条約港

不平等条約によって開港された港湾
開港5港から転送)

条約港(じょうやくこう)は、不平等条約によって開港を規定された港湾。開港場ともいう。

概要 編集

1842年南京条約で5港を開港したをはじめ、日本朝鮮などでも条約港が設定された。

条約港では治外法権をもつ租界外国人居留地が設定され、欧米列強の半植民地的支配の拠点となったが、その反面、条約港を中心として近代文明が導入された一面もある。

中国の条約港はその後の北京議定書天津条約下関条約などによりさらに拡大した。

中国(清) 編集

日本 編集

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画像外部リンク
  アメリカ式捕鯨によるマッコウクジラの捕獲位置と2種の「ジャパングラウンド」の範囲

1810年代末より、現在の北海道蝦夷地)・小笠原諸島ハワイ諸島を結んだ「ジャパン・グラウンド」(右の「画像外部リンク」参照)と呼ばれるマッコウクジラの良漁場に、鯨油獲得を目的にアメリカなどの捕鯨船団が集まり始めた。また、1840年から始まるアヘン戦争の結果、清とイギリスとの間で南京条約(1842年)が結ばれた。すると、アメリカも1844年望厦条約と呼ばれる修好通商条約を結び、清との貿易が活発化した。アメリカ国内では、1846年オレゴン条約によって英米共同占有だったオレゴン・カントリーに国境が引かれ、1848年には米墨戦争によって得たメキシコ割譲地にてカリフォルニア・ゴールドラッシュが始まるなど、太平洋に面した西海岸は活気付くことになる。

画像外部リンク
  アモイ(図中:XMN)とサンフランシスコ(図中:SFO)との間の大圏コース
(図中のPTYは1914年開通のパナマ運河の太平洋側出入口にあるパナマ市

一方、鎖国をしていた日本では、江戸幕府が1842年(天保13年)に薪水給与令を出し、外国船への補給を開国を伴わずに実施していたが、アメリカは1853年、北西太平洋での商船と捕鯨船の補給と安全のため日本に寄港地上陸を求め、開国を迫ることになった(黒船来航を参照)。1848年のアメリカ下院海軍委員会におけるキング委員の報告で「北太平洋横断航路」は、清の東海岸の東シナ海から、対馬海峡を経て日本海に入り、津軽海峡を通過して太平洋に出るか、あるいは、日本海を経ずに琉球諸島付近から太平洋に出て本州南方沖を通るかして、大圏コースアリューシャン列島付近を通過)でアメリカ西海岸に至る航路が想定されていた[1](清の廈門(アモイ)とアメリカのサンフランシスコとの間の大圏コースは右上の「画像外部リンク」を参照)。気象情報が不十分だった当時、台風を避けられる日本海経由は有効であり[1]、対馬海峡に近い長崎や津軽海峡に面した箱館(函館)対馬暖流津軽暖流)沿いという利点も加わって寄港に適した港であった。また、日本海が時化る冬季には、黒潮乗って南西諸島の間から太平洋に出れば黒潮沿いの下田も同様であった。さらに箱館と下田は「ジャパン・グラウンド」に近いため、捕鯨船の寄港にも都合が良かった。

和親条約上の寄港地(○:開港、×:結局開港せず)
調印日 条約名 寄港地
長崎 下田 函館
1854年03月31日
嘉永7年03月03日
日米和親条約
1854年10月14日
(嘉永7年08月23日
日英和親条約 ×
1855年02月07日
安政元年12月21日
日露和親条約 ×
1856年01月30日
(安政2年12月23日
日蘭和親条約 ×
1857年06月17日
(安政4年05月26日
日米追加条約 ×
 
日本沿岸での捕鯨(1855年)

1854年3月31日嘉永7年3月3日)に締結された日米和親条約に基いて下田と箱館の両港の寄港地としての開港が決まるが、下田が即日開港になったのに対し、箱館は1855年4月17日安政2年3月1日)に開港することになった[2][3]。なお、日米間以外の和親条約および日米約定の上では長崎も寄港地として開港することになっていたが、実際に開港するには至らなかった。

船舶の安全な航行・入港には日本沿岸および近海の測量した海図が必須であるが、これら和親条約の調印以前には例が少なく、調印後に諸外国によって本格的に作成され始めた[1]

1853年には「ジャパン・グラウンド」にある小笠原諸島の父島で、アメリカ合衆国が石炭補給所用の敷地を購入し(参照)、黒潮沿いでは1854年7月11日咸豊4年6月17日)、アメリカ合衆国と琉球王国との間で琉米修好条約が結ばれ、その後同様の琉仏修好条約琉蘭修好条約が結ばれた。

1858年安政5年)の日米修好通商条約を初めとする安政五カ国条約により、貿易を前提とした開港場として、箱館・神奈川(横浜)新潟兵庫(神戸)・長崎の5港が決められ、「開港五港」と呼ばれた。このうち、箱館以外は「四港」とも呼ばれる。

なお、1859年に始まるペンシルベニア・オイルラッシュ等によってアメリカには石油企業が育ち始めるが、その一方で鯨油の需要は低下していき、日本に寄港する外国の捕鯨船団も少なくなっていった。すなわち、当初の日本開国の動機であった清米間海路の中継地、および、捕鯨基地としての日本の地位は変化し、為替差益目的のの輸出入や、生糸などの日本の産品の輸出入が主目的になっていった。

日本の条約港
和暦天保暦
日本が使用)
西暦グレゴリオ暦
欧米諸国が使用)
開港5港
下田 箱館
(函館)
四港
長崎 神奈川
(横浜)
兵庫
(神戸)
新潟
北緯34度40分17.1秒 東経138度56分44.6秒 / 北緯34.671417度 東経138.945722度 / 34.671417; 138.945722 (下田) 北緯41度46分5秒 東経140度42分45.9秒 / 北緯41.76806度 東経140.712750度 / 41.76806; 140.712750 (箱館(函館)) 北緯32度44分36.2秒 東経129度52分22秒 / 北緯32.743389度 東経129.87278度 / 32.743389; 129.87278 (長崎) 北緯35度26分51.2秒 東経139度38分37.7秒 / 北緯35.447556度 東経139.643806度 / 35.447556; 139.643806 (神奈川(横浜)) 北緯34度41分8.6秒 東経135度11分31.7秒 / 北緯34.685722度 東経135.192139度 / 34.685722; 135.192139 (兵庫(神戸)) 北緯37度55分47.5秒 東経139度3分28.5秒 / 北緯37.929861度 東経139.057917度 / 37.929861; 139.057917 (新潟)
嘉永7年3月3日[2] 1854年3月31日[2] 和親開港[2]
安政2年3月1日[4] 1855年4月17日 和親開港[4]
安政6年6月2日[1] 1859年7月1日[1] 開港[1][5] 開港[1][6] 開港[1][7]
安政6年12月8日[2] 1859年12月31日[2] 閉港[2]
慶応3年12月7日[8] 1868年1月1日[1][8]   開港[1][8]
明治元年11月19日 1869年1月1日[1] 開港[1]

朝鮮 編集

朝鮮は1876年日朝修好条規釜山ほか2港の開港を定め、1880年元山1883年仁川が開港した。後にはアメリカ、イギリスフランスイタリアなどと締結した通商条約で条約港は拡大した。

参考文献 編集

  • "Japan's Early Experience of Contract Management in the Treaty Ports" Yuki Allyson Honjo, Routledge, Dec 19, 2013

脚注 編集

出典 編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k l 幕末から明治初年にかけての日本近海英国海図 ―日本水路部創設前の海図史― (PDF)海上保安庁「海洋情報部研究報告 第43号」 2007年3月28日)
  2. ^ a b c d e f g 下田港の歴史(下田市観光協会「伊豆下田観光ガイド」)
  3. ^ 「函館市史」通説編1 3編5章4節1-1〜2(函館市中央図書館)
  4. ^ a b 五稜郭・箱館戦争・箱館 年表五稜郭タワー
  5. ^ 【函館市|歴史】(日本開港五都市観光協議会)
  6. ^ 【長崎市|歴史】(日本開港五都市観光協議会)
  7. ^ 【横浜市|歴史】(日本開港五都市観光協議会)
  8. ^ a b c 【神戸市|歴史】(日本開港五都市観光協議会)
  9. ^ Landscape View at Yokohama(Yokohama fūkei)メトロポリタン美術館
  10. ^ 摂州神戸海岸繁栄之図文化庁「文化遺産オンライン」)

関連項目 編集

外部リンク 編集