長岡 護全(ながおか もりはる[1]1881年明治14年)3月31日 - 1904年(明治37年)8月31日[2])は日本華族陸軍少尉。官位は正五位勲六等功五級

元(第12代)熊本藩細川護久の次男。母は鍋島宏子(鍋島直正の娘)。異母兄に細川護成細川家第15代当主)、弟に細川護晃細川護立(細川家第16代当主)がいる。

幼少時、学習院において皇太子(のちの大正天皇)の学友を仰せつかる[3]。1896年(明治29年)15歳で長岡家を継ぎ、叔父・長岡護美子爵の養子となる。1899年(明治32年)7月、学習院中等学科を卒業。1901年(明治34年)12月、志願して近衛師団騎兵連隊に入り士官候補生となる。1903年(明治36年)11月30日陸軍士官学校卒。

1904年(明治37年)日露戦争が勃発するや出征し[1]、近衛師団司令部陸軍騎兵少尉として朝鮮満州を転戦。定州にて負傷[1]、のち分水嶺(岫巌西北方約9)の戦いで感状を受ける偉勲を樹てたが[1]、同年8月31日遼陽の会戦において戦死した[1]

1906年(明治39年)11月男爵松井敏之の主唱により、熊本市水前寺成趣園内に銅像が建立された[4][5]

脚注 編集

  1. ^ a b c d e 熊本市 1932, p. 818.
  2. ^ 平成新修旧華族家系大成』下巻(霞会館、1996年)p.226
  3. ^ 熊本市 1932, pp. 818–819.
  4. ^ 『日露戦役記念写真帖』熊本凱旋軍歓迎会、1907年、115頁。
  5. ^ 熊本市 1932, p. 819.

参考文献 編集

  • 熊本市 編『熊本市史』熊本市、1932年。