長山 六郎 (ながやま ろくろう、天保14年(1843年9月16日) - 明治41年(1908年8月13日)は、日本宗教家

経歴 編集

佐斐神村(現在の鳥取県境港市佐斐神町)に生まれる。農業を営み、地方の名族である。幼少の頃から学問を好み、黒住教を信仰する。

明治11年(1878年)11月、教導職に補し、試補より累進して遂に講師権中信教に至る。邸内に講社を設立し、又土地を提供し、教会所を建築してその所長となる。

その間、伯耆国の分局幹事宗忠神社新築の世話係長、諮問会議員などをつとめる。

家系 編集

『長山氏世代記録(家伝)』によれば、長山家はもともと“足立(あだち)”姓だったが、元治2年(1865年)六郎右衛門が功績不詳ながら、藩主から“長山”姓を許されたため、長山を名乗った[1]

史料(墓石の碑文) 編集

故講師中信教天心長山六郎夫婦の墓 編集

君のは長山、通称は六郎なり[2]伯耆国西伯郡中浜村佐斐神の人なり[2]
天保十四年(一八四三)九月十六日出生す[2]農を業とし地方の名族なり[2]。幼にして学を好み黒住教を尊信す[2]
明治十一年(一八七八)十一月、教導職に補し、試補より累進して遂(つい)に講師権中信教に至る[2]。君夙(つと)に邸内に講社を設立し、又土地を呈供し、教会所を建築して其(そ)の所長となる[2]
其の間或(あるい)は伯耆国の分局幹事宗忠神社新築の世話係長、或は諮問会議員、或は教務を所辨(べん)して以て人心を奨励し、信徒をして斯道に薫化せしめし其の功尠(すく)なからず[2]
四十一年八月十三日、病を以て歿す[2]享年六十有六[2]。管長其の功績を賞して中信教を贈り、玆(ここ)に此(こ)の碑を建設して以て不朽に伝う[2]
大正六年丁巳四月上幹[2] 春塘三木惟一識[2]

参考文献 編集

  • 『境港市史 下巻』昭和61年(1986年) 544頁

関連項目 編集

脚注 編集

  1. ^ 『境港市史 上巻』406頁
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m 『境港市史 下巻』(昭和61年(1986年、544頁)
  3. ^ 足立氏系譜(武家家伝)中国地方の足立氏足立氏の歴史