間切
間切(まぎり、沖縄方言: マジリ[1])は、沖縄及び奄美群島における、琉球王国時代および明治時代の沖縄県の行政区分のひとつ。

概要編集
琉球王国時代は第一級行政区画に相当した。琉球処分による沖縄県設置後以降も継続していた旧慣温存政策により、1896年(明治29年)の郡制施行(沖縄県区制)以降も間切制は、1908年沖縄県島嶼町村制施行により間切→村(そん)に移管されるまで続いた。
間切の区割りは概ね現在の沖縄県内の市町村に相当する。ただし、沖縄戦やアメリカ統治時代を含む近現代に市町村合併等が繰り返されているため、現在の市町村の区割りとは大きく異なっている。
経緯編集
沖縄本島を国頭、中頭、島尻に三分する体制は14~15世紀の三山時代に由来する。ただし、三山時代の地勢図は発見されておらず、領域の区分は考古学・歴史学上の考察に基づいている[2]。琉球侵攻により薩摩藩への貢納のため琉球にも石高制が導入され、検地、名寄の各台帳や郷村の一覧、国絵図(『琉球國絵図』)などが整備された。これにより古地名の地政的位置が初めて明瞭となったのである[3]。例えば江戸幕府の幕命で琉球を含む日本全国で「国絵図」が作成され、『元禄国絵図琉球国沖縄島』(1696年(元禄9年))も現存している。
現代の国場川より北側の那覇の一部[4]と首里[5]は琉球古来において中山領であり、尚巴志の首里開都と共に島尻方に組み込まれたと考えられる。
琉球近世では、1673年に金武間切の一部と読谷山間切の一部が恩納間切(のちの恩納村)となった。のちに恩納村は国頭とされたため、国頭と中頭の境は北山と中山の境より東シナ海側で南に伸びている。
琉球王国の歴史の中では大きく2度、間切の区割り変更が行われている。また奄美群島では、薩摩が支配下に置いた後も間切制を続け、増減も行っている。
間切一覧編集
以下に、三山時代からの間切とその後の新設間切(美里、久志、本部、宜野湾、小禄、恩納、大宜味、与那城の各間切)を記す。
国頭方編集
- 沖縄本島北部と周辺島嶼
- 奄美群島南部
中頭方編集
- 沖縄本島中部と周辺島嶼
島尻方編集
- 沖縄本島南部と周辺島嶼
両先島地域編集
- 宮古
- 八重山
奄美群島北部編集
脚注編集
参考文献編集
- 田名真之『南島地名考: ─おもろから沖縄市誕生まで』(2014年)、おきなわ文庫
関連項目編集
外部リンク編集
- 国指定重要文化財『間切図』公開 - 沖縄県立図書館、貴重資料デジタル書庫
- 元禄国絵図琉球国沖縄島 - 国立公文書館デジタルアーカイブ
- 『間切』 - コトバンク