長州藩の家臣団(ちょうしゅうはんのかしんだん)では、長州藩主家毛利氏に仕えたその一門及び家臣団について記述する。

支藩 編集

一門八家 編集

一門六家と永代家老家にあたる。

一族 編集

寄組 編集

重臣の家柄で大組頭や手廻頭などに任命され、加判、当職(国相)当役(行相)などの家老職に抜擢されることもあった。時代により異なるが約60家があった。大身の者が多く、一門六家、永代家老とともに自身の家臣団(陪臣)を抱えていた。

大組 編集

藩主毛利氏の直属の家臣で藩内門閥士族。馬上を許された広義の上級家臣で中士上等。8組あり、2組が交代で江戸藩邸を、その他の6組は萩城の警護を担当。別名は馬廻組、八組。

また享保3年(1718年)に明倫館創建時に儒者や軍法新陰流剣術筆道槍術礼法師範で遠近附や寺社組から昇格した家が13家ある。

遠近附 編集

中士下等。別名を馬廻通ともいう。享保3年(1718年)に馬術、大筒師範家であるために無給通から遠近附に昇格した家が8家ある。

船手組 編集

寺社組 編集

下士上等。儒者、医師、絵師、茶道、能狂言師など芸で仕えた。

無給通 編集

下士上等。無給通総頭が統率。給地を支給されない。

徒士 編集

  • 徒士総頭が統括。

三十人通 編集

  • 御目見え以下。この家格までが士分であった。

その他家格 編集

  • 士雇
    足軽・中間の功労者が昇進の一代限りの身分で、準士の扱い。
  • 足軽・中間(軽卒)
    武士階級に属するが、士分ではなく武家奉公人と呼ばれ、士分との間に厳格な壁があった。また、一門六家、永代家老、寄組の家臣である陪臣も士分(家士)と卒の区分があり、藩内における身分はその家の中で士分に準じる者は藩士の次に位置し、卒に準じる者は藩卒の次であった。

参考文献 編集

  • 『三百藩家臣人名事典 6』(新人物往来社、1990年10月5日)
  • 『萩市史 第一巻』 萩市史編纂委員会
  • 森本繁『戦国最強の海上軍団・毛利水軍』(新人物往来社、1991年) ISBN 978-4404018342
  • 『近世防長諸家系図綜覧』(マツノ書店)
  • 『防長回天史』