより鍾離県は中立県と改称され、翌年に臨淮県と改称された。なお、濠州は短期的に臨濠府・中立府を経て鳳陽府になっている。

北朝の鍾離県 編集

南北朝時代の北朝でも鍾離県が置かれた。現在の河南省南陽市唐河県にあたる。598年に洞川県に改められた[4]

脚注 編集

  1. ^ 闞緒杭; 周群; 銭仁発; 唐更生 (2009). “春秋鍾離国墓的発掘収穫” (pdf). 東南文化 (207): 40-47. http://dnwh.njmuseum.com/pdf/2009/200901/07.pdf. 
  2. ^ 春秋左氏伝』昭公二十四年の記事
  3. ^ 司馬遷史記』 楚世家。"初、呉之辺邑卑梁与楚辺邑鍾離小童争桑。両家交怒相攻、滅卑梁人。卑梁大夫怒、発邑兵、攻鍾離。楚王聞之怒、発国兵、滅卑梁。呉王聞之大怒、亦発兵、使公子光因建母家攻楚、遂滅鍾離・居巣。楚乃恐而城。"。 なお、呉太伯世家では女同士が桑を争った話になっており、また呉と楚が逆になっている。
  4. ^ 隋書』地理志下

関連項目 編集