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長尾 晴景(ながお はるかげ)は、戦国時代武将越後国戦国大名

 
長尾晴景
時代 戦国時代
生誕 永正6年(1509年
死没 天文22年2月10日1553年3月23日
改名 道一丸(幼名)→定景→晴景
別名 通称:弥六郎、六郎
戒名 千巌院殿華岳光栄
官位 左衛門尉(受領名)
幕府 室町幕府 越後守護代
主君 上杉定実
氏族 越後長尾氏
父母 父:長尾為景、母:上条氏(上杉弾正少弼)の娘[1]
猶父:上杉定実
兄弟 晴景加地春綱正室[2]仙桃院長尾政景正室)、景康景房上条頼房正室、景虎(上杉謙信)
正室:上杉定実の娘[3]
猿千代、養子:景虎(実弟)

目次

生涯編集

家督相続編集

越後国守護代長尾為景の子として生まれる。母は上条上杉氏。幼くして主君の越後守護上杉定実猶子となる[注釈 1]。定実の娘を娶ると共に偏諱を受け「定景」(さだかげ)と名乗る。のちに12代将軍・足利義晴から偏諱を与えられ「晴景」(はるかげ)に改名。天文9年8月3日1540年9月13日)に父・為景の隠居により、家督を譲られて[注釈 2]春日山城主となると共に越後守護代を補任された。

父の為景と異なり穏健な政策をとり、領内の国人との融和を図った。越後における争乱を鎮めることにはある程度成功したが、主君である越後守護の上杉定実伊達氏から伊達時宗丸を迎えるかの養子縁組問題(天文の乱)で越後国内が乱れた際に中条氏らを抑えることはできなかった。伊達氏の内紛に助けられ守護上杉家の復権は阻止したものの、黒田秀忠などが反乱を起こし越後国内の情勢はますます不穏になる。

実弟・景虎の台頭編集

そのような情勢の中、城下の寺院へ入門していた弟の虎千代(景虎、後の上杉謙信)が還俗して栃尾城主となり、反乱を鎮め家中での名声を高めると、家臣の一部の間で景虎の擁立を望む(晴景の嫡子・猿千代は早世していた)ようになり、長尾家は家中分裂の危機を迎える。

そこで天文17年(1548年)には、定実の仲介のもとに、景虎に家督を譲って隠居する。天文22年(1553年)2月10日に死去した。享年42。

病弱なうえ戦よりも芸事を好んだ人物であったことが謙信の書状ほか諸史で伝わっている。また、後年一部の史書には景虎が晴景を殺害して家督を奪ったとする記述もあるが、多くの史書と食い違いがあり、創作と見るのが一般的である。

脚注編集

注釈編集

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  1. ^ 日本随筆大成」に拠ると、定実が為景の姉妹を娶った際に、為景の嫡子・六郎(のちの晴景か)を猶子とする約定を取り交わしたと云われる。
  2. ^ 上杉家文書(『新潟県史』資料編一、109号文書)。なお同文書は天文5年(1536年)作成と見られ家督移譲もこの時とされることが多いが、同書における為景の署名形式や、天文9年9月以降に晴景による発給文書が確認され、同月に晴景に対して敵追討の綸旨が発給されていること、更にこれ以降為景発給文書が確認できないことから、家督交代は天文9年だと考えられる[4]

出典編集

  1. ^ 福原圭一; 前嶋敏編 『上杉謙信』、前嶋敏、福原圭一、片桐昭彦、森田真一、阿部哲人、竹下多美、今福匡、村石正行、田嶋悠佑、簗瀬大輔、萩原大輔、矢部健太郎執筆 高志書院、2017年、39-41,52-53頁。ISBN 978-4-86215-174-2 
  2. ^ 大日本史料上杉三代日記北越軍談より。
  3. ^ 豊田武 『戦国の群雄』 読売新聞社1966年
  4. ^ 前島 2015, pp. 46-47.

参考文献編集

  • 前嶋敏「戦国期越後における長尾晴景の権力形成ー伊達時宗丸入嗣問題を通してー」、『日本歴史』第808号、2015年