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関税及び貿易に関する一般協定(かんぜいおよびぼうえきにかんするいっぱんきょうてい、英語: General Agreement on Tariffs and Tradeフランス語: Accord Général sur les Tarifs Douaniers et le Commerce)とは、1947年10月30日にジュネーヴにおいて署名開放された条約、またはこれに基づいて事実上国際組織として活動した締約国団を指す[1][2]GATT(ガット)の略称で呼ばれる[1]

関税及び貿易に関する一般協定
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スイスジュネーヴにある旧ガット本部。現在はWTO本部。
通称・略称 GATT(ガット)、1947年のGATT(改正前)、1994年のGATT(改正後)[1]
署名 1947年10月30日(ジュネーヴ[1]
効力発生 1947年のGATTは、正式には発効せず1948年1月1日より暫定適用[1]。1994年のGATTは、WTO協定附属書1Aの一部として1995年1月1日発効。
寄託者 国連事務総長(第26条第3項)(1947年のGATT)
言語 英語、フランス語(第26条第3項)
主な内容 関税その他の貿易障害の軽減
国際通商における差別待遇の廃止
(前文より)
関連条約 WTO協定
条文リンク 日本語訳外務省
英語正文WTO
仏語正文(WTO)
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1995年に、GATTの規定を事実上吸収したWTO協定が発効する時点で128カ国が締約国(Contracting Party)であったが[3][4]、正式には発効せず、暫定適用議定書(当初の加盟国について)及び加入議定書(発足の後の加盟国について)に基づいて適用され続けた[1]。この、1947年に署名開放されたGATTを改正した1994年の関税及び貿易に関する一般協定は、WTO協定と不可分の一部とされているが(WTO協定第2条第2項)、1947年のGATTと、WTO協定や1994年のGATTとは、別個の条約である(WTO協定第2条第4項)[1]。改正前のGATTのことを「1947年のGATT」、改正後のGATTのことを「1994年のGATT」と言い、区別される[1]

目次

沿革編集

経緯編集

GATT締約国数の推移[3][5]
年代 締約国数
1948-1949
  
19
1950-1959
  
36
1960-1969
  
75
1970-1979
  
84
1980-1989
  
95
1990-1994
  
128
WTO加盟国(2019年現在)
  
164

今日のWTO体制は、アメリカ合衆国が1934年に制定した互恵通商協定法に基づき、諸外国と二国間通商協定を締結していったことに歴史的起源をもつ[6]。アメリカは協定の締結に基づき交渉によって相手国と互いに関税を引き下げ合い、協定の無条件最恵国条項によって通商の自由化を推し進めたのである[6]第二次世界大戦後の1948年3月24日、1930年代世界恐慌ブロック経済が諸国の経済的対立を激化させこれが第二次世界大戦発生の一因にもなったとの反省から、1944年のブレトン・ウッズ会議で設立された国際通貨基金(IMF)や国際復興開発銀行(IBRD、世界銀行)と並ぶ戦後の国際経済組織の支柱として、国際貿易機関(ITO)を設立するための国際貿易機関憲章(通称ハバナ憲章)が採択され、53カ国が署名した[7][8]。本来GATTはハバナ憲章に従属するものとして作成されたものであり、1947年10月30日にジュネーヴにて採択された[1]。ハバナ憲章の一部は後にGATTに取り入れられ実施されていくことになった[8]。しかしGATTは効力発生の要件としてGATTを批准した国の貿易額がGATT加盟国の貿易額の85パーセントを超えることを正式な発効要件としていたため[注 1]、この効力発生要件を満たす見込みがなかった[9]。またアメリカの互恵通商協定法が1948年に失効するなどといった事情からアメリカを含む多くの国々がハバナ憲章の批准を見送ったためGATTだけを先に成立させる必要が生じた[1]。そのため、特にアメリカ議会の審議を受けることを避ける目的で「暫定適用議定書」を作成し、GATTを正式には発効させないまま1948年1月1日から「暫定適用議定書」に基づくGATTの暫定適用が始まった[1]。「暫定適用議定書」もまたGATTとは別個の法的拘束力を有する条約であり、GATTは同議定書を通じて実質的に各国に対する拘束力をもつものとなったが、この議定書には「現行の法令に反しない最大限度において」のみGATT第2部の規定が適用される(GATT第1部及び第3部についてはこのような限定はなく全面的に適用される)旨を定めた条項(通称「祖父条項」)が含まれていたほか[10]、このようにして成立したGATT体制においては各国は関税譲許率のみを約束するのみとされ[11]、またGATT第25条第5項には締約国団の承認により義務の免除を行うことができる規定[12]、いわゆるウェーバー条項と呼ばれる条項がおかれた[11][13]。これらに加えて各国のGATT規定上の義務違反も頻発し、大きな制約を受けることになったGATTの規律は極めて弱いものとならざるを得なかった[1][11]。このようにして適用が開始されたGATTは、雇用問題、労働基準、開発、国際投資ルール、国際カルテルや制限的商慣行といった競争法上の幅広い分野について規定していたハバナ憲章から、貿易関連規定だけを抜き出したものとなった[7]。ハバナ憲章の一部を暫定的に適用する形で開始された戦後のGATTは、その後約50年間にわたり世界の多角的貿易体制を支えていくことになる[7]

多角的貿易交渉編集

GATTは、国内の産業保護の手段として関税のみを認めていたが、GATT締約国はその関税引き下げのためには二国間で交渉するよりも多数国間で交渉するほうが効率的であるとして、多角的貿易交渉を行い関税水準を引き下げてきた[14]。これは1947年のGATTを一部改正した1994年のGATTを含むWTO協定が発効した後も継続されている[14]。第1回からディロン・ラウンドまでの計五回にわたる交渉では関税の引き下げについて交渉が行われたが、ケネディ・ラウンドでは関税引き下げのみではなく非関税障壁であるアンチダンピング問題についても検討された[15]東京ラウンドではダンピング防止や政府調達のような非関税障壁の問題に加えて発展途上国が関心を持っていた熱帯産品に関する交渉が開始された[15]。1986年から1994年に行われた、ウルグアイ・ラウンドでは世界貿易機関を発足が決定され、本来国際貿易機関発足までの暫定的な体制であったはずのGATTが実質的に国際組織として活動している異例的な状況を解消した[16]。ガット体制下で行われた8回の多角的貿易交渉を通じて、先進諸国の平均関税率はGATT以前の10分の1以下の4パーセントにまで低下した[15]

第1-4回編集

これまでの多角的貿易交渉[17][18][19][20][21]
期間 参加
国数
関税引き下げ
対象品目数
第1回 (ジュネーヴ) 1947 23 45,000
第2回 (アヌシー) 1949 13 5,000
第3回 (トーキー) 1950-1951 38 8,700
第4回 (ジュネーヴ) 1956 26 3,000
ディロン・ラウンド 1960-1961 26 4,400
ケネディ・ラウンド 1964-1967 62 30,300
東京ラウンド 1973-1979 102 33,000
ウルグアイ・ラウンド 1986-1994 123[22][23] 305,000
WTO発足(1995年)
ドーハラウンド 2001- 164[24] 交渉中

最初の多角的貿易交渉は1947年の4月から10月、1948年の2月から3月、同年8月から9月の3回にわけて、スイスジュネーヴにて行われた[21]。23カ国が交渉に参加し1947年10月30日にはGATTの署名がなされ[1]、またこのときには国際貿易機関設立に向けた交渉がなされたほか[21]、45,000品目の関税引き下げについて合意に至った[20]。こうして行われた関税引き下げによって100億ドルの貿易に影響を及ぼしたといわれる[18][21]。1947年11月21日、国際貿易機関を設立するための本格的な交渉がキューバハバナで開始され、1948年3月には国際貿易機関憲章(ハバナ憲章)の採択に至ったが前記のとおり(#経緯参照)国際貿易機関が設立されることはなかった[1]。そのかわりに1948年1月1日には、後にハバナ憲章の一部として採択される予定であったGATTの適用を暫定的に開始することを定めた「暫定適用議定書」の適用が23カ国の間で開始され、これにより様々な制約つきではあったがGATTの適用が開始されることとなった[1][18]

2回目の多角的貿易交渉は1949年4月から8月にかけてフランスアヌシーで行われた[21]。13カ国が参加した[18]。主な議題は関税の引き下げであり、5,000品目の関税引き下げについて合意されたほか[20]、さらに10カ国のガットへの参加が決定した[21]。しかしこの会期中にアメリカがハバナ憲章を批准しないことを宣言し、そのためこのとき国際貿易機関の設立が不可能であることが決定的となった[21]

3回目の多角的貿易交渉は1950年9月から翌年4月までイギリストーキーで、38カ国の参加によって行われた[18][21]。このときには8,700品目が関税引き下げの対象となった[20]

4回目の多角的貿易交渉は第1回と同じジュネーヴで1956年1月から5月にかけて行われ、26カ国が交渉に参加した[21]。3,000品目の関税引き下げが決定された[20]

既に述べたようにGATTはITOの設立を予定したものであったため組織に関する規定が不足[注 2]しており、これを解消するため1955年に貿易協力機構を設立してGATTに組織的な基盤を設けようとしたが、やはりこれもアメリカが受諾しなかったため[注 3]に成立することはなかった[1]。GATTに唯一規定されていた組織はGATT全締約国からなる「締約国団」(CONTRACTING PARTIES[25])のみであり、次第にこの「締約国団」の会合が通常の国際組織で言うところの総会としての役割を事実上果たしていくことになる[1]。1960年6月4日に「締約国団」が理事会の設置を決議[26][27]し、また本来ITOを設立するための準備的機関であったITO中間委員会の書記局長が、1948年9月のガットの締約国団とITO中間委員会との取決め[28]により、事実上の事務局となった[1]。こうして本来ハバナ憲章の一部にしか過ぎなかったGATTは総会、理事会、事務局という国際組織に特徴的な三部構造を備えることになり、GATTは実質的に国際組織としての機能を果たしていくことになる[1]

ディロン・ラウンド編集

1958年、アメリカ経済担当国務次官ダグラス・ディロンが5度目の多角的貿易交渉の開催を提唱した[29][30]。これは1958年1月1日に欧州経済共同体(EEC)が発足し[31]、EEC内で10パーセントの関税引き下げと20パーセントの数量制限緩和が行われることが決定され、このときEEC内の一部に当時EEC非加盟国であったイギリスなど欧州経済協力機構(OEEC)にまで貿易自由化を拡大すべきとする考え方があったのに対して、そのような対米貿易格差は許容できず貿易自由化はGATTの枠内で進められるべきと主張しアメリカが反発する立場をとったためである[30]。このような背景から1960年9月1日からスイスジュネーヴで開催された多角的貿易交渉は、ダグラス・ディロンの名を冠してディロン・ラウンドと呼ばれる[32]。このディロン・ラウンド以降、多角的貿易交渉は交渉の開催を提唱した人や提唱された地名にちなんで「XXXXラウンド」と呼ばれるようになる[14][17][注 4]。ディロン・ラウンドでは、特にEEC加盟諸国が個別に定めていた関税率をEEC加盟国で共通域外関税に移行するかどうか、EEC加盟国間で共通農業政策を導入するか、などが主な議題として取り上げられた[29]

ケネディ・ラウンド編集

1962年10月、アメリカで既存の関税を50パーセント削減するための交渉権限と、アメリカと欧州経済共同体(EEC)が世界全体の80パーセント以上を占める品目の関税を削減または廃止するための交渉権限を、議会から大統領に授権することを定めた1962年通商拡大法が制定された[33]。このときアメリカ大統領であったジョン・F・ケネディにちなみ、1964年5月4日からジュネーヴで開催された多角的貿易交渉はケネディ・ラウンドと呼ばれる[34]。このケネディ・ラウンドでは、二国間交渉の成果を最恵国待遇原則に基づきガット全加盟国に適用するというそれまでの交渉方式を改め、ガット全加盟国が関税譲許表を示しそれらを一括で検討するという一括交渉方式が採用された[35][36]。それまでの二国間方式では各国が自国への不利益を避けるために効果を縮小化しようとする傾向があり、これを避けるためこのような交渉方式の変更がなされた[35]。このようにして行われた関税引き下げ交渉では、工業製品に付加される関税を平均で35パーセント以上引き下げることに成功した[33]。これはディロン・ラウンドの約8倍にも相当する成果であった[33]

東京ラウンド編集

1973年9月にガット閣僚会議が東京が行われ、このとき採択された「東京宣言」に従い7回目の多角的貿易交渉決定され[37]、1973年9月から1979年11月までジュネーヴで東京ラウンドが開催された[21][18]。交渉参加国が増加したことから合意を早めるためにアメリカ、EC、日本、カナダが合意した内容をガット全締約国がコンセンサスにより承認する方式が慣行的に取り入れられるようになった[38]。東京ラウンドでは、補助金、製品の規格などといった貿易の技術的障害、輸入許可手続きといった関税以外の貿易障壁について規律する協定が締結された[38]。また東京ラウンドでもケネディ・ラウンドと同じように関税引き下げ交渉は一括交渉方式がとられたが、ECが既存の関税率が高い国と低い国に同率の関税引き下げを求めるべきではないと主張したため、以下のように交渉開始前の関税率を国ごとに反映した関税引き下げが行われた[38][39]

    z:引き下げ後の関税率、x:既存税率、a:国別定数(例:ECは16、アメリカ・日本は14)

ケネディ・ラウンドと同様に東京ラウンドでも工業製品の関税引き下げについては大きな成果を上げたが、農産品貿易の自由化交渉については成果を上げることができなかった[40]

ウルグアイ・ラウンド編集

 
1994年のWTO協定署名の様子。マラケシュにて。

1986年9月15日から20日にかけてウルグアイプンタ・デル・エステで行われたガット閣僚会議において、増加するサービスの貿易や知的所有権の国際移転に対応するため次の多角的貿易交渉開催が採択された[41]。そのためそれまでの7回の多角的貿易交渉では関税引き下げのための一括交渉が主なテーマであったが、ウルグアイ・ラウンドではサービスや知的所有権などそれまでの多角的貿易交渉では議題とならなかった交渉項目が追加され、また非関税障壁についても交渉されるなど市場開放のあり方についてより広く交渉が行われた[42]。その結果ウルグアイラウンドでは広範にわたるテーマが交渉されることになり、交渉妥結までそれまでの多角的貿易交渉よりもはるかに長い8年もの歳月を要することとなった[43]。また、このようにGATT締約国間同士の多角的貿易交渉が積極的に進められていく傍らで、このころ先進工業国間では二国間の貿易摩擦問題が多発していた[44]。これをきっかけにしてGATT規定の適用を受けない二国間の貿易取り決めが数多く締結されていくこととなり、GATTは次第に形骸化・後退していくことになる[44]。例えばアメリカは1984年に大統領ファスト・トラック権限をGATTの多国間交渉から二国間自由貿易協定交渉まで広げる通商関税法を制定し[45][46]、これに基づきアメリカ・イスラエル間の自由貿易協定が締結された[45]。これはアメリカが多角的貿易交渉から離れていく象徴的な出来事であったと言える[45]。こうした二国間貿易取り決めが広まっていったことに加えて、1980年代には第二次オイルショックの影響から世界景気の後退により先進諸国が農業補助金や輸出自主規制等といった形で保護主義的政策を強めていったことや[15][45][47]、ガットが規律対象としていたモノ()貿易には該当しないサービス直接投資の国際経済活動の活発化といった状況にさらされ[15]、それまで国際貿易システムを支えてきたGATTシステムの維持が次第に困難なものとなっていったのである[47]。こうした流れは暫定的なガット体制を解消して新たな国際組織を設立することにつながっていく[45]。またこれは、他国の貿易政策を「不正的貿易慣行」と一方的に認定し、他国に貿易制裁を科すアメリカの1974年米国通商法英語版第301条の濫用を防ぎたいとする各国の思惑とも一致するものであった[45]。全ての交渉テーマについてようやく合意がまとまったのは1993年12月であり、その後1994年4月15日にモロッコのマラケシュにてウルグアイ・ラウンド最終合意文書の調印式が行われた[48]。GATTは一部改正され1994年のGATTとしてWTO協定の附属書1Aに組み込まれた[49]。WTO協定には祖父条項もなく、結局正式には発効することがなかった1947年のガットと違い正規の条約で、各国の法的関係もより明確なものとなった[1]。そしてウルグアイ・ラウンドの終結とともに、もともと国際貿易機関が設立されるまでの暫定的な組織であったGATTを引き継ぐ国際組織として世界貿易機関が設立されたのである[50]

WTOの発足と1947年のGATTの終焉編集

ウルグアイラウンドの結果、WTOが1995年1月1日に発足し、GATTはWTOへ移行することになった。しかしWTOの発足時点でWTO協定を受諾した国は76カ国及びEUにとどまり、1947年のGATTの加盟国[51]の128の約6割にとどまっていた。
1947年のGATTはそのままの内容でWTO協定の一部となったが、法的には1947年のGATTは、1994年のGATTとは別個のものであるため、WTOに加盟をしていない1947年のGATTの締約国との関係を維持するために、WTOに加盟した国も1947年のGATTに暫時留まる必要があった。
しかしまたWTO発足後、旧体制である1947年のGATTがいつまでも存在することは好ましくないとの認識は各国の共有するところであった。そのため1994年12月8日の1947年のGATTの締約国団・WTO準備委員会は、1947年のGATTをWTO発足後1年、すなわち1996年1月1日に終了させる決定をした[52]。この決定は、予期せざる自体が発生した場合、終了の日を1年以内の期間で延長することができる規定を含んでいたが、1995年12月12日の1947年のGATTの締約国団による第51回GATT総会は延長を行わず、1994年の決定どおり1996年1月1日に終了させることとした。[53]
こうして1947年のGATTは、WTO発足後1年で法的に消滅した。
また東京ラウンド諸協定についても、WTO協定附属書1Aに新たに含まれたものと東京ラウンド当時のものが並存していたが、これらの協定についても1995年12月8日の各協定の委員会で1996年1月1日に終了することが決定された[54]
東京ラウンド諸協定のうち、WYO附属書4となる、民間航空機貿易に関する協定及び 政府調達に関する協定については、別途の扱いとなった。民間航空機貿易に関する協定は、改正交渉が妥結しなかったため、東京ラウンドで作成された協定がそのままWTO協定附属書4に添付された扱いになった。政府調達に関する協定については、新協定が1996年1月1日に発効することにより東京ラウンドにおける協定の適用が終了した。
WTOと1947年のGATT及び東京ラウンド諸協定が並存する場合の法的問題(例えば、農業の関税化に伴う関税の引き上げをWTOにまだ加盟していない1947年のGATTの加盟国に適用可能か)については、1994年12月8日の1947年のGATTの締約国団・WTO準備委員会の決定[55](さらに東京ラウンド諸協定についてはその後の各協定の委員会の決定)で、
1 WTOの加盟国は、1947年のGATTに合致していない措置であってもWTO協定上の措置を採用できる
2 WTO協定の加盟国は、1947年のGATTにのみ留まる国に対してウルグアイラウンドの成果を適用しないことができる。
3 WTO協定加盟国にたいする紛争案件については1947年のGATTの規定を適用せず、WTOに一本化する。
として法的問題を解決した。

GATTの機関編集

1947年のGATTは、前述のように明白な規定のないまま実態的に存在していた。主な機関は次のようである。

総会編集

WTOもそうであるが組織規定のある場合、全締約国の代表からなる総会が置かれるが、1947年のGATTの場合、共同行動する締約国である締約国団のみが法的存在でありその会合が通常の機関の総会となる。第1回の総会は、第25条2の規定[56]に基づき1948年2月28日から3月23日までハバナで開催[57]され、以後定期総会(基本的に年1回)[58]と特別総会[59]が開催され、またこれとは別に閣僚レベルの会合も開催された。

理事会編集

設立の当初は、GATTは総会を中心に運営されていたが、ITOの発足が望めないことが明白になり増加する諸問題に対処するため、1962年10月の第6回総会において”ad hoc Committee for Agenda and International Business"が設置された。これは1953年3月の第9回総会で17名からなる会期間委員会(Intercessional Committee)に改組されたが依然として総会が最終決定するため運営の遅延が解消されなかった。そのため1960年6月4日の第16回総会において理事会設置の決定[60]がされ会期間委員会は廃止された[61][62]。理事会は、他の国際機関によくあるような、加盟国から選出(あるいは特定国が予め指定)されて理事会のメンバーになるのではなく、「メンバーとしての責務を受諾する意思を有するすべての締約国の代表で構成」(設置決定第1項)となっており、1995年1月1日の段階でGATT締約国128のうち97カ国[63]が理事会に参加していた。

事務局編集

事務局をもたなかった1947年のGATTの締約国団は、その第2回締約国会議(1948年9月)において、GATTの締約国団とITOの中間委員会(ICITO)と取決めを結び、ITOICの書記局長はGATT締約団に必要なサービスを提供(ICITOの執行委員会は書記局長で全権を付与)するとされ、GATTの事務局長はITOICの書記局長が勤めることになった[64]。そのため、GATTの事務局長の選任の直前に、ITCの執行委員会が開催され、ICITOの書記局長としての選出を行っていた[64]。ただし、実質的な選任については、GATT側で行われる[65]。1995年は、WTOと1947年のGATTが並存したため、1995年4月にWTO事務局長に選任されたレナート・ルジェロ(Renato Ruggiero)は、1947年のGATTの締約国団の事務局長を兼ねることになり、そのため1995年4月11日のITCの執行委員会でICITO書記局長としての選出されている[66]すでに1995年3月24日の第7回特別総会で選出[67]されているものの形式的には、ITCの執行委員会による選出が必要であった。なお、1965年3月までは書記局長 (Executive Secretary)であったが、1965年3月23日の第22回締約国会議決定[68]により事務局長(Director-General)に改称された。ただしITOICの書記局長という立場は変更されないので、ガットの締約団の事務局長でありITOICの書記局長ということになる。

歴代ガット事務局長

  • エリック・ウィンダム・ホワイト(Eric Wyndham White)(英国) 1948年–1968年
  • オリビエ・ロング(Olivier Long)(スイス) 1968年–1980年
  • アーサー・ダンケル(Arthur Dunkel)(スイス) 1980年–1993年
  • ピーター・サザーランド(Peter Sutherland(アイルランド) 1993年–1995年
  • レナート・ルジェロ(Renato Ruggiero)(イタリア) 1995年[69]

基本的原則編集

GATTの設立目的は自由貿易の促進である[70]。これはデヴィッド・リカードが提唱した比較優位の理論に基づくものである[70]。つまりリカードの理論によれば、各国が他国と比較して生産効率の良い(これを比較優位という)分野での生産に特化し互いに自由貿易を行うことで、そのような貿易を行った国々がより大きな利益を得ることができるというものである[70]。本節ではこうした考え方に基づくガット規定の基本的原則について述べる。

無差別編集

「無差別」はGATTの基本的原則とされ、これには最恵国待遇という側面と、内国民待遇という側面とがある[1]。これらはWTOの中核的なルールとしても引き継がれている[71]

最恵国待遇は、貿易の相手国とその他の国とを差別せずに貿易相手国に対しそれ以外の国々に与える待遇の中で最も有利な待遇を与えるというもので、多国間条約の中でガットは初めてこの最恵国待遇の原則を定めた(第1条第1項)[72][73]。他国に最恵国待遇を与えるための条件として、その相手国に対し自国の産品に対し特定の有利な待遇を保証することを要求してはならない[73]。1947年のGATTのとりまとめ交渉の中で、この最恵国待遇を盛り込むにあたってアメリカイギリスの間で対立があった[73][74]。1941年以降国務長官コーデル・ハルのもとで国務省を中心に貿易自由化を志し国際的貿易体制の検討を続けてきたアメリカに対し[75]、1932年以来イギリス帝国内の植民地で適用されてきた排他的帝国特恵関税制度の存続を求めたイギリスが反発したのである[73][74]。最終的に帝国特恵関税制度のような地域的特恵制度が最恵国待遇原則の例外として認められることとなり、また帝国特恵関税制度以外に一定の条件下で地域経済統合のような地域的特恵制度を新たに締結することもこの最恵国待遇に対する例外として認められた(第24条)[72][73]

内国民待遇とは他国や他国産品を自国や自国産品と差別することなく待遇することをいい、GATTでは輸入品に対する税金や国内法令について規定した(第3条)[76]。輸入品が輸入国の国内で輸入品と同種の国産品目より不利に扱われれば貿易自由化の妨げになるとされたのである[77]

最恵国待遇は特定の国の輸入品がそれ以外の国からの同種の輸入品と差別されないことを、内国民待遇は輸入品が国内産の同種の産品と差別されないことを定める原則である[73][77]。最恵国待遇・内国民待遇いずれの原則においても、同種の品目に該当するかどうかは、産品の用途、産品の性質・属性、消費者の選好、関税分類、という4つの基準に照らし判断される[73][77]

譲許表編集

国内産業を保護するための手段としては関税以外は認めず、この関税についても多角的貿易交渉により引き下げを目指した(#多角的貿易交渉を参照)[1]。。WTOが発足するまでこの多角的貿易交渉は8度開催され、そのたびに関税引き下げを実現してきた[17]。これらの貿易交渉や加入時の交渉の結果の引下げ結果を具体的に定めるものが譲許表(Schedules of Concessionsである。各締約国は、他の締約国の通商に対し、この協定に附属する該当の譲許表の該当の部に定める待遇より不利でない待遇を許与するものとする(第2条第1項)と規定され、譲許表に定める率を越える関税を課すことはできない(第2条第2項)。譲許表は締約国毎に作成され、それぞれSchedules XXXVIII[78]のように番号(ローマ数字)を付すことになっている。譲許表は原締約国であるオーストラリアのSchedules I[79]から最新のWTO加盟国であるリベリアのSchedules CVXXIV(第174表)[80]まで作成されている。なお、現在のWTO加盟国の数(164)より譲許表の数が多いのは、1947ガットを脱退した締約国の番号が欠番[81]となること、一旦加盟交渉が終了し譲許表を作成したが、期限内に加盟議定書を受諾せず締約国にならなかった場合[82]があること、EUが拡大の都度新しい表としている[83]等の事情による。

譲許表はつぎのような構成となっている[84]

第1部:最恵国関税率表。
第1A節 - 農産品関税
第1B節 - 農産品の関税割当
第2節 - その他の製品
第2部:特恵関税率表(GATT第1条に記載されている貿易協定に関連する関税)
第3部:非関税措置譲許表
第4部:農産品に対する国内及び輸出補助金に関する約束
第5部:輸出税

第2部の特恵関税率表は、GATT第1条2により最恵国待遇の例外となる特恵関税についてのものであり、オーストラリア、カナダ、セイロン、キューバ、インド、ニュージーランド、南アフリカ、英国及び米国が第2部の特恵関税率表を有していた[85]が、現在修正撤回等により実効はない。第5部は、最近の加盟国であるロシア、ウクライナ等にある。

譲許表をもたなかった締約国編集

GATTの締約国の加入交渉において関税交渉を行い譲許表を作成しなければいけないという直接の規定はなく、GATT第33条に基づく加入議定書に定める条件によるものである。しかし実際の加入条件のほとんど[86]は譲許表の作成を前提にしており、加入条件に関税による譲許表の設定は不文律となっていた[87]。しかしガット第26条5(c)により、ガットの締約国から独立し、旧宗主国の宣言によりGATTの締約国になった場合、独立時点の宗主国の地位を継承することになっている。この場合、旧宗主国が属領のために譲許表を作成していないとその国は譲許表なしの状態となる。これらの国はその後のラウンドなどで譲許表を作成するっ倍もあるが、WTO発足の1995年1月1日の段階で1947年のGATTのうち41国[88]は、譲許表を有していなかった。WTO協定第11条は、1947年のGATTの締約国にWTOの原加盟国になる資格を認めたが1994年のGATT及びGATSに譲許表を添付することを条件とした。そのためこれらの41カ国もそれぞれのWTO加盟の時点から譲許表を有することとなった。

GATT・WTOの各締約国の加入の日、譲許表編集

国名(英語) 国名 WTO加盟[89] GATT加盟[90] GATT加盟方式 譲許表番号[91][92][93]
Australia オーストラリア 1995年1月1日 1948年1月1日 暫定適用議定書 1
Belgium ベルギー 1995年1月1日 1948年1月1日 暫定適用議定書 2 [94][95]
Luxembourg ルクセンブルク 1995年1月1日 1948年1月1日 暫定適用議定書 2 [94][95]
Netherlands オランダ 1995年1月1日 1948年1月1日 暫定適用議定書 2 [94][95]
Brazil ブラジル 1995年1月1日 1948年7月30日 暫定適用議定書 3
Myanmar ミャンマー 1995年1月1日 1948年7月29日 暫定適用議定書 4 [96]
Canada カナダ 1995年1月1日 1948年1月1日 暫定適用議定書 5
Sri Lanka スリランカ 1995年1月1日 1948年7月29日 暫定適用議定書 6 [97]
Chile チリ 1995年1月1日 1949年3月16日 33条(ただし原加盟国) 7
Republic of China 中華民国 1948年5月21日 暫定適用議定書 8 [98]
Cuba キューバ 1995年4月20日 1948年1月1日 暫定適用議定書 9
Czechoslovakia チェコスロバキア 1948年4月20日 暫定適用議定書 10 [99]
France フランス 1995年1月1日 1948年1月1日 暫定適用議定書 11 [94]
India インド 1995年1月1日 1948年7月8日 暫定適用議定書 12
New Zealand ニュージーランド 1995年1月1日 1948年7月30日 暫定適用議定書 13
Norway ノルウェー 1995年1月1日 1948年7月10日 暫定適用議定書 14
Pakistan パキスタン 1995年1月1日 1948年7月30日 暫定適用議定書 15
Southern Rhodesia 南ローデシア ジンバブエの項参照 1948年7月11日 暫定適用議定書 16 [100]
Syria シリア 1948年7月30日 暫定適用議定書 17 [101][102]
Lebanon レバノン 1948年7月29日 暫定適用議定書 17 [103][102]
South Africa 南アフリカ 1995年1月1日 1948年6月13日 暫定適用議定書 18
United Kingdom イギリス 1995年1月1日 1948年1月1日 暫定適用議定書 19 [94]
United States of America アメリカ合衆国 1995年1月1日 1948年1月1日 暫定適用議定書 20
Indonesia インドネシア 1995年1月1日 1950年2月24日 26条5(c) 21
Denmark デンマーク 1995年1月1日 1950年5月28日 33条(アヌシー議定書) 22 [94]
Dominican Republic ドミニカ共和国 1995年3月9日 1950年5月19日 33条(アヌシー議定書) 23
Finland フィンランド 1995年1月1日 1950年5月25日 33条(アヌシー議定書) 24 [94]
Greece ギリシャ 1995年1月1日 1950年3月1日 33条(アヌシー議定書) 25 [94]
Haiti ハイチ 1996年1月30日 1950年1月1日 33条(アヌシー議定書) 26
Italy イタリア 1995年1月1日 1950年5月30日 33条(アヌシー議定書) 27 [94]
Liberia リベリア 1950年5月20日 33条(アヌシー議定書) 28 [104]
Nicaragua ニカラグア 1995年9月3日 1950年5月28日 33条(アヌシー議定書) 29
Sweden スウェーデン 1995年1月1日 1950年4月30日 33条(アヌシー議定書) 30 [94]
Uruguay ウルグアイ 1995年1月1日 1953年12月6日 33条(アヌシー議定書) 31
Austria オーストリア 1995年1月1日 1951年10月19日 33条(トーキー議定書) 32 [94]
Germany ドイツ 1995年1月1日 1951年10月1日 33条(トーキー議定書) 33 [94]
Republic of Korea 大韓民国[注 5] 加入せず 33条(トーキー議定書) 34 [108]
Peru ペルー 1995年1月1日 1951年10月7日 33条(トーキー議定書) 35
Philippines フィリピン[注 6] 加入せず 33条(トーキー議定書) 36 [112]
Turkey トルコ 1995年3月26日 1951年10月17日 33条(トーキー議定書) 37
Japan 日本 1995年1月1日 1955年9月10日 33条 38
Malaysia マレーシア 1995年1月1日 1957年10月24日 26条5(c) 39
European Economic Community ヨーロッパ経済共同体 40 [113]
Cambodia カンボジア[注 7] 加入せず 33条 41 [116]
Israel イスラエル 1995年4月21日 1962年7月5日 33条 42
Nigeria ナイジェリア 1995年1月1日 1960年11月18日 26条5(c) 43
Portugal ポルトガル 1995年1月1日 1962年5月6日 33条 44 [94]
Spain スペイン 1995年1月1日 1963年8月29日 33条 45 [94]
Burkina Faso ブルキナファソ 1995年6月3日 1963年5月3日 26条5(c) 46
Gabon ガボン 1995年1月1日 1963年5月3日 26条5(c) 47
Benin ベニン 1996年2月22日 1963年9月12日 26条5(c) 48
Senegal セネガル 1995年1月1日 1963年9月27日 26条5(c) 49
Mauritania モーリタニア 1995年5月31日 1963年9月30日 26条5(c) 50
Madagascar マダガスカル 1995年11月17日 1963年9月30日 26条5(c) 51
Cote d'Ivoire コートジボワール 1995年1月1日 1963年12月31日 26条5(c) 52
Niger ニジェール 1996年12月13日 1963年12月31日 26条5(c) 53
Zimbabwe ジンバブエ 1995年3月5日 1948年7月11日 暫定適用議定書 54 [117]
Burundi ブルンジ 1995年7月23日 1965年3月13日 26条5(c) 55
Rwanda ルワンダ 1996年5月22日 1966年1月1日 26条5(c) 56
Yugoslavia ユーゴスラビア 1966年8月25日 33条 57 [118]
Malawi マラウイ 1995年5月31日 1964年8月28日 26条5(c) 58
Liechtenstein リヒテンシュタイン 1995年9月1日 1994年3月29日 26条5(c) 59 [119]
Switzerland スイス 1995年7月1日 1966年8月1日 33条 59 [119]
Republic of Korea 大韓民国 1995年1月1日 1967年4月14日 33条 60
Ireland アイルランド 1995年1月1日 1967年12月22日 33条 61 [94]
Iceland アイスランド 1995年1月1日 1968年4月21日 33条 62
Egypt エジプト 1995年6月30日 1970年5月9日 33条 63
Argentina アルゼンチン 1995年1月1日 1967年10月11日 33条 64
Poland ポーランド 1995年7月1日 1967年10月18日 33条 65 [94]
Jamaica ジャマイカ 1995年3月9日 1963年12月31日 26条5(c) 66
Trinidad and Tobago トリニダード・トバゴ 1995年3月1日 1962年10月23日 26条5(c) 67
Congo,Democratic Republic of the コンゴ民主共和国 1997年1月1日 1971年8月11日 33条 68
Romania ルーマニア 1995年1月1日 1971年11月14日 33条 69
Bangladesh バングラデシュ 1995年1月1日 1972年12月16日 33条 70
Hungary ハンガリー 1995年1月1日 1973年9月9日 33条 71 [94]
European Communities ヨーロッパ共同体 72
Singapore シンガポール 1995年1月1日 1973年8月20日 26条5(c) 73
Suriname スリナム 1995年1月1日 1978年3月22日 26条5(c) 74
Philippines フィリピン 1995年1月1日 1979年12月27日 33条 75
Colombia コロンビア 1995年4月30日 1981年10月3日 33条 76
Mexico メキシコ 1995年1月1日 1986年8月24日 33条 77
Zambia ザンビア 1995年1月1日 1982年2月10日 26条5(c) 78
Thailand タイ 1995年1月1日 1982年11月20日 33条 79
European Union 欧州連合 1995年1月1日 80 [120]
Morocco モロッコ 1995年1月1日 1987年6月17日 33条 81
Hong Kong 香港 1995年1月1日 1986年4月23日 26条5(c) 82
Tunisia チュニジア 1995年3月29日 1990年8月29日 83
Bolivia ボリビア 1995年9月12日 1990年9月8日 33条 84
Costa Rica コスタリカ 1995年1月1日 1990年11月24日 33条 85
Bolivarian Republic of Venezuela ベネズエラ 1995年1月1日 1990年8月31日 33条 86
El Salvador エルサルバドル 1995年5月7日 1991年5月22日 33条 87
Guatemala グアテマラ 1995年7月21日 1991年10月10日 33条 88
Macao マカオ 1995年1月1日 1991年1月11日 26条5(c) 89
Namibia ナミビア 1995年1月1日 1992年9月15日 26条5(c) 90
Paraguay パラグアイ 1995年1月1日 1994年1月6日 33条 91
Czech Republic チェコ共和国 1995年1月1日 1993年4月15日 33条(ただし原加盟国) 92 [94]
Slovak Republic スロバキア共和国 1995年1月1日 1993年4月15日 33条(ただし原加盟国) 93 [94]
Mali マリ 1995年5月31日 1993年1月11日 26条5(c) 94
Honduras ホンジュラス 1995年1月1日 1994年4月10日 33条 95
Slovenia スロベニア 1995年7月30日 1994年10月30日 33条 96
Antigua and Barbuda アンティグアバーブーダ 1995年1月1日 1987年3月30日 26条5(c) 97
Bahrain バーレーン 1995年1月1日 1993年12月13日 26条5(c) 98
Barbados バルバドス 1995年1月1日 1967年2月15日 26条5(c) 99
Belize ベリーズ 1995年1月1日 1983年10月7日 26条5(c) 100
Botswana ボツワナ 1995年5月31日 1987年8月28日 26条5(c) 101
Brunei Darussalam ブルネイ・ダルサラーム国 1995年1月1日 1993年12月9日 26条5(c) 102
Cameroon カメルーン 1995年12月13日 1963年5月3日 26条5(c) 103
Central African Republic 中央アフリカ共和国 1995年5月31日 1963年5月3日 26条5(c) 104
Chad チャド 1996年10月19日 1963年7月12日 26条5(c) 105
Congo コンゴ 1997年3月27日 1963年5月3日 26条5(c) 106
Cyprus キプロス 1995年7月30日 1963年7月15日 26条5(c) 107
Dominica ドミニカ 1995年1月1日 1993年4月20日 26条5(c) 108
Fiji フィジー 1996年1月14日 1993年11月16日 26条5(c) 109
The Gambia ガンビア 1996年10月23日 1965年2月22日 26条5(c) 110
Ghana ガーナ 1995年1月1日 1957年10月17日 26条5(c) 111
Guyana ガイアナ 1995年1月1日 1966年7月5日 26条5(c) 112
Kenya ケニア 1995年1月1日 1964年2月5日 26条5(c) 113
Kuwait クウェート 1995年1月1日 1963年5月3日 26条5(c) 114
Lesotho レソト 1995年5月31日 1988年1月8日 26条5(c) 115
Maldives モルディブ 1995年5月31日 1983年4月19日 26条5(c) 116
Malta マルタ 1995年1月1日 1964年11月17日 26条5(c) 117
Mauritius モーリシャス 1995年1月1日 1970年9月2日 26条5(c) 118
Mozambique モザンビーク 1995年8月26日 1992年7月27日 26条5(c) 119
Sierra Leone シエラレオネ 1995年7月23日 1961年5月19日 26条5(c) 120
Saint Lucia セントルシア 1995年1月1日 1993年4月13日 26条5(c) 121
Saint Vincent & the Grenadines セントビンセント・グレナディーン諸島 1995年1月1日 1993年5月18日 26条5(c) 122
Eswatini エスワティニ 1995年1月1日 1993年2月8日 26条5(c) 123 [121]
Tanzania タンザニア 1995年1月1日 1961年12月9日 26条5(c) 124
Togo トーゴ 1995年5月31日 1964年3月20日 26条5(c) 125
Uganda ウガンダ 1995年1月1日 1962年10月23日 26条5(c) 126
Grenada グレナダ 1996年2月22日 1994年2月9日 26条5(c) 127
Saint Kitts and Nevis セントクリストファーネイビス 1996年2月21日 1994年3月24日 26条5(c) 128
Angola アンゴラ 1996年11月23日 1994年4月8日 26条5(c) 129
Guinea-Bissau ギニアビサウ 1995年5月31日 1994年3月17日 26条5(c) 130
Qatar カタール 1996年1月13日 1994年4月7日 26条5(c) 131
United Arab Emirates アラブ首長国連邦 1996年4月10日 1994年3月8日 26条5(c) 132
Ecuador エクアドル 1996年1月21日 133
Mongolia モンゴル 1997年1月29日 134
Solomon Islands ソロモン諸島 1996年7月26日 1994年12月28日 26条5(c) 135
Guinea ギニア 1995年10月25日 1994年12月8日 26条5(c) 136
Djibouti ジブチ 1995年5月31日 1994年12月16日 26条5(c) 137
Papua New Guinea パプアニューギニア 1996年6月9日 1994年12月16日 26条5(c) 138
Bulgaria ブルガリア 1996年12月1日 139
European Union 欧州連合 1995年1月1日 140 [122]
Panama パナマ 1997年9月6日 141
Kyrgyz Republic キルギス共和国 1998年12月20日 142
Latvia ラトビア 1999年2月10日 143
Estonia エストニア 1999年11月13日 144
Georgia ジョージア 2000年6月14日 145
Albania アルバニア 2000年9月8日 146
Croatia クロアチア 2000年11月30日 147
Jordan ヨルダン 2000年4月11日 148
Oman オマーン 2000年11月9日 149
Lithuania リトアニア 2001年5月31日 150
Moldova モルドバ 2001年7月26日 151
China 中国 2001年12月11日 152
Chinese Taipe 台湾 2002年1月11日 153 [123]
North Macedonia 北マケドニア 2003年4月4日 154 [124]
Armenia アルメニア 2003年2月5日 155
Cambodia カンボジア 2004年10月13日 156
Nepal ネパール 2004年4月23日 157
Saudi Arabia サウジアラビア 2005年12月11日 158
Tonga トンガ 2007年7月27日 159
Viet Nam ベトナム 2007年1月11日 160
Cabo Verde カボヴェルデ 2008年7月23日 161
Ukraine ウクライナ 2008年5月16日 162
Vanuatu バヌアツ 2012年8月24日 163
Samoa サモア 2012年5月10日 164
Russian Federation ロシア連邦 2012年8月22日 165
Montenegro モンテネグロ 2012年4月29日 166
Lao Peoplefs Democratic Republic ラオス人民民主共和国 2013年2月2日 167
Tajikistan タジキスタン 2013年3月2日 168
Yemen イエメン 2014年6月26日 169
Afghanistan アフガニスタン 2016年7月29日 170
Seychelles セイシェル 2015年4月26日 171
Kazakhstan カザフスタン 2015年11月30日 172
European Union 欧州連合 1995年1月1日 173 [125]
Liberia リベリア 2016年7月14日 174

数量制限禁止編集

数量制限禁止もガットの基本的原則のひとつである[1]。貿易自由化を妨げるのは関税だけではなく、特定の産品を輸入することを禁じたり制限するといった輸入の数量制限措置が行われると外国産品は国内市場に参入すること自体ができなくなるという点で関税以上に貿易制限効果が高いとされ、そうした数量制限は原則として禁止されることとなった(第11条第1項)[126]

セーフガード編集

セーフガードとは、特定の品目輸入が急増することによって国内産業が打撃を受けることを予防するため、関税賦課や輸入数量制限といった形で行われる措置であり[127]、ガット第19条に規定された[128]。これは特定の国からの輸入が一時的に急増することで国内産業に被害が発生した場合に、セーフガードとして緊急避難的に一時的な輸入制限措置を発動することを認めたものである[129]。しかしセーフガードを発動するために国内産業が被害を受けたことを立証することは容易なことではなく[129]、また無差別原則にのとった多角的セーフガードの発動はできても[128]、特定の国の輸入に対してだけセーフガードを発動することは認められず[129]。セーフガードとして関税を引き上げる場合には他の品目で同等程度の関税引き下げを行わなければならないなど一定の制約があり、ガットの規定上認められた権利であったにもかかわらず実際にセーフガードが発動された件数はそれほど多くはなかった[129]。セーフガード発動の権利を行使するためには輸入国側が自らに貿易摩擦の原因があることを認めなければならないため、自由貿易を標榜する先進国としてはセーフガードの権利を行使することがためらわれたのである[129]。こうした理由から、ガットの規定上は必ずしも明確に定められていない輸出自主規制のような、保護主義的な政策が横行していくことになる[129][45]。これはガット体制見直しの大きな一因となった(#ウルグアイ・ラウンド参照)[45]

紛争解決編集

ガットは締約国間の紛争解決に関して、締約国は他の締約国に対して紛争に関する協議を要請でいることとし(第22条)、また締約国がガット上の利益を無効にされた場合、または侵害された場合の救済について定めた(第23条)[130]。これらの規定に基づき紛争当事国間で解決できなかったガット上の利益に関する国際紛争の処理は、ガット締約国団の検討に付される[130]。第23条によれば、相手国がガット協定に違反した場合に締約国団に申し立てることができる(違反申立て)だけでなく、相手国の協定に違反しない措置により本来であれば協定上保障されていたはずの利益が無効になっている場合にも申し立てをすることができる(無違反申立て)とされた[131]。この無違反申立ての制度はWTOのもとに設置されたWTO紛争解決機関英語版にも引き継がれていく[131]。ガットの初期においては作業部会によって紛争についての検討がなされ解決案が紛争当事国に提示されたが、後に締約国団はパネルを設置し、このパネルが理事会に紛争解決に関する報告書を提出するようになった[130]。こうしたガットにおける紛争解決に関する決定を得るためには、締約国団のコンセンサスを得なければならないとされていた[130]。つまり自国にとってパネルの紛争解決が不利なものであれば、その締約国はパネルの決定に反対しパネルによる紛争解決を妨げることが可能となっていたのである[130][132]。WTO紛争解決機関はこのガット紛争解決手続きの不備を改善し、全ての締約国が一致して紛争解決に反対しない限り紛争解決手続きを進行させることができると定められた(逆コンセンサス方式)[131]

注釈編集

  1. ^ この85パーセントの要件が1994年に満たされたとの文献[9]があるが、すでにWTOの発足が決まった1994年に1947年のGATTを正式に受諾することはありえないのでこの文献はWTO協定が1994年のGATTを含むことと混同していると思われる。
  2. ^ 若杉(2009)p156-157では、GATTの当初の案から最終案までの変遷を分析して、GATTが機構であることを意味する可能性のある規定が、最終案では、削除され、意図的に組織規定を含まないことなったことを指摘している。
  3. ^ 発効要件として、受諾国の対外貿易額が、世界全体の対外貿易額に占める割合の85パーセントを越えること(協定第17条(c))となっており、アメリカの比率が20パーセントを越しているため、アメリカの受諾が必須であった。
  4. ^ 英語では"Geneva Round"、"Annecy Round"、"Torquay Round"と、第1回交渉から"Round"を付して呼ばれることがある[21]
  5. ^ 第3回関税交渉(トーキー) に参加し、加入承認決議[105]を受けてトーキー議定書[106]に譲許表(第34表)[107]を作成するが、期限までにトーキー議定書に署名せず、加入しなかった。
  6. ^ 第3回関税交渉(トーキー) に参加し、加入承認決議[109]を受けてトーキー議定書[110]に譲許表(第36表)[111]を作成するが、期限までにトーキー議定書に署名せず、加入しなかった。
  7. ^ 1962年4月6日に加入議定書[114]が作成されるが、カンボジアが受諾せず、未発効[115]

出典編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 筒井(2002)、52-53頁。
  2. ^ 中川(2013)、12-15頁。
  3. ^ a b GATT members”. WTO. 2013年10月14日閲覧。
  4. ^ 一旦締約国となったが脱退した国(中華民国、レバノン、シリア、リベリア)、国家消滅により締約国でなくなった国(チェコスロバキア。なおチェコとスロバキアが締約国になった。)は128にははいっていない。
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  12. ^ この条項に基づき、アメリカの農産物13品目を貿易自由化の義務対象外とした。
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  23. ^ GATT文書MTM.TNC/MIN(94)/INF/1では125としている。これは、GATTの締約国でないECとアルジェリアを含むためである。アルジェリアは1987年から加盟交渉中であり、ウルグアイラウンドの最終議定書に署名もしたが1994年のGATTの締約国にならす、WTOについても加盟交渉中である。
  24. ^ すべてのWTO加盟国が交渉に参加している。
  25. ^ 複数形かつ大文字で表記する。
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  51. ^ EUはそれ自体では1947年のGATTに加盟していなかった。
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  56. ^ 国際連合事務総長は、締約国団の第1回会合を招集するように要請される。その会合は、1948年3月1日以前に行うものとする。
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  58. ^ 最後の総会は1995年12月12日の第55回総会である。ガット文書W.51
  59. ^ 最後の特別総会は、1995年3月24日の第7回特別総会である。ガット文書7SS/SR/1
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  78. ^ 第38表 日本の譲許表である。
  79. ^ 原締約国についてはアルファベット順に番号を割り当てたため、オーストラリア(Australia)が第1表となり、米国(United States of America)が第20表となっている。
  80. ^ “Current Situation of Schedules of WTO Members”. WTO. https://www.wto.org/english/tratop_e/schedules_e/goods_schedules_table_e.htm 2019年2月22日閲覧。 
  81. ^ 例えばリベリアは、1947GATTに1950年5月20日に加盟しSchedules XXVII(第28表)を有していたが1953年6月13日に脱退している。
  82. ^ 例えば韓国は、第3回 (トーキー)関税交渉(1951年)に参加し、Schedules XXXIV(第34表)が作成されたが、朝鮮戦争のため加盟できず、1960年にSchedules LX(第60表)で加盟した。
  83. ^ 現在はSchedules CVXXIII(第173表)であるが、過去にSchedules XL(第40表)、Schedules LXXII(第72表)、Schedules LXXX(第80表)、Schedules CXL(第140表)を有していた
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  86. ^ ポーランドは1967年にGATTに加入したが、その時点のポーランドは国家貿易を行っていたため関税の約束の意味がないとして加入議定書で年率7%以上の輸入増加を約束しただけで関税の譲許表は添付しなかった。ガット文書BISD15S/46 津久井(1997) p819
  87. ^ 津久井(1997) p814
  88. ^ 1993年5月時点の27カ国(津久井(1997) p192)にそれ以降のGATT第26条5(c)による加盟国の14を加算。
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  95. ^ a b c ベルギー、オランダ、ルクセンブルグで共通の表
  96. ^ 加入時はビルマ
  97. ^ 加入時はセイロン
  98. ^ 1950年5月5日脱退(GATT/CP/54)
  99. ^ 国家分裂により消滅(1993年1月1日)
  100. ^ 後ローデシア・ニアサランド連邦、再度分裂の際譲許表は消滅
  101. ^ 1951年8月6日脱退(GATT/CP/118)
  102. ^ a b シリア、レバノンで共通の表
  103. ^ 1951年2月25日脱退(GATT/CP 91 and GATT/CP/91+Corr.1)
  104. ^ 1953年6月13日脱退(G/45 and G/36-46/ADD.4)
  105. ^ 国連条約集142巻18ページ 142UNTA18
  106. ^ 国連条約集142巻34ページ 142UNTA34
  107. ^ 国連条約集147巻161ページ 147UNTA161
  108. ^ 174表の項参照
  109. ^ 国連条約集142巻26ページ 142UNTA26
  110. ^ 国連条約集142巻34ページ 142UNTA34
  111. ^ 国連条約集147巻209ページ 147UNTA209
  112. ^ 75表参照
  113. ^ 72表で代替
  114. ^ ガット文書INSTRUMENT_NO_78
  115. ^ ガット文書BISD11S/12
  116. ^ 156表参照
  117. ^ 加入時は南ローデシア
  118. ^ 国家分裂により消滅(L/2681)
  119. ^ a b スイス、リヒテンシュタインで共通の表
  120. ^ 140表で代替
  121. ^ 加盟時はスワジランド
  122. ^ 173表で代替。EC-25
  123. ^ 正式な名称は“Separate Customs Territory of Taiwan, Penghu, Kinmen and Matsu”(台湾、澎湖諸島、金門及び馬祖から成る独立の関税地域)
  124. ^ 加盟時はマケドニア旧ユーゴスラビア共和国
  125. ^ EC-28
  126. ^ 中川(2013)、86-87頁。
  127. ^ 貿易救済措置”. 経済産業省. 2013年11月17日閲覧。
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参考文献編集

関連項目編集