長澤鼎

明治時代の実業家

長澤 鼎(ながさわ かなえ、本名:磯永彦輔1852年2月20日嘉永5年2月1日[1]) - 1934年昭和9年)3月1日[2])は幕末薩摩藩士。13歳の時、藩命でイギリスに留学し、後にアメリカ合衆国カリフォルニアに渡ってワイナリーを経営し、「カリフォルニアのワイン王」[2]「葡萄王」「バロン・ナガサワ」と呼ばれる。

ながさわかなえ
長澤鼎
Nagasawa Kanaye.png
『実業之日本』6巻17号(1903年)より長澤鼎
生誕磯永彦輔
1852年2月20日
嘉永5年2月1日
日本の旗 日本薩摩国鹿児島城下上之園通町
(現・鹿児島県鹿児島市上之園町)
死没 (1934-03-01) 1934年3月1日(82歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国カリフォルニア州
国籍日本の旗 日本
職業ファウンテングローブ・ワイナリー経営者
活動拠点アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国カリフォルニア州
父:磯永孫四郎
母:フミ
親戚弟:赤星弥之助
甥:赤星鉄馬
甥:伊地知共喜

経歴編集

薩摩国鹿児島城下上之園通町(現在の鹿児島県鹿児島市上之園町)にて磯永孫四郎とフミの四男として誕生する[3]。生家は代々の天文方で、父親の磯永孫四郎は儒学者であった。

1864年(元治元年)、薩摩藩の洋学校開成所に入り、英語を学ぶ。薩英戦争で苦戦した薩摩藩は交戦相手のイギリスと結んで近代化を図ることに決め、1865年(慶応元年)、13歳の長澤は薩摩藩第一次英国留学生に最年少で加わった[2]。渡英した一行には、長澤の親友となる森有礼のほか、吉田清成五代友厚鮫島尚信寺島宗則がいた。他の留学生はロンドン大学に入ったが、長澤は年齢が入学年齢に達していなかったため、スコットランドアバディーンにあった貿易商トーマス・ブレーク・グラバーの実家に身を寄せ、地元のグラマー・スクールに2年間通う。成績優秀者として英文法など6科目に名が上がり、喧嘩も強かった。渡米後も英語はスコットランド訛りだったという[2]

幕末維新の動乱で薩摩藩からの送金が途絶え、多くの薩摩藩英留学生が帰国したが、長澤を含む森ら6名は、性的心霊主義者として知られるトマス・レイク・ハリスを信奉していたローレンス・オリファントの招きで慶応3年(1867年)に渡米し、ハリスが主宰するニューヨーク州ブロクトンのキリスト教系新興宗教団体「新生兄弟社(Brotherhood of the New Life)」に入り、信者らと共同生活を送る。薩摩藩留学生のうち何人かはハリスの思想に違和を感じてすぐ離反したが、長澤は森らとともに残り、翌1868年には森らも帰国した。長澤は唯一人教団に残って厳しい労働と信仰生活を送りながら、1870年には9月から3か月ほどコーネル大学にも通った。1871年にアメリカ永住を宣言[4]。教団の経営のためにワイン醸造をニューヨークブルックリンでジョン・ハイド博士から学び、ワイン原料となる葡萄栽培を中心とする農業で財政を支えた。

日本初のアメリカ駐在の少弁務使として首都ワシントンD.C.に赴任してきた森と再会した長澤は、1871年頃に日本帰国の相談をするが、揺れ動いた末、米国残留を決めた[2]

1875年、教団はカリフォルニアサンタローザに1.6平方キロメートルの土地を買い、ハリスが Fountain Grove(ファウンテングローブ、泉の湧く木立)と名付けた。1882年には60万ガロン(約227万リットル)を貯蔵できるワイン醸造所が完成し、1893年には当時のカリフォルニアワイン生産量の1割(21万ガロン)を占める大手に成長した。品質も高く、州内から800以上のワイナリーが参加する品評会で2位に選ばれたこともある。製品やイギリスや日本へも輸出された[2]

しかし新生社の異端思想に対し、新聞が反教団運動を行ったために、1890年代前半にハリスが引退すると教団は事実上解散した。

1900年、長澤はワイナリーを教団から買い取り、品質向上に努力し、彼のファウンテングローブ・ワイナリーをカリフォルニア州1十大ワイナリーの一つにまで育て上げた。カリフォルニア大学デービス校の教授に醸造技術を学ぶなど研究を続け、高級ワインに育て上げた上に、フランスには特約店を設け、苗木を輸入するなど、商才にも長けていた[5]。彼のワインは米国内のワインコンクールで好成績を納め、イギリスに輸出された最初のカリフォルニアワインもナガサワ・ワインである。

長澤は1906年に死去したハリスから農場など遺産を引き継いだ。独身だったため、甥の伊地知共喜とその妻ヒロら親族を呼び寄せていた。長澤は威厳ある雰囲気の一方で温厚・気さくでもあり、農学者バーバンク、新渡戸稲造ら著名人が来訪したほか、農場の労働者と昼食を共にした[2]

ワイン王となった長澤とその一族には次第に暗い影が差し始める。農園が害虫や火災に見舞われたほか、1920年施行の禁酒法がワインを含む酒類ビジネスに打撃となった。アメリカ合衆国西海岸では日本の台頭や日系アメリカ人増加に対して排日運動が高まっており、日本人による土地の所有や購入・賃貸が禁じられ、日本からの移民が全面禁止された[2]

長澤は1934年3月1日、自宅で死去した。享年82。生前、成功談や苦労話は偉い人のいうことで、自分のような者がすることではないと謙遜していたが、甥の妻であるヒロの回想では、身内には、普通なら死んでしまうような苦労だったと本音を語っていた[2]

ワイナリーは甥の伊地知共喜が継ぎ、その一部はパラダイスリッジ・ワイナリーとして継承されている。莫大な土地財産はカリフォルニア州外国人土地法等のため相続できず他人の手に渡った[6]。遺言では遺産を甥夫妻の子であるコース家に譲るとしていたが、実際には親族は遺産の3%の現金を相続できただけで、ファウンテングローブを追われた。日本との太平洋戦争開戦後は、日系人キャンプへ送られた[2]

長澤の存在は一般的にはほとんど知られていなかったが、1983年に来日したアメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガンが日米交流の祖として長澤の名を挙げたことにより、広く認知されるようになった[4]。レーガンは国会演説で、長澤を「カリフォルニアの葡萄王」「サムライから実業家になり、日米両国に多くをもたらした」と賞賛した[2]。2011年末に鹿児島県のいちき串木野市職員がサンタローザから日本へ持ち帰った資料から、日記原文などが見つかった[7]

家族編集

兄に磯長吉輔。吉輔の子に写真家の磯長海洲。実弟に、金融と武器で財を成した赤星弥之助[8][9]。甥(弥之助の子)に赤星鉄馬がいる。

エピソード編集

墓所・霊廟・銅像編集

 
若き薩摩の群像

遺骨は戦後日本に帰国し、鹿児島市冷水町の興国寺墓地に埋葬された[10]昭和57年(1982年)、鹿児島中央駅前東口広場に彫刻家の中村晋也が制作した薩摩藩英国留学生の像『若き薩摩の群像[11]』の一人として銅像が建てられている。

脚注編集

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  1. ^ 犬塚孝明「長沢鼎という生き方―回想ノートから―」『想林』創刊号(鹿児島純心女子短期大学江角学びの交流センター地域人間科学研究所編、2010年)
  2. ^ a b c d e f g h i j k 【みちものがたり】カリフォルニア・ワイン王の道(米国)13歳の密航留学生、西欧へ/白人に日本人の意地示す『朝日新聞』土曜朝刊別刷り「be」2019年11月2日(6-7面)2020年11月9日閲覧
  3. ^ 長沢鼎(磯永彦助)誕生地 - 鹿児島市、2013年8月11日閲覧。
  4. ^ a b 森孝晴「アメリカに生きたサムライ・長沢鼎」『鹿児島国際大学、国際文化学部論集』2015年9月30日
  5. ^ カリフォルニアのワイン王・長沢鼎」『羅府新報』October 23, 2014
  6. ^ 侍から葡萄王へ カリフォルニアの日本人パイオニア 在サンフランシスコ日本国総領事館、2005年3月号
  7. ^ 森孝晴「長沢鼎の手紙の下書きとそこに込められた思いと精神」『国際文化学部論集』第13巻第1号(2012年4月)
  8. ^ 赤星弥之助 日本人名大辞典
  9. ^ 新薩摩学風土と人間』鹿児島純心女子大学国際文化研究センター、図書出版 南方新社, 2003
  10. ^ 門田明「長沢鼎英文日記鹿児島県立短期大学『The annual research report 23』1-23(1995年3月25日)
  11. ^ 若き薩摩の群像”. 鹿児島県観光連盟. 2014年5月14日閲覧。

関連文献編集

外部リンク編集