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間宮(まみや)は、日本海軍の給糧艦(運送艦)[8]。 その艦名は、樺太の間宮海峡から採られた[9]。 給糧艦とは艦艇に食糧を供給する補給艦のことである[10]

間宮
1930年頃の間宮[1]
1930年頃の間宮[1]
基本情報
建造所 川崎造船所[2]
運用者  大日本帝国海軍
艦種 給糧艦[2]
艦歴
計画 大正12年度艦艇補充計画
起工 1922年10月25日[3]
進水 1923年10月26日[3]
竣工 1924年7月15日[3]
最期 1944年12月21日沈没[4]
除籍 1945年2月10日
要目
基準排水量 公表値 15,820トン[3]
常備排水量 12,176トン[2](11,099トン[5])
満載排水量 15,666トン[2](15,065.7トン[5])
総トン数 登簿総噸数 9,500トン[2]
全長 495 ft 2+1/4 in (150.93 m)[2]
垂線間長 475 ft 0 in (144.78 m)[3][5]
最大幅 公表値 18.59m[3]
水線幅 61 ft 3 in (18.67 m)[2]
吃水 常備状態 18 ft 0+7/8 in (5.51 m)[2]
満載状態 24 ft 10+1/4 in (7.58 m)[2]
公表値 8.43m[3]
ボイラー ロ号艦本式缶 8基[6]
主機 直立式3気筒3段式レシプロエンジン 2基[6]
推進 2軸[2][6]
出力 10,000hp[6]
速力 満載状態 14ノット[2]
軽貨状態 16.5ノット[2]
16.991ノット(1923年7月)[5]
17ノット(1938年調)[6]
燃料 石炭1,700トン[2]
航続距離 冷却機を使用する時 9,000カイリ[2]
冷却機を使用しない時 12,000カイリ[2]
乗員 1923年7月 283名[5]
1925年度定員 211名[2]
平時201名、戦時284名(1938年)[6]
兵装 14cm砲2門[6]
8cm高角砲2門[6]
(平時は陸上保管)
25mm機銃3連装2基、連装2基、単装4挺、13mm単装機銃2挺[7]
(機銃は1944年時)
搭載艇 30ft内火艇 1、30ftカッター 3、通船 2(1926年)[2]
その他 補給物件 重油2,100トン、石炭1,500トン、清水830トン[2]
18,000人の3週間分の食料補給、艦内での加工食品の製造など
トンの単位は全て英トン(ロング・トン、約1,016kg)
テンプレートを表示
呉海軍工廠で最終艤装中の戦艦大和。(1941年9月20日)。画面中央やや上に三番砲塔越しに見えるのが間宮。画面右端は鳳翔

概要編集

八八艦隊計画内で能登呂型給油艦の1艦として予算が成立したが、海軍の強い要望で連合艦隊随伴用の給糧艦が1隻、その予算で建造された[11]。それが間宮である。船体は商船構造とし、設計は川崎造船所に委託。設計は同社がかつて手がけた大阪商船の北米航路向け貨客船はわい丸(大阪商船[注 1]、9,467トン)の設計を手直ししたものであり、就役当時の間宮は世界最大の給糧艦であった。1924年(大正13年)7月15日に竣工後、戦時、平時問わず日本海軍の補給の要として活動した[12]。太平洋戦争終盤の1944年(昭和19年)12月下旬、アメリカ海軍の潜水艦シーライオンⅡの魚雷攻撃を受け沈没した[4]

性能編集

食料供給能力編集

間宮は純商船式の船体に各種の倉庫・食料貯蔵および製造設備を持ち、平時には艦隊への、戦時には戦地への食料補給が期待された[13]

艦内の最新式の巨大な冷蔵庫冷凍庫設備で肉、魚、野菜など18,000人の3週間分の食料を貯蔵できた。寄港先現地での調達も行い、屠殺製肉設備もあったため、牛馬を生きたまま積み込んだのちに食肉加工し、保存しておくことも可能だった[12]。またパンなどの一般的な食料だけではなく、アイスクリームラムネ最中饅頭などの嗜好品からこんにゃく豆腐油揚げなどの日本固有の食品まで多くの加工食品を製造できた[13]。これらの製造のために間宮の艦内には部屋ごとに分かれたキッチンが多数あり、それぞれに腕の立つ専門職人が乗船し、軍属として働いていた[13]。軍属としての職人らの待遇は良かったとされている。大量の食料を扱うことから衛生面においても特別な配慮がなされており、他艦艇においては航海中は入浴・洗濯とも数日に1回、さらに風呂の湯は海水を用いるなど真水の節約に努めていたが、間宮では風呂でも洗濯でも真水をふんだんに用いることができた。

間宮が入港すると新鮮な食料が各艦に補給されるため、艦隊の酒保として非常に人気が高く、帝国海軍の中では最も有名な艦だったという[13]。艦内で製造される羊羹は「間宮羊羹」として人気が高く[13]、老舗羊羹店が海軍に納入した羊羹をさばくのに苦労した、などの話が伝わる。

運用編集

運送艦間宮はその性質上、巡航速度が非常に低速であったため艦隊に随伴せず単独に近い航行が多かったが、沈没は前線の将兵の士気に多大な影響を与えることから、駆逐艦側も厳重に護衛を行ったとされる[14]。武装がささやかながら備わっていたが、平時は砲台のみが設置されており、砲本体は取り外し、陸上に保管することで食料等の搭載量を増やす運用を行っていった。

食糧補給以外にも訓練時に曳航標的船を搭載したり、分解した水上偵察機などの軍事物資の輸送に従事した[15]。間宮固有の糧食配給艇も数隻搭載[15]。これらの小型艇や物資積込み作業を行うため、上甲板前部に15トン重デリック、後部に20トン重デリックを装備している[15]。医療施設のない小型艦艇の傷病者を受け入れる病院船としての役割も担った[15]。また強力な無線通信設備を搭載し、艦隊の無線検知艦(無線監査艦)としても行動したため、間宮の艦長は通信のベテラン将校が多かったという[15]

泊地に停泊中、当艦の食料供給能力を利用し、士官室を使用して海軍兵学校同窓会の会場として使用されたこともある[15]

艦歴編集

建造経緯編集

1921年(大正10年)10月17日神戸川崎造船所加賀型戦艦1番艦加賀が進水した[16]。 川崎造船所は、ただちに次の船の建造にとりかかる。だが同時期に開催されたワシントン海軍軍縮会議およびワシントン海軍軍縮条約により、1922年(大正11年)2月5日に加賀および天城型巡洋戦艦4番艦愛宕の建造中止が通達される[17]。 加賀建造中止命令より間もない2月15日、建造予定の水雷母艦に長鯨、特務艦2隻に隠戸間宮の艦名が与えられた[18]。 9月15日、間宮と隠戸は艦艇類別等級表に運送艦として登録[19]。間宮と隠戸は、いずれも神戸川崎造船所で建造することになった[20]。各艦は建造中止の新造艦より機械や部品を流用することになっており、大正11年3月19日の段階で間宮に搭載予定ボイラー八缶のうち四缶は愛宕(巡洋戦艦)から、四缶は加賀(戦艦)からのものを搭載予定だった[21][22]

同年(大正11年)10月25日午前10時、間宮は神戸川崎造船所で起工された[23][24]。当初、間宮は1923年(大正12年)10月31日の竣工を予定していた[25]。前述のように、廃艦解体予定の加賀よりボイラー四缶を転用する計画だったがそのボイラーが届かず、1923年(大正12年)6月上旬進水の見込みが立たなくなった[26]。加賀は1922年(大正11年)7月に特務艦富士によって横須賀に曳航され、そのまま同地で廃艦処分を待っていたのである[27]1923年(大正12年)9月1日横須賀海軍工廠航空母艦へ改造予定の天城型巡洋戦艦1番艦天城が、関東大震災により大破する[27]。修理不能となった天城の廃艦処分にともない、横須賀で処分保留状態だった加賀の空母改造が決定した[27]。そこで天城搭載用ボイラーが浮いたため、天城の機関部を間宮に転用することになった[28][29]

同年10月26日午前8時、間宮は進水した[30][31]。 12月1日、日本海軍は大谷四郎大佐(当時、通報艦満州艦長)を間宮艤装員長に任命した[32][33]。 12月6日、神戸川崎造船所内に間宮艤装員事務所を設置する[34]1924年(大正13年)7月12日、間宮艤装員事務所は閉鎖された[35]

竣工後編集

1924年(大正13年)7月15日、間宮は竣工した[9][23]。大谷も間宮特務艦長(初代)となった[36]呉鎮守府籍。 10月25日、間宮特務艦長は大谷大佐から片山登中佐[37]に交代する。間宮は翌年より連合艦隊に編入されて行動した[13]。本艦は太平洋戦争以前の日本海軍において、ほぼ唯一の給糧艦[注 2]だったため、修理、整備以外の全ての期間で連合艦隊の付属として食糧の補給任務に従事した[39]

1925年(大正14年)12月1日、片山登大佐(間宮特務艦長)は軍令部出仕となった[40]山口清七大佐(当時、給油艦早鞆特務艦長)が間宮特務艦長に任命された[40]

1926年(大正15年)11月1日、間宮特務艦長は山口大佐から藤沢宅雄中佐に交代した[注 3]

1927年(昭和2年)11月15日、間宮特務艦長は藤沢大佐から入江淵平中佐となる[42][注 4]

1928年(昭和3年)12月10日、入江大佐(間宮特務艦長)は軽巡阿武隈艦長へ転任[43]。合葉庄司大佐が間宮特務艦長となる[43]

1929年(昭和4年)11月30日、合葉大佐(間宮特務艦長)は朝日特務艦長へ転任[44]。後任の間宮特務艦長は小島謙太郎大佐[44]

1930年(昭和5年)11月15日、戦艦伊勢副長の藤森清一朗中佐は間宮特務艦長を命じられる[45]

1931年(昭和6年)12月1日、藤森大佐(間宮特務艦長)は朝日特務艦長に補職される[46]。後任の間宮特務艦長は富田貴一大佐[46]

1932年(昭和7年)12月1日、富田大佐(間宮艦長)は軽巡由良艦長へ転任[47]加藤正大佐が間宮特務艦長に任命された[47]。また、この時点での間宮副長は丸山茂富中佐から東郷実中佐(当時、戦艦榛名運用長)に交代した[47]。東郷実中佐は、東郷平八郎元帥の二男である。

1933年(昭和8年)11月15日、間宮特務艦長は加藤正大佐から、鈴木義尾大佐(当時、第二艦隊参謀長)に交代した[48]。東郷(間宮副長)は潜水母艦長鯨副長へ転じ、後任の間宮副長は藤井音四郎中佐となる[48]

1934年(昭和9年)5月25日、間宮特務艦長は鈴木大佐から佐々木清恭大佐に交代した[49][注 5]。 11月15日、間宮特務艦長は、海軍艦政本部部員・海軍大学校教官・海軍省軍需局局員青柳宗重大佐に交代し、佐々木(前間宮艦長)は青柳の後任となる[53]

1936年(昭和11年)3月2日、間宮特務艦長は青柳大佐から、柿本權一郎大佐に交代した[54][注 6]。 12月1日、間宮特務艦長は柿本大佐から、星野応韶大佐に交代した[55][注 7]

1937年(昭和12年)11月15日、戦艦榛名副長秋山門造中佐は間宮特務艦長に任命された[50]

1938年(昭和13年)12月15日、秋山中佐(間宮艦長)は呉海兵団副長兼教官に転じ、後任の間宮特務艦長は三坂直廉大佐となる[57]

1939年(昭和14年)12月15日、三坂(間宮艦長)は佐世保海軍軍需部総務課長へ転じ、後任の間宮特務艦長は野村留吉大佐となる[58]

1940年(昭和15年)10月11日、横浜港沖で行われた紀元二千六百年特別観艦式に参加[59]。10月15日、間宮特務艦長は、野村大佐から田村保郎大佐に交代した[60][注 8]

1941年(昭和16年)7月1日、田村艦長は佐世保海軍通信隊司令兼佐世保通信部部員を命じられ、後任の間宮特務艦長は福吉保夫大佐(当時、横須賀海軍通信隊司令兼横須賀通信部部員)となる[63]。 11月5日、萬膳三雄大佐は間宮特務艦長[64]に任命される。間宮は萬膳艦長の元で太平洋戦争に突入した[注 9]

太平洋戦争編集

1941年(昭和16年)12月上旬の太平洋戦争開戦時、間宮(連合艦隊附属)はパラオに進出して糧食補給をおこない、しばらく南方作戦蘭印作戦)に従事した[12]1942年(昭和17年)4月から内地とトラック泊地間を往復して補給任務に従事、その後も各地への食糧輸送に活躍した[12]。 同年10月3日、間宮特務艦長は萬膳三雄大佐から大藤正直大佐[注 10]に交代した[67]

1943年(昭和18年)以降アメリカ海軍潜水艦の活動により日本軍輸送船の被害も増えはじめ、間宮も輸送船団に加わって航海する機会が増えてきた。一例として同年5月21日、間宮以下輸送船6隻は駆逐艦3隻(駆逐艦春雨[注 11]、駆逐艦大波[注 12]、駆逐艦夕月〈第二海上護衛隊所属〉)に護衛され、トラック泊地から横須賀に帰投している[71][72]。 それでも幾度か被害を受けた。

1943年(昭和18年)10月19日、第3009甲船団(間宮、朝風丸、北江丸、日威丸)は横須賀を出港し、トラックに向かった[73][74]。駆逐艦追風(第二海上護衛隊)が護衛についていた[74][75]。翌10月12日未明、父島の西南西300海里北緯28度30分 東経137度28分 / 北緯28.500度 東経137.467度 / 28.500; 137.467地点[76]で米潜セロ (USS Cero, SS-225)に発見される。セロは9,500トン級輸送船、6,000トン級輸送船および5,000トン級輸送船に対し魚雷を6本発射し、3つの命中を確認する[77]。深深度潜航で爆雷攻撃に備えたのち、正午前の二度目の攻撃で、最初の攻撃で航行不能となった9,500トン級輸送船に対して魚雷を3本発射し、3本とも命中させたが沈む気配も何も起こらなかった[78]。 この9,500トン級輸送船が間宮であり、被雷した間宮は航行不能となった[79][80]。追風は一旦小笠原諸島父島に立ち寄ったあと[75]、間宮と朝風丸の護衛を続けた[74]

同日夜、連合艦隊司令長官古賀峯一大将の命令を受けた第十四戦隊司令官伊藤賢三少将は、トラック泊地を出発して上海市にむかっていた丁四号輸送部隊第二輸送隊[81](軽巡洋艦那珂五十鈴、駆逐艦山雲、輸送船護国丸清澄丸)より[82]、軽巡五十鈴を派遣する[83][84]10月15日正午、追風[74]および応援にかけつけた駆逐艦(第7駆逐隊所属)に護衛され、間宮は速力4.5ノットで朝風丸(山下汽船、6,517トン)に曳航されて呉にむかった[85]。 同日午後に間宮隊と合流した五十鈴は燃料不足となっており[80]、1日だけ間宮を護衛した[86][87]徳山(瀬戸内海)で燃料補給中の16日午後、間宮警戒任務を解かれて上海にむかった[86][88]。 一方の間宮は朝風丸[89](17日より潜水母艦迅鯨)に曳航され[90]、水雷艇や海防艦壱岐等に護衛されて航海を続け[91]、19日呉に帰投した[74][86]

なお第十六戦隊(司令官左近允尚正少将)所属の軽巡洋艦大井は10月上旬シンガポールからアンダマン・ニコバル諸島への輸送任務に従事したあと[92]、間宮被雷時および救援時(10月12日-16日)の時点で第十六戦隊僚艦(足柄北上球磨敷波浦波)と共に、マラッカ海峡ペナン島に停泊していた[93]

同年11月5日[94]、第十一水雷戦隊司令官木村進少将指揮下の艦艇(伊勢山城雲鷹龍田)等と共に輸送任務に従事していた空母隼鷹がアメリカ軍潜水艦ハリバット (USS Halibut, SS-232)の雷撃で大破、重巡利根に曳航されて呉に帰投した[95]12月25日長井満大佐(隼鷹艦長)は佐伯海軍航空隊司令へ転任する[96]。それにともない、大藤大佐(間宮特務艦長)は間宮特務艦長と隼鷹艦長を兼務することになった[96]

1944年(昭和19年)2月21日、渋谷清見大佐は隼鷹艦長に任命される[97]。隼鷹は戦線に復帰。大藤大佐は間宮特務艦長と隼鷹艦長の兼務を解かれた[97]

4月1日より、本艦はマリアナ諸島への輸送を目的とした松輸送に参加する(東松4号船団)[98]。第2護衛船団司令官清田孝彦少将は白露型駆逐艦6番艦五月雨(第27駆逐隊)を旗艦とし、護衛艦10隻[注 13]と間宮以下輸送船26隻(途中合流1隻を含む)を指揮して東京湾を出撃した[100]。 4月3日午後[101]、貨物船東征丸(岡田商船、2,814トン)[102]がアメリカ軍潜水艦ポラック(USS Pollack, SS-180)の雷撃で沈没した[103][104]。同日には、貨物船はあぶる丸(大阪商船、5,652トン)も米潜水艦から雷撃されたものの、不発弾であった[105]。 4月8日、間宮以下パラオ行輸送船団は護衛艦3隻(海防艦福江第二号海防艦第三号海防艦)と共に五月雨指揮下の本隊と分離、パラオに向かった[106][107]。 4月13日、間宮以下のパラオ進出隊は、パラオに到着した[108]

4月18日、東松四号船団を護衛していた海防艦福江第二号海防艦第一海上護衛隊の作戦指揮下となり、ひきつづき間宮と行動を共にした[109][110]。19日、パタ09船団部隊はパラオを出発した[110][111]。4月27日、パタ09船団は台湾高雄市に到着した[110][111]。 ここでタモ18船団が編成され、同27日に高雄を出発、翌日基隆市に到着した[110][112]。 5月3日、間宮をふくめたタモ18船団は、ひきつづき海防艦福江[113][114]等に護衛されて台湾基隆市を出発、門司にむかった[115]。 航海中、タモ18船団部隊は男女群島近海でアメリカ軍潜水艦スピアフィッシュ (USS Spearfish, SS-190)に発見される。スピアフィッシュは追跡を開始し、翌5月6日未明に魚雷攻撃を敢行、貨物船豊浦丸(日本郵船、2,510トン)が狙われた[115][116]。最初に発見した魚雷は回避したが、続く2本の魚雷が命中。豊浦丸は北緯32度18分 東経127度11分 / 北緯32.300度 東経127.183度 / 32.300; 127.183地点で沈没した[117]。間宮も北緯32度12分 東経127度2分 / 北緯32.200度 東経127.033度 / 32.200; 127.033地点で被雷したが、沈没は免れた[114][118]。間宮は警備艦海威(元樅型駆逐艦の樫)に曳航され、佐世保に帰投した[12]。 本艦修理中の6月10日、大藤(間宮艦長)は呉海軍港務部員を命じられ、佐世保海軍港務部長清水正心大佐が、港務部長と間宮特務艦長を兼務する[119]

8月29日加瀬三郎大佐(軽巡洋艦北上艦長)が間宮特務艦長に任命される[120][注 14][注 15]

1944年(昭和19年)12月、間宮はサイゴンからマニラ方面へ糧食輸送に従事した[12]12月20日海南島東方の南シナ海においてアメリカの潜水艦シーライオンⅡ (USS Sealion, SS-315)に発見される。1937、シーライオンは魚雷を6本発射し、4つの命中を得た。間宮は航行不能となる[122]。シーライオンは護衛艦の反撃を回避し、次回攻撃の準備を行った。2時間半後観測すると、間宮は依然として浮いていた。日付が変わって12月21日0032(日本時間、午前1時37分)[4]、シーライオンは間宮に向けて魚雷を3本発射。うち2本が命中し、間宮は沈没した。凍てつく海に投げ出された船員のほとんどが低体温症のため命を落とし、救助された間宮の船員も次々と命を落とした結果、生還できたのはわずか6人だった。

間宮が戦没するわずか20日前の1944年(昭和19年)12月2日には、間宮の設計の基であるはわい丸がミ29船団に加わってミレー島に向かう途中、北緯30度24分 東経128度17分 / 北緯30.400度 東経128.283度 / 30.400; 128.283屋久島西方約150キロ地点付近で米潜シーデビル(USS Sea Devil, SS-400)の魚雷が命中。搭載していた弾薬とガソリンが誘爆して大爆発したはわい丸はわずか40秒で轟沈した[123]

1945年(昭和20年)2月10日、間宮は運送艦籍より削除[124]。また帝国特務艦籍より削除された[125]

戦後編集

1983年(昭和58年)11月20日、間宮の生存者ら有志の手により間宮の慰霊碑呉市長迫公園に建てられた。間宮の建造から沈没までの犠牲者502柱が合祀されている。

2015年(平成27年)12月2日放送の歴史秘話ヒストリア『お菓子が戦地にやってきた~海軍のアイドル・給糧艦間宮~』で間宮が取り上げられ、間宮の生存者と戦死した船員の家族が出演した[126]

艦長編集

 
軍都・呉市の長迫公園(旧海軍墓地)にある、間宮の慰霊碑

※脚注なき限り『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」に基づく。

艤装員長
  1. 大谷四郎 大佐:1923年12月1日[33] - 1924年7月15日[36]
特務艦長
  1. 大谷四郎 大佐:1924年7月15日[36] - 1924年10月25日[37]
  2. 片山登 中佐:1924年10月25日[37] - 1925年12月1日[40]
  3. 山口清七 大佐:1925年12月1日[40] - 1926年11月1日[41]
  4. 藤沢宅雄 中佐:1926年11月1日[41] - 1927年11月15日[42]
  5. 入江淵平 中佐:1927年11月15日[42] - 1928年12月10日[43]
  6. 合葉庄司 大佐:1928年12月10日[43] - 1929年11月30日[44]
  7. 小島謙太郎 大佐:1929年11月30日[44] - 1930年11月15日[45]
  8. 藤森清一朗 中佐:1930年11月15日[45] - 1931年12月1日[46]
  9. 富田貴一 大佐:1931年12月1日[46] - 1932年12月1日[47]
  10. 加藤正 大佐:1932年12月1日[47] - 1933年11月15日[48]
  11. 鈴木義尾 大佐:1933年11月15日[48] - 1934年5月25日[49]
  12. 佐々木清恭 大佐:1934年5月25日[49] - 1934年11月15日[53]
  13. 青柳宗重 大佐:1934年11月15日[53] - 1936年3月2日[54]
  14. 柿本権一郎 大佐:1936年3月2日[54] - 1936年12月1日[55]
  15. 星野応韶 大佐:1936年12月1日[55] - 1937年11月15日[50]
  16. 秋山門造 中佐/大佐:1937年11月15日[50] - 1938年12月15日[57]
  17. 三坂直廉 大佐:1938年12月15日[57] - 1939年11月15日[58]
  18. 野村留吉 大佐:1939年11月15日[58] - 1940年10月15日[60]
  19. 田村保郎 中佐/大佐:1940年10月15日[60] - 1941年7月1日[63]
  20. 福吉保夫 大佐:1941年7月1日[63] - 1941年11月5日[64]
  21. 萬膳三雄 大佐:1941年11月5日[64] - 1942年10月3日[67]
  22. 大藤正直 大佐:1942年10月3日[67] - 1944年6月10日[119]
  23. (兼)清水正心 大佐:1944年6月10日[119] - 1944年8月29日[120](本職:佐世保海軍港務部長)
  24. 加瀬三郎 大佐:1944年8月29日[120] - 1944年12月21日 戦死、同日付任海軍少将[127]

脚注編集

注釈編集

  1. ^ 1943年に南洋海運に移籍。
  2. ^ 間宮の次に建造された糧食艦伊良湖の竣工は、開戦3日前の1941年(昭和16年)12月5日だった[38]
  3. ^ 山口大佐は、軽巡洋艦天龍艦長へ転任した[41]
  4. ^ 藤沢大佐は、防護巡洋艦利根艦長へ転任した[42]
  5. ^ 鈴木義尾大佐(間宮艦長)は海軍大学校教官[49]へ転任し、その後は重巡摩耶艦長[50]、戦艦金剛艦長等[51]を歴任。金剛型戦艦2隻(金剛、榛名)で編制された第三戦隊司令官[52]としてマリアナ沖海戦レイテ沖海戦を戦ったのち、米潜水艦シーライオンⅡの雷撃による乗艦(金剛)沈没時に戦死した。
  6. ^ 青柳宗重大佐は、当時敷設艦として運用中の装甲巡洋艦常磐艦長に任命された[54]。その後、重巡洋艦羽黒艦長、戦艦比叡艦長等を歴任した。
  7. ^ 柿本權一郎大佐は剣埼型潜水母艦2番艦高崎(瑞鳳)艤装員長に任命され[55]、翌年には姉妹艦剣埼(祥鳳)艤装員長も短期間兼務している[56]
  8. ^ 野村留吉大佐は、間宮特務艦長から青島方面特別根拠地隊副官兼参謀に転任した[60]。後日、軽巡北上艦長[61]、戦艦日向艦長[62]等を歴任している。
  9. ^ 福吉保夫大佐(前間宮艦長)は翌年4月10日より秋田地方海軍人事部長となる[65]。予備役編入後、1944年9月1日より那覇地方海軍人事部長となった[66]
  10. ^ 大藤は、駆逐艦深雪が姉妹艦と衝突して沈没した時の、深雪駆逐艦長である。
  11. ^ 第四水雷戦隊所属の白露型駆逐艦春雨(第2駆逐隊)は、1月24日にアメリカ軍潜水艦ワフー(USS Wahoo, SS-238)の雷撃で大破[68]、曳航中に艦前部を喪失し、トラック泊地で応急修理をおこなっていた[69]
  12. ^ 第二水雷戦隊所属の夕雲型駆逐艦大波(第31駆逐隊)の護衛は、トラック泊地近海150浬まで[70][71]
  13. ^ 水雷艇、海防艦天草福江隠岐御蔵第二号海防艦、第50号駆潜艇[99]。駆逐艦朝凪第三号海防艦は途中で合流。
  14. ^ 第十六戦隊所属の軽巡北上は、同年1月27日にイギリスの潜水艦テンプラー英語版の雷撃で大破[121]佐世保で修理に従事していた。
  15. ^ 間宮艦長と佐世保海軍港務部長を兼務していた清水大佐は、間宮艦長のかわりに北上艦長と港務部長を兼務することになった[120]

出典編集

  1. ^ 『写真日本の軍艦第13巻』34頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 「給糧艦間宮現状 附冷凍魚の還元及取扱法」画像5,8,9,10。
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  4. ^ a b c 護衛対潜(昭和19年12月) p.9〔 19-12|21|0137|間宮再度敵(潜水艦)ノ雷撃ヲウケ三亜ノ東方270′ニ於テ遂ニ沈没|昨日被害ヲウケタルモノ 〕
  5. ^ a b c d e 『軍艦基本計画資料』Sheet27。
  6. ^ a b c d e f g h 「昭和十三年三月調艦艇要目等一覧表 その二」
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  8. ^ 軍艦写真帖(昭和5) コマ117〔 運送艦 間宮 〕
  9. ^ a b #幕末以降帝国軍艦写真と史実 p.192〔 間宮(まみや) 艦種特務艦(運送艦) 艦名考岬名に採る。間宮海峡は樺太韃靼海峡の最狭部なり。 ―要目― 長114.78米/幅18.59米/吃水8.43米/排水量15,820噸/機關 直立三聯機2軸/馬力10,000/速力14/兵装 14糎砲2 8糎高角砲2/起工 大正11-10-25/進水 同12-10-26/竣工 13-7-15/建造所 神戸川崎造船所 〕
  10. ^ #ポケット海軍年鑑(1935) p.70〔 特務艦"間宮 まみや" 全要目{排水量15,820噸 速力14.0節 備砲14糎砲12門 8糎高角砲2門 起工大正11年10月 竣工大正13年7月 建造所神戸川崎造船所} 特務艦と云ふのは戰闘を行ふ艦ではなく云はゞ艦船中の非戰闘員である。しかしこれが又艦隊にとつては非常に大切なのである。燃料、糧食、軍需品を輸送するのがその本業で、これが圓滑迅速に行はれなかつたら到底艦隊は活潑な行動を續けることは出來ないからである。 間宮は特務艦の中でも運送艦で、又その中の給糧艦である。米麥の倉庫は元より生糧品の大貯蔵庫を始め凡ゆる給糧装置は遺憾なく設備されてゐる。全長144.78米、幅18.59米、平均吃水8.43米。 尚特務艦には"青島せいたう" "洲崎すのさき" "室戸むろと" "野島のじま" "知床しれとこ" "襟裳えりも" "佐多さた" "鶴見つるみ" "尻矢しりや" "石廊いらう" "隠戸おんど" "早鞆はやとも" "鳴戸なると"以上計14隻の運送艦の外に"朝日あさひ" "敷島しきしま" "富士ふじ"以上3隻の練習特務艦、"摂津せつつ"標的艦、"膠州こうしう"測量艦、"大泊おほとまり"砕氷艦などがありその合計20隻、排水量合計は227,477噸である。 〕
  11. ^ #日本補助艦艇物語226頁『(8)給糧艦 間宮』
  12. ^ a b c d e f 補助艦艇奮戦記 2016, pp. 278-279間宮(まみや/給糧艦)
  13. ^ a b c d e f #日本補助艦艇物語227頁
  14. ^ #リバイバル戦記コレクション6163頁
  15. ^ a b c d e f #日本補助艦艇物語228頁
  16. ^ #川崎造船所四十年史 p.81〔 大正十年十一月十七日、この日は當時世界列強注視の的であつた戰艦加賀の進水式を擧行せられた日である。當日は、御名代として伏見宮博恭王殿下の御台臨あらせられたる外徳に東宮武官の御差遣をも添うし、尚當日この盛儀を拜観せんと早朝より式場へ詰めかけた人々は實に無慮十萬と称せられた。 〕
  17. ^ #川崎造船所四十年史 pp.81-82〔 斯くて、ワシントン會議に於ける軍備制限協約は成立し、其結果我海軍の既定計畫たる八八艦隊に属する主力艦の建造は、遂にこれを中止するの已むなきに至った。即ち我社に於て既に進水を了し、當時艤装中であつて竣工も間近き戰艦加賀、幷に當時起工後着々工事進捗中であつた巡洋戰艦愛宕の建造は何れも大正十年二月五日遂に中止を命ぜられ… 〕(中止令は大正11年2月5日)
  18. ^ #達大正11年2月 p.6〔 達第二十二號 大正十年度軍備補充費ヲ以テ建造ニ着手スヘキ水雷母艦一隻及特務艦二隻ニ左ノ通命名ス 大正十一年二月十五日 臨時海軍大臣事務管理 内閣總理大臣 子爵 高橋是清 水雷母艦 長鯨チャウゲイ 特務艦 隠戸オンド 特務艦 間宮マミヤ 〕
  19. ^ #達大正11年9月 p.11〔 達第百六十八號 特務艦類別等級別表中運送艦ノ欄「、早鞆」ノ次ニ「、隠戸」「、間宮」ヲ加フ 大正十一年九月十五日 海軍大臣 男爵 加藤友三郎 〕
  20. ^ #川崎造船所四十年史 p.82〔 ワシントン軍縮會議以後、軍艦の建造は一時中止の状態であつたが、大正十一年に入り特務艦間宮及隠戸の二隻、大型潜水艦三隻及一等巡洋艦加古建造の命を受け、又軽巡洋艦鬼怒は好成績を以て進水した 〕
  21. ^ #造機部長会議1(2) pp.7-9〔 新造中止艦ヨリ利用シ得ベキモノ(大正一一.三.一九調)|加賀(略)混燃罐|四|四缶川崎給糧船用/油専燃罐|八|六缶榛名用 二缶霧島用 〕
  22. ^ #造機部長会議1(2) pp.7-9〔 愛宕(略)混燃罐|八|四缶川崎給油船用 四缶川崎給糧船用/油専燃罐|十一|四缶霧島用 六缶金剛用 一缶余分 〕
  23. ^ a b #艦船要目(S1512) p.7〔 (艦名)間宮|(艦種)運送艦|長(米)144.78|幅(米)18.59|喫水(米)8.43|排水量(噸)(基準)15,820|速力(節)14.0|短艇數7|(製造所)神戸川崎造船所|起工年月日 大正11-10-25|進水年月日12-10-26|竣工年月日13-7-15|大砲14c/m…2 8c/m高角砲…2|發射管 |探照燈1|機械(種類)直立三段膨張式(數)2|罐(種類)艦本式(數)8|推進器數2|馬力10,000 〕
  24. ^ #間宮製造一件 p.9〔 大正十一年十月廿五日午前十時三十五分神戸局發 午前十一時海軍省箸 發信者 川崎造船所長 受信者 艦政本部長 電報譯 特務艦 間宮 十時起工シマシタ。 〕
  25. ^ #間宮製造一件 p.5〔 特務艦間宮工事進捗豫定概括表(略)九 引渡|仝十二年十月三十一日 〕
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  28. ^ #大正12流用 pp.2-3〔 十月三十日大臣 横鎮長官宛 旧航空母艦天城用混焼罐流用ノ件 其ノ府工廠ヲシテ旧航空母艦天城用混燃罐四個完成ノ上給糧舩間宮用トシテ株式會社川崎造船所ヘ送附セシムヘシ(以下略) 〕
  29. ^ #間宮製造一件 pp.21-22〔 給糧第一三號 大正十二年十一月廿一日(略)特務艦間宮改訂工事進捗概括表拜提ノ件 大正十一年九月六日附官房機密第一二六三號ノ二ヲ以テ御認許ヲ蒙リ候特務艦間宮工事進捗概括表ハ其後官ノ御都合ニ依リ本艦用混燃罐御官給延引相成候爲メ實施不可能ト相成居候處今回天城混燃罐御下附被下候ニ就テハ別紙改定概括表作戦拜提仕候間何卒御認許被下度此段奉願上候也 追テ增設冷藏庫用冷却機ハ未ダ御下附無之右御下附期日ノ如何ニ依ツテハ本概括表ニ變更ヲ生スルヤモ不知候間何卒左様御諒承被成下度此段申添候(以下略) 〕
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  90. ^ #S1806呉防戦日誌(8) p.1〔 十六日一〇四〇呉鎮(長官)|十六日一三〇六呉鎮部下艦所〔4F長官、GF長官、五十鈴 間宮 朝風丸 大阪警司令〕|呉鎮機密第一六一〇四〇番電 信電令第四六號 一.朝風丸ハ間宮ヲ曳航十月十八日〇六〇〇深島着ノ見込ミ/二.迅鯨ハ豊後水道ヨリ呉迄間宮ヲ曳航スベシ/三.呉港務部長及徳山港務部長ハ曳船各一隻ヲ派出間宮曳航ニ関シ迅鯨艦長ノ指揮ヲ受ケシムベシ 〕
  91. ^ #S1806呉防戦日誌(7) p.14〔 一八|間宮|壱岐 鷺|大井丸 七玉丸 多摩丸|入泊航路上|敵潜ノ雷撃ヲ受ケ朝風曳航 〕
  92. ^ #S1808十六戦隊日誌(3) p.5〔 (二)陸兵輸送 左ニ依リ麾下各艦ヲシテ印度洋離島ニ対シ陸軍部隊ノ急速輸送ニ任ゼシメタリ(略)(2)大井 自八日至十二日 昭南「ニコバル」間(16Sキデ〇六一七一五)/(3)北上 大井 自二十日至二十五日「ベラワン」「アンタマン ニコバル」間(16S電令作第四號)(以下略) 〕
  93. ^ #S1808十六戦隊日誌(3) p.7〔 (二)麾下艦船部隊行動(十月) 〕
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  100. ^ #東松4号船団 p.3〔 第一.経過概要〔別圖第一、第二参照〕一.東松四號船團部隊護衛艦五月雨(指揮官乗艦)鵯 第二號海防艦 天草 福江 隠岐 御藏 驅潜五十及輸送船二十五隻ハ夫々出撃準備ヲ完成三月三十一日横濱沖ニ集合編制ヲ了シ(第三號海防艦ハ四月一日、朝凪ハ四月二日、第一四九號輸送艦ハ四月五日夫々航海中船團ニ合同)同日東京湾ニ於テ船團運動其ノ他ノ諸訓練ヲ實施シ翌四月一日一一〇〇「サイパン」ニ向ケ東京湾ヲ出撃概ネ列島線ノ西側航路ヲ採リ速力八節ニテ南下セリ 〕
  101. ^ 護衛対潜(昭和19年4月) p.1(昭和19年4月3日項)
  102. ^ 護衛対潜(昭和19年5月) p.4〔 第三段作戰(船舶被害沈没之部)19-4|3|1500|鳥島ノSW約6Q|東征丸|太平洋/陸軍|2814|東松四號船團|敵(潜水艦)ノ雷撃ヲ受ケ沈没 〕
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  107. ^ #東松4号船団 p.24〔 一六三〇|北緯一七度四五分東経一四三度一四分ニ於テ「パラオ」進出部隊 間宮神靖丸大安丸天竜川丸第五眞盛丸 護衛艦、福江 二號 三號海防艦分離パラオニ向フ 〕
  108. ^ #東松4号船団 pp.36-37〔 四.一三|〇八三〇/東松四號船團船長研究會(於朝凪)一三日及一四日両日船團部隊ノ信號訓練及丁直接護衛部隊ノ略語訓練ヲ行フ 〕-〔 一六〇〇|間宮二號三號海防艦福江大安丸天竜川丸及第五眞盛丸PPヨオ水道着 〕
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  117. ^ #S19.05船舶被害沈没 p.1〔 19-5|6|0330|(32-18N 127-11E(五島西方海面)|豊浦丸|内地 民間(貨物)|二五一〇|福江、CD2、第七玉丸|被雷撃沈没 〕
  118. ^ #S19.05船舶被害損傷 p.1〔 19-5|6|0330|(32-12N 127-2E(五島西方海面)|間宮|内地 特ム艦| |福江、CD2、外一隻|被雷撃 航行 〕
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  125. ^ #内令昭和20年2月(2) pp.21-22〔 内令第一一五號|横須賀鎮守在籍 驅逐艦 清霜|呉鎮守府在籍 驅逐艦 桑 驅逐艦 呉竹|舞鶴鎮守府在籍 驅逐艦 桃 右帝國驅逐艦籍ヨリ除カル|佐世保鎮守府在籍 第五十四號海防艦 第六十四號海防艦|舞鶴鎮守府在籍 第二十八號海防艦 右帝國海防艦籍ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 第八號輸送艦 第百六號輸送艦|呉鎮守府在籍 第百四號輸送艦 第百四十九號輸送艦 第百五十九號輸送艦|佐世保鎮守府在籍 第十二號輸送艦 第百三十一號輸送艦 右帝國輸送艦籍ヨリ除カル|舞鶴鎮守府在籍 水雷艇 千鳥 右帝國水雷艇籍ヨリ除カル|呉鎮守府在在籍 特務艦 間宮 右帝國特務艦籍ヨリ除カル 昭和二十年二月十日 海軍大臣 〕
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参考文献編集

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    • 戦史研究家伊達久『日本海軍補助艦艇戦歴一覧 水上機母艦、潜水母艦、敷設艦、一等輸送艦、二等輸送艦、敷設艇、電纜敷設艇、哨戒艇、駆潜艇、水雷艇、海防艦、砲艦、特務艦、全三三二隻の太平洋戦争
  • 福井静夫福井静夫著作集-軍艦七十五年回想記第七巻 日本空母物語』光人社、1996年8月。ISBN 4-7698-0655-8
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  • 藤田千代吉ほか『証言 昭和の戦争*リバイバル戦記コレクション6 ミッドウェーの海に鋼鉄の浮城が燃えている』光人社、1990年7月。ISBN 4-7698-0504-7
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  • 付表第四その二「昭和十三年三月調艦艇要目等一覧表 その二 潜水艦、水雷艇、掃海艇、特務艦、特務艇、新造艦船」(軍極秘「昭和十二年度海軍省年表」より)。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書62 中部太平洋方面海軍作戦(2) 昭和十七年六月以降』朝雲新聞社、1973年2月。
  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第13巻 小艦艇I』(光人社、1990年) ISBN 4-7698-0463-6
  • 歴史群像編集部『ミリタリー・戦史 Magazine 歴史群像 2016年2月号(第25巻第1号、通巻135号) ●巡洋戦艦から戦艦、そして高速戦艦へ戦艦『金剛』の生涯 』株式会社 学研プラス、2016年1月。
  • (105-111頁)斎藤義朗〔生産能力から生涯までを徹底詳解 洋上のスイーツ工場 給糧艦『間宮』 〕
  • (112-113頁)久野潤〔 【コラム】『間宮だより』と『間宮新聞』 〕
  • 『歴史群像』2月号別冊付録[ 図解 ]給糧艦『間宮』特製ポスター
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
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関連項目編集