長崎 高頼(ながさき たかより、生没年不詳)は、鎌倉時代末期の武士長崎光綱の息子[1]で、長崎円喜の弟。通称は三郎左衛門尉。

人物・経歴 編集

北条貞時高時時代の御内人で、兄・円喜の補佐役として鎌倉幕府奉行人を歴任した。

甥の内管領高資の専横が激しくなるとそれを苦慮した高時の命令により、元弘元年(1331年)、工藤七郎右衛門入道、丹波長朝、宮内少輔忠時朝臣、原新左衛門入道らとともに高資追討を計画するが事前に発覚し、捕らえられて奥州に配流された。この事件は嘉暦の騒動後もくすぶっていた長崎氏安達氏、そして北条得宗家の権力闘争が表面化したものであると思われる。

2年後の元弘3年/正慶2年(1333年)に鎌倉幕府は滅亡するが(元弘の乱)、そのときの高頼の動向は不明である。

脚注 編集

  1. ^ 通称が「三郎」なので、三男であった可能性がある。