関屋喜代作
関屋 喜代作(せきや きよさく、1933年12月15日 - 2015年12月5日[1][2])は、将棋棋士。1994年、引退。土居市太郎名誉名人門下。棋士番号は69。千葉県茂原市出身。
関屋喜代作 八段 | |
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名前 | 関屋喜代作 |
生年月日 | 1933年12月15日 |
没年月日 | 2015年12月5日(81歳没) |
プロ入り年月日 | 1955年12月19日(22歳) |
引退年月日 | 1994年3月31日(60歳) |
棋士番号 | 69 |
出身地 | 千葉県茂原市 |
所属 | 日本将棋連盟(関東) |
師匠 | 土居市太郎名誉名人 |
弟子 | 豊川孝弘 |
段位 | 八段 |
棋士DB | 関屋喜代作 |
戦績 | |
一般棋戦優勝回数 | 1回 |
通算成績 | 314勝508敗(.382) |
竜王戦最高クラス | 6組 |
順位戦最高クラス | C級1組 |
2017年8月24日現在 |
棋歴編集
1955年、22歳でプロ入り。
初参加(1956年度)から8期目の第18期(1963年度)C級2組順位戦は、2勝10敗で初の降級点を喫する。ところが、次の第19期(1964年度)では一転して開幕7連勝をするなど、最終局を待たずして10勝1敗(最終成績は10勝2敗)の圧倒的な成績でC級1組への昇級を決める。なお、もう一人の昇級者は、同じく10勝2敗の米長邦雄(関屋の10歳下)であった。
第2回(1958年度)古豪新鋭戦で優勝。同棋戦の第13回(1969年度)では、準優勝。
第38期順位戦(1980年度)の昇降級リーグ戦4組(現在のC級2組に相当)で3度目の降級点により順位戦陥落。
第11期(1970年度)王位戦で予選を抜けてリーグ入り。中原誠、山田道美らと戦うが、惨敗。
第1期(1988年度)竜王戦のランキング戦6組の初戦で森内俊之に敗れ、昇級者決定戦に回る。3人に勝って昇級者決定戦決勝に進出し、再び森内との決戦になるが、敗れて5組昇級を逸する。第3期(1990年度)竜王ランキング戦6組では、準決勝に進出し昇級まで1勝とするが、畠山成幸に敗れる。昇級者決定戦決勝に回るも中田功に敗れ、またも昇級のチャンスを逃す。
1991年2月10日第5期(1992年度)竜王ランキング戦6組3回戦で、弟子の豊川孝弘に敗れ、‘恩返し’をされる。同年、第10回全日本プロトーナメント2回戦で佐藤康光を下し3回戦に駒を進めるが、大内延介に敗れる。同年、第8回(1992年度)天王戦の六段戦で、泉正樹、土佐浩司らを破り準優勝(決勝で神谷広志に敗れる)。これが関屋にとって現役棋士としての最後の華となった。
棋風編集
四間飛車では、序盤で角道を止めた4段目の歩を早々に5段目に突き、角交換に持ち込むとともに、飛車先を軽くする将棋が多い。
相手の玉が寄るか寄らないかのぎりぎりの攻めで勝負をする棋風。
人物編集
日本将棋連盟の常務理事を務めた。
プロ棋士になった弟子に豊川孝弘がいる。
昇段履歴編集
主な成績編集
- 通算成績
- 314勝508敗
- 優勝
- 古豪新鋭戦 1回(1958年度 = 第2回)
- 優勝合計1回
- 在籍クラス
- 表彰(日本将棋連盟)
- 現役勤続25年表彰(1980年)
- 功労表彰(1972年、1973年)
脚注編集
- ^ “関屋喜代作氏死去=将棋棋士八段”. 時事ドットコム (2015年12月6日). 2016年3月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月19日閲覧。
- ^ “訃報 関屋喜代作八段|将棋ニュース|日本将棋連盟”. 日本将棋連盟. 2017年8月24日閲覧。
- ^ 平成10年版「将棋年鑑」