長野賢忠

戦国時代前期の上野国の武将

長野 賢忠(ながの けんちゅう、生没年不詳)は戦国時代前期の上野国の武将。上野長野氏の一族。賢忠は法名(「橋林寺殿節菴賢忠大禅定門」)であり、実名は不詳。

永正3年(1506年)に賢忠が父とみられる聖仲(顕業)の菩提寺・橋林寺に寺領を寄進している。家督継承のこの時期に既に法名である「賢忠」を名乗っている事から、黒田基樹は既に30歳を超えていたと推定している。大永4年(1524年)に箕輪城の長野方業が長野顕景を攻めた際に同調した長野宮内大輔は賢忠のこととみられている(黒田説では方業及び房業は賢忠の兄弟とする)。天文10年(1541年)には、深谷上杉憲賢那波宗俊成田親泰桐生助綱とともに金山城横瀬泰繁を攻めて敗退した。これが文献上の終見である。

没年については永禄6年(1563年)とする文献があるが、これは賢忠の代に厩橋長野氏が滅亡したとする誤認に由来する伝承によるもので、実際には賢忠の後に数代続いていることから成り立ちにくい(黒田基樹は天文10年段階で既に70歳を越しており、同年を確認できる活動の下限を位置づける)。また、賢忠の次に文献に登場し、天文22年以前に没した「道安(弾正入道)」という人物の位置づけで意見が分かれている。久保田順一は道安を賢忠と同一人物の可能性を指摘しているが、黒田基樹は今井善一郎の研究[1]に基づき、道安の法名は「高竹院殿泰室道安庵主」で天文22年(1553年)12月24日に没した賢忠の嫡子と推定する。

天文22年12月29日に長野道賢が橋林寺に道安の焼香料として寺領を寄進しており、道安が賢忠本人、嫡男いずれであったとしても、道賢が道安の後継者として厩橋長野氏を継いだとみられる。

脚注 編集

  1. ^ 今井善一郎「初期の前橋城主について」(『群馬文化』78・79号、1965年)

参考文献 編集

  • 久保田順一「長野賢忠」(『戦国人名辞典』(吉川弘文館、2006年) ISBN 978-4-642-01348-2
  • 黒田基樹「戦国期上野長野氏の動向」『日本史攷究』35号、2011年/『戦国期 山内上杉氏の研究』岩田書院、2013年 ISBN 978-4-87294-786-1