関樾

三国時代にいたとされる人物

関 樾(かん えつ、生没年不明 )は、中国三国時代にいたとされる人物。祖父は関羽趙雲。父は関平。叔父は関興

正史『三国志』には記述がなく、『三国志』注引『蜀記』によれば、関羽の子孫は炎興元年(263年)の蜀漢滅亡時、龐会によって皆殺しにされたとある[1]。また小説『三国志演義』にも登場しない。関樾に関する資料はいずれも三国時代1500年以上後に作られた記述であり、以前の史料では確かめられないため、歴史的信憑性は低いと言える。

清の『続修江陵県志』によれば、関樾は関平と趙氏との間に生まれ、その子孫も代々江陵に住んだ。のち雍正10年(1732年)7月、関樾の末裔である関朝泰を五経博士に任じ、当陽で関帝廟の祭祀を奉らせたとある[2]

関朝泰が当陽の廟の祭祀を許されたということについては、『世宗憲皇帝実録』にも記録がある[3]。こちらでは関朝泰は関羽五十二世孫とされているが、一方で関平や関樾との関係が示されていない。

脚注 編集

  1. ^ 「蜀記曰、龐德子會、隨鍾鄧伐蜀、蜀破、盡滅關氏家」(『三国志』巻三十六 関羽伝裴注 王隠『蜀記』)
  2. ^ 「關平娶鎮東将軍女趙氏、生子關樾。世居江陵。雍正十年七月奉旨、以樾大宗嫡裔荊州府學貢生朝泰授五經博士、奉祀當陽關陵、並准世襲」(『続修江陵県志』巻五 壇廟)
  3. ^ 「雍正十年壬子、秋七月……庚寅。……禮部議覆、湖北巡撫王士俊疏言、荊州府江陵縣、爲関聖帝君盡忠授命之地、塚墓現在當陽。今有五十二代孫歳貢生關朝泰、歳時奉祀。請照解州洛陽之守祠之例、授爲五経博士、准其世襲。應如所請、從之」(『世宗憲皇帝実録』巻一百二十一 雍正十年)。 なお『清史稿』巻一百十五、職官志二衍聖公、五経博士には「康熙五十八年、授關公羽五十七世孫霨、主洛陽廟祀。雍正四年、授五十二世孫居斌、奉解州廟祀。十三年、授五十二世孫朝泰、主當陽廟祀」とあり、関朝泰のことが雍正13年(1735年)であったとされている。

参考文献 編集

  • 『中国地方志集成』(江蘇古籍出版社、2001)影印、光緒三年刻本『続修江陵県志』