長池徳士
長池 徳士(ながいけ あつし、1944年2月21日 - )は、徳島県鳴門市出身の元プロ野球選手(外野手、指名打者)、野球解説者。旧名及び本名は長池 徳二(ながいけ とくじ)で、1979年に現在の「徳士」に改名。
基本情報 | |
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国籍 |
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出身地 | 徳島県鳴門市 |
生年月日 | 1944年2月21日(77歳) |
身長 体重 |
175 cm 82 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 外野手、指名打者 |
プロ入り | 1965年 ドラフト1位 |
初出場 | 1966年4月9日 |
最終出場 | 1979年10月14日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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コーチ歴 | |
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この表について
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現役時代は阪急ブレーブス一筋で14シーズンにわたりプレーしたことから、「ミスターブレーブス」として親しまれた[1][注 1]。1967年から1975年にかけて阪急の不動の四番打者を務め、通算338本塁打は現在も球団記録である[1][2][注 2]。本塁打王に3回輝き、9年連続で25本塁打以上を記録するなど、球界を代表する「右の大砲」として活躍した[1][3]。パ・リーグ初のベストナイン(指名打者部門)を受賞している。
経歴編集
プロ入り前編集
徳島県立撫養高等学校ではエースとして1960年秋季四国大会決勝に進出、高橋善正のいた高知商を降し、翌1961年の春の選抜出場を決める。しかし選抜では2回戦(初戦)で松江商に敗退[4]。夏は県予選準々決勝で城南高に敗れ、甲子園には届かなかった。3年生時に南海ホークスのテストを受けたが、鶴岡一人監督に「使い物になるには4年はかかるな。遊びに行ったつもりで大学行ってこい」の言葉により、鶴岡の母校法政大学経営学部へ進学した[5]。
法大では外野手に転向する。東京六大学野球リーグでは在学中3度の優勝を経験した。1964年秋季リーグで首位打者を獲得。同年10月には、東京五輪デモンストレーションゲームとして開催された日米大学野球選抜試合に六番打者、右翼手として出場している。4年生の1965年春季リーグではエース里見忠志を擁し優勝に貢献。直後の全日本大学野球選手権大会に出場するが、1回戦で中京大に敗退している。リーグ通算60試合出場、217打数62安打、打率.286、3本塁打、30打点。ベストナイン3回。法大時代は通算3本塁打の成績が示すとおり長距離砲というわけではなかった。同期には外野手の鎌田豊がいる。
大学を卒業したら南海入団の約束になっていたが、その年からプロ野球はドラフト制度を導入。阪急ブレーブスが1965年のドラフトで1位指名を行う(南海は2位指名の予定だった)。ドラフト制度の目的には高騰する一方だった契約金の抑制もあり、南海と3000万円が約束されていたにもかかわらず、1000万円に抑えられた。希望球団に入れず、契約金も抑えられたことで「ホンマ、えらいもん(ドラフト制度)ができよったすよ」と長池は苦笑混じりに振り返っている[5]。
現役時代編集
入団後は体が硬く、プロでは無理との烙印を押されたが、柔軟体操によって克服。当初はプロのスピードについていけず、特に内角が全く打てなかった。しかし、「スペンサーと並ぶ日本人のスラッガーを作りたい」という西本幸雄監督の要請により青田昇コーチが指導し、徹底した内角打ちの練習が行われた。最初は引っ張れないどころか当たりもせず、ムキになって詰まってばかりで右の掌が腫れあがったという[5][6]。そんな時、青田コーチが「ボールの内にグリップを入れて、内側から打て」とアドバイスし、それを会得するために練習を繰り返しているうちに左肩にアゴを乗せ、腕を大きく後ろに引いて大きくスタンスをとる独特のフォームが生み出された。このフォームは長池の代名詞となった。これは外角のスライダーを打ちにいく際、正面を向いている内にそうなったという。打席では基本的に本塁打にできる打球だけを狙い、外角の球は本塁打にできなかったため、内角を意識するようになった。
1年目の1966年は開幕戦で七番打者、右翼手として起用されるが、なかなか調子が上がらず低迷。しかし8月には中堅手に定着し、9月からは四番打者に回る。翌1967年は、開幕から四番打者として起用され、6月には東映の尾崎行雄・南海の杉浦忠から2試合に跨って4打席連続本塁打を放つなど活躍。同年のオールスターゲーム第2戦では小川健太郎から3点本塁打を放ち、MVPを獲得、青田の指導と長池の努力が実ったシーズンになった。最終的にシーズンを通して129試合に出場して「27本塁打・78打点」を記録。打線を引っ張り、阪急の初優勝に貢献した。優勝決定試合では胴上げされ、歓喜のビールかけでは満面の笑みで青田コーチにビールをかけた。苦手だった内角打ちも「絶品」と言われるほど得意となり、今も長池は長距離打者としての自身のことを「青田さんの作品」と称している。ただし、青田は「僕が用事があると言っても長池は帰してくれなかった。1人だけ見ているわけにはいかないからアドバイスしたら離れるんだけど、すぐ『見てくれ』と引き戻されたり。僕が作ったというより、長池自身が努力したんよ」と語っている[5]。同年の巨人との日本シリーズでも全6試合に四番打者として起用されるが、23打数4安打と真価を発揮できなかった。翌1968年は打率が低迷するものの、30本塁打を記録しリーグ連続優勝に貢献。同年の巨人との日本シリーズでは再度日本一を逸するものの、16打数6安打8打点3本塁打と打ちまくり、シリーズ敢闘選手賞を獲得した。
1969年は矢野清が開幕から四番打者に座るが不調が続き、8月には長池が四番に復帰。「打率.316・41本塁打・101打点」の成績で本塁打王と打点王の2冠に輝き、野村克也の9年連続本塁打王を阻止する。リーグ3連覇の原動力となりMVPを受賞した。同年の巨人との日本シリーズでも第3戦で延長11回に高橋一三からサヨナラ安打を放つなど活躍。チームは敗退したが2年連続でシリーズ敢闘選手賞を獲得した。1970年は開幕から四番打者を務めるも、アキレス腱を痛めた影響で28本塁打に終わる。
1971年、「打率.317・40本塁打・114打点」で2度目のMVPを授賞。またこの年、当時日本新記録となる32試合連続安打を成し遂げた。新記録がかかった32試合目もプレッシャーなどまるで感じさせず、3打席連続本塁打と言う豪快な形での達成だった[7]。これは1979年に広島の高橋慶彦に塗り替えられたが、パ・リーグ記録として現在も残っている。しかし4度目の巨人との日本シリーズも敗退、日本一には届かなかった。
1970年、1971年と2年連続でライバル視していた大杉勝男に本塁打王を許し、特に71年は長池が40本塁打を記録しながら大杉が41本塁打で本塁打王を獲得したため、「大杉に勝つにはまず40本打たねば。」と大いに意識していたという。1972年も長池が以前から患っていたアキレス腱と肘の故障で1ヵ月ほど休んでいる間に、大杉は5月に月間15本塁打を放つなど、オールスター戦までに15本差をつけられる。しかし後半戦から猛スパートをかけ、9月には自身も当時プロ野球記録の月間15本塁打を達成。大杉が40本塁打、長池が39本塁打で迎えた最終試合のロッテ戦にて、長池は2本塁打を放ってひっくり返し、逆転本塁打王となった。最終戦での逆転本塁打王は史上初で、阪急ベンチはお祭り騒ぎとなり、最大差の逆転劇として語り草になっている[8]。長池が41本塁打、大杉が40本塁打となって前年とは立場が逆になったが、長池は「大杉の無念さは、俺には痛いほど分かる」と喜びを表に出すことはなかったという[注 3]。1972年の巨人との日本シリーズでは3本塁打を放ち気を吐くが、チームは5回目の挑戦でも巨人の壁を崩せなかった。
1973年も不動の四番打者として出場。同年は開幕から好調で、打率もオールスター前には.380前後あり、一時は三冠王も狙える成績だった。シーズン終盤に打率が.313まで落ちてリーグ4位に甘んじ、三冠王を逃したものの、最終的に「43本塁打・109打点」で本塁打王、打点王の二冠に輝いた[注 4]。
1969年から1973年の5シーズンのうち、打率3割以上を4回、40本塁打以上を4回(うち1971年から3年連続で40本塁打を達成。また、「打率3割、40本塁打」を3回達成)記録しており、この期間が自身にとっての「絶頂期」といえる[1]。
1974年は「打率.290・27本塁打・96打点」の成績で打点王を獲得。
1975年、この年から指名打者制度が導入されたが、監督の上田利治は2年連続のV逸から「センターラインの強化」を掲げ、二塁手にボビー・マルカーノ、右翼手にバーニー・ウイリアムス (1948年生の外野手)を獲得し、右翼手からDHにコンバートされる。DHでのベストナインに選出された。チームも日本シリーズで広島を破り初優勝を果たす。このシリーズでは全6試合に左翼手として起用された。翌年、阪急は6度目の挑戦で悲願の打倒巨人を果たしたが、長池は代打で2試合のみの出場にとどまり、「あのときはもう僕は終わっていたから面白くない」と振り返っている[6]。初のDHベストナインを受賞しているが、DHについては「気持ちとして半分しか野球をやっていない感じ。手を抜いていたわけじゃないけど、やっぱり打って守ってが野球」と、否定的なニュアンスを述べている[6][1]。このシーズン以後、膝などの度重なる故障に悩まされるようになり、指名打者のレギュラーを高井保弘に明け渡す機会が増えて、代打での出場が目立つようになった。1979年より打撃コーチ兼任となり、同年限りで現役引退。
現役引退後編集
引退後は背番号3のまま、阪急一軍打撃コーチ(1980年 - 1982年)、毎日放送解説者(1983年 - 1984年, 1986年)、西武一軍打撃コーチ(1985年)、南海一軍打撃コーチ(1987年 - 1988年)日本テレビ・福岡放送・ラジオ日本解説者(1989年 - 1992年, 1996年)、横浜一軍ヘッド兼打撃コーチ(1993年 - 1995年)、ロッテ一軍ヘッド兼守備コーチ(1997年)・ヘッドコーチ(1998年)を歴任。 コーチとしての手腕は高く、1990年と1991年には野村克也監督の要請でヤクルト西都キャンプ臨時コーチを務め、1990年は長嶋一茂、1991年は古田敦也をそれぞれマンツーマンで指導。この時「(古田は)30本(塁打)打ちますよ」と野村に進言し、事実、当年に首位打者、1992年に33本塁打をマークした。後に野村よりヤクルトのへッドコーチとして誘われるが辞退し、1993年にも巨人の監督に就任した長嶋茂雄の参謀としてヘッドコーチの候補に挙がっていた。広岡達朗監督に誘われた西武では秋山幸二・金森栄治を育て、2年ぶり3度目のリーグ優勝に貢献し、1996年にゼネラル・マネージャーを務めていた広岡からのロッテの打撃コーチ要請を辞退するが、横浜時代監督・ヘッドコーチの関係で共にした近藤昭仁が翌年監督に就任した事で、広岡の退団後にヘッドコーチとして入閣する。南海では佐々木誠、近藤の下では鈴木尚典・石井琢朗・波留敏夫(横浜)、小坂誠・福浦和也(ロッテ)を育てた。ロッテ退団後は1999年から福岡放送解説者に復帰し、2004年にはオリックス宮古島キャンプ臨時打撃コーチを務めた。2009年までは日本テレビ解説者、2012年まではラジオ日本・ラジオ関西解説者も兼任し、現在は福岡放送のみで活動。また、1999年から2005年までスポーツニッポン評論家も兼任していた。
選手としての特徴・人物編集
本塁打王に3回、打点王に3回輝き、4番打者を務めた9年間(1967年 - 1975年)の全てのシーズンで「25本塁打以上」を記録(うち40本塁打以上が4回)。安打に対する本塁打の比率が非常に高い打者(実際、通算のIsoPは0.249になる)であったが、打率を残せる打者でもあり、「打率.300以上」を4回クリアしており、うち3回のシーズンで40本塁打を同時に達成している[1][3]。
山口高志によると、1975年ごろは自家用車のキャデラックで球場入りする際に、夏場でもカーエアコンをつけず、窓も開けずにレインコートを着て汗を出していたという[9][注 5]。
詳細情報編集
年度別打撃成績編集
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1966 | 阪急 | 68 | 206 | 198 | 18 | 52 | 6 | 4 | 7 | 87 | 22 | 1 | 2 | 2 | 0 | 5 | 0 | 1 | 29 | 3 | .263 | .284 | .439 | .724 |
1967 | 129 | 523 | 466 | 66 | 131 | 15 | 0 | 27 | 227 | 78 | 12 | 9 | 0 | 7 | 44 | 2 | 6 | 54 | 12 | .281 | .351 | .487 | .838 | |
1968 | 132 | 547 | 478 | 73 | 114 | 17 | 1 | 30 | 223 | 79 | 12 | 3 | 1 | 7 | 57 | 3 | 4 | 72 | 7 | .238 | .325 | .467 | .791 | |
1969 | 129 | 551 | 487 | 95 | 154 | 22 | 2 | 41 | 303 | 101 | 21 | 8 | 0 | 7 | 54 | 4 | 3 | 49 | 14 | .316 | .388 | .622 | 1.010 | |
1970 | 121 | 486 | 424 | 59 | 131 | 20 | 1 | 28 | 237 | 102 | 18 | 7 | 0 | 9 | 50 | 3 | 3 | 46 | 9 | .309 | .386 | .559 | .945 | |
1971 | 130 | 558 | 476 | 87 | 151 | 19 | 2 | 40 | 294 | 114 | 8 | 9 | 1 | 7 | 69 | 9 | 5 | 37 | 19 | .317 | .409 | .618 | 1.027 | |
1972 | 111 | 452 | 386 | 72 | 112 | 11 | 1 | 41 | 248 | 95 | 6 | 4 | 0 | 7 | 56 | 4 | 3 | 36 | 17 | .290 | .384 | .642 | 1.027 | |
1973 | 128 | 559 | 479 | 89 | 150 | 16 | 2 | 43 | 299 | 109 | 5 | 5 | 0 | 5 | 73 | 12 | 2 | 46 | 13 | .313 | .406 | .624 | 1.030 | |
1974 | 121 | 485 | 442 | 60 | 128 | 18 | 1 | 27 | 229 | 96 | 9 | 7 | 0 | 4 | 38 | 1 | 1 | 38 | 14 | .290 | .347 | .518 | .865 | |
1975 | 103 | 423 | 378 | 55 | 102 | 12 | 0 | 25 | 189 | 58 | 6 | 3 | 1 | 5 | 38 | 2 | 1 | 29 | 13 | .270 | .338 | .500 | .838 | |
1976 | 110 | 376 | 344 | 25 | 82 | 10 | 0 | 12 | 128 | 59 | 0 | 4 | 2 | 4 | 25 | 1 | 1 | 41 | 12 | .238 | .292 | .372 | .664 | |
1977 | 58 | 164 | 142 | 21 | 39 | 2 | 0 | 10 | 71 | 27 | 0 | 0 | 0 | 4 | 18 | 0 | 0 | 19 | 3 | .275 | .356 | .500 | .856 | |
1978 | 55 | 120 | 104 | 10 | 27 | 1 | 0 | 5 | 43 | 21 | 0 | 0 | 0 | 2 | 14 | 0 | 0 | 13 | 3 | .260 | .347 | .413 | .761 | |
1979 | 54 | 73 | 68 | 3 | 17 | 0 | 0 | 2 | 23 | 8 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 0 | 0 | 7 | 1 | .250 | .301 | .338 | .640 | |
通算:14年 | 1449 | 5523 | 4872 | 733 | 1390 | 169 | 14 | 338 | 2601 | 969 | 98 | 61 | 7 | 68 | 546 | 41 | 30 | 516 | 140 | .285 | .361 | .534 | .895 |
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル編集
表彰編集
- 最優秀選手:2回 (1969年、1971年)
- ベストナイン:7回 (外野手部門:1967年、1969年 - 1973年、指名打者部門:1975年)※1975年は指名打者部門でのパ・リーグ史上初の受賞
- オールスターゲームMVP:3回 (1967年 第2戦、1970年 第1戦、1971年 第2戦)
- 日本シリーズ敢闘賞:2回 (1968年、1969年)
- パ・リーグプレーオフMVP:1回 (1975年)
- パ・リーグプレーオフ敢闘賞:1回 (1974年)
- 日本プロスポーツ大賞 殊勲賞:1回 (1971年)[10]
記録編集
- 初記録
- 初出場・初先発出場:1966年4月9日、対東映フライヤーズ1回戦(後楽園球場)、7番・右翼手で先発出場
- 初安打:1966年7月23日、対南海ホークス13回戦(阪急西宮球場)、7回裏に中田昌宏の代打で出場、渡辺泰輔から
- 初本塁打・初打点:1966年7月24日、対南海ホークス14回戦(阪急西宮球場)、5回裏に高橋栄一郎から2ラン
- 節目の記録
- 100本塁打:1969年9月27日、対ロッテオリオンズ27回戦(阪急西宮球場)、2回裏に川畑和人から左越ソロ
- 150本塁打:1971年6月9日、対近鉄バファローズ8回戦(阪急西宮球場)、7回裏に板東里視から左越2ラン
- 200本塁打:1972年9月3日、対西鉄ライオンズ21回戦(阪急西宮球場)、5回裏に田中章から左越ソロ ※史上19人目
- 1000安打:1974年4月10日、対日本ハムファイターズ前期2回戦(藤崎台県営野球場)、5回表に三浦政基から中前安打 ※史上85人目
- 1000試合出場 1974年6月8日、対南海ホークス前期9回戦(阪急西宮球場)、4番・右翼手で先発出場 ※史上172人目
- 250本塁打:1973年9月14日、対太平洋クラブライオンズ後期10回戦(平和台球場)、1回表に柳田豊から中越ソロ ※史上11人目
- 300本塁打:1975年6月22日、対太平洋クラブライオンズ前期13回戦(平和台球場)、7回表に田中章からソロ ※史上8人目
- その他の記録
- 月間15本塁打(1972年9月)
- 32試合連続安打(1971年5月28日 - 7月6日)
- 53試合連続出塁(1972年7月29日 - 10月1日)
- 4打数連続本塁打(1967年6月4日 - 6月6日)
- 11試合連続打点(1974年6月8日 - 6月25日)
- オールスターゲーム出場:9回(1967年 - 1975年)
背番号編集
- 3 (1966年 - 1982年)
- 81 (1985年)
- 72 (1987年 - 1988年、1993年 - 1995年)
- 82 (1997年 - 1998年)
登録名編集
- 長池 徳二 (ながいけ とくじ、1966年 - 1978年)
- 長池 徳士 (ながいけ あつし、1979年 - )
関連情報編集
現在の出演番組編集
脚注編集
注釈編集
- ^ 長池が付けていた背番号3は永久欠番になる予定だったが、1985年から他球団で打撃コーチになった為に取り消し。なお、阪急最後の年に背番号3を付けたのは石嶺和彦である。
- ^ 阪急が身売りした後に誕生したオリックス時代を含めての球団記録である。
- ^ それだけに1978年の日本シリーズ第7戦で起きた大杉の「ファールのホームラン事件」(空白の79分)は複雑な気持ちであったという。チームのセンターライン強化により自身がDHに回されたことも触れている。(福本豊の著書『追憶の球団 阪急ブレーブス 光を超えた影法師』より)
- ^ なお、この時の首位打者はチームメートの加藤秀司だった
- ^ 自家用車を持たなかった山口は西京極球場の試合などで長池の車に便乗させてもらっていた。
出典編集
- ^ a b c d e f “阪急不動の4番は長池徳二!現役時代の成績は?”. Baseball Crix. 2018年5月1日閲覧。
- ^ “運も実力のうち!? NPB通算メモリアル弾達成者10人で本塁打王は1人だけ”. Full-Count. 2018年5月1日閲覧。
- ^ a b “【世代別ベストナイン】「1943年」攻撃力に勝る“四番打者世代”/松原誠、土井正博、長池徳二、マニエル”. 週刊ベースボールONLINE. 2018年5月1日閲覧。
- ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
- ^ a b c d Sports Graphic Number編『豪打列伝』(文春文庫ビジュアル版)
- ^ a b c 『阪急ブレーブス黄金の歴史 よみがえる勇者の記憶』(ベースボール・マガジン社)における加藤英司との対談より
- ^ 【7月6日】1971年(昭46) 長池徳士、妻の前での日本記録は豪快な本塁打 - スポニチ
- ^ 【10月15日】1972年(昭47) 残り1試合 長池徳士 奇跡の逆転本塁打王 - スポニチ
- ^ 鎮勝也『伝説の剛速球投手 君は山口高志を見たか』講談社、2014年、p.155。
- ^ “歴代授賞者”. 日本プロスポーツ大賞. 公益財団法人日本プロスポーツ協会. 2017年11月25日閲覧。
関連項目編集
外部リンク編集
- 個人年度別成績 長池徳士 - NPB.jp 日本野球機構