関西学院大学硬式野球部

日本の大学野球チーム

関西学院大学硬式野球部(かんせいがくいんだいがくこうしきやきゅうぶ)は、関西学生野球連盟に所属する大学野球チーム。関西学院大学の学生によって構成されている。

関西学院大学硬式野球部
加盟団体 関西学生野球連盟
本拠地 兵庫県西宮市上ヶ原山田町67-1 関西学院大学 第3フィールド
創部 1899年
監督 本荘雅章
公式サイト 公式ウェブサイト
リーグ戦成績
リーグ成績 優勝15回
全日本大学野球選手権大会
出場回数 6回
最高成績 準優勝 2回
明治神宮野球大会
出場回数 1回
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ユニフォームの表記は「KWANSEI」、帽子は「K」と「G」の組み文字。ユニフォームが2タイプあり、1回戦と2回戦で使い分けている。ホームゲームはグレー、ビジターゲームは縞のユニフォームを着る。初代ビジターユニフォームは2007年ごろまで使用され、上が紺、下がグレーとなっていた。関西大学との関関戦が看板カードとなっている。

創部 編集

1899年(明治32年)。

歴史 編集

 
関西学院高等部野球部(1925年)

1915年(大正4年)頃からその実力が認められ、1920年(大正9年)6月6日に行われた早稲田大との第1回定期戦では延長12回の接戦を演じた(結果は2-3)[1]

1925年(大正14年)の第2回全国高等専門学校野球大会で優勝[2]

1931年(昭和6年)に旧関西六校野球連盟発足時から加盟(関学の大学昇格に伴い翌年から関西六大学野球連盟に改称)。戦前関西大立命館大の2強対決(関立戦)が長らく続き、関学のリーグ戦初優勝は戦後1947年(昭和22年)秋季リーグ戦まで待つことになる。以来、現在まで通算15回のリーグ優勝を誇る(2023年時点)。

1947年から5回実施された、東京六大学東都大学、そして旧関西六大学の3連盟間で王座を決する全国大学野球王座決定戦の第1回大会(1947年)に出場したが、3校優勝預かりという結果になった。

関大との伝統の一戦「関関戦」は東の早慶戦と並んで、古くは関西で人気のあった対抗戦であった。特に1949年(昭和24年)春から1959年(昭和34年)秋の22シーズン中、関学が8回、関大が9回と両校の優勝が大半を占めたこともあり大きく盛り上がった。関学の優勝回数の大半がこの時期に集中しており黄金時代だったといえる。

この間、1952年(昭和27年)には第1回全日本大学野球選手権大会に出場し準優勝。決勝戦の相手は戦後の黄金時代の慶応大。主要メンバーは、投手では全鐘紡で活躍した本庄賢(旧制香里中=同志社香里高)、南海ホークスに投手で入団も鶴岡一人監督から英語力を見出され通訳に、後に阪神でブレーザー監督のヘッドコーチを務めた藤江清志(関学高)。海外スカウトでバースを見つけた。他に石原一(生野高)、川村尚(山城高)、向井隆一(県兵庫高)などがいた。捕手は大映オリオンズに行った川本浩二(山城高)で吉田義男(元阪神監督)と高校で同期。さらに、國賀敏男(明石高)、石田侃(県芦屋高)、生駒寛(生野高)、大越勉(和歌山海南高)、三輪武(神戸高)、市村博(北野高)らが活躍した。

1953年(昭和28年)にも、第2回全日本大学野球選手権大会に連続出場したが、準決勝で中央大に敗れた。

1959年(昭和34年)、第8回全日本大学野球選手権大会に出場し2度目の準優勝。決勝戦の相手は早稲田大。村井(関学高)、佐々木(天王寺高)、吉田(泉陽高)、堤(県尼崎高)の充実した投手陣と安西捕手(西条高)、武内(関学高)、西上(県尼崎高)、全日本に選出された斎藤圭二(灘高)[3]、植村(関学高)など充実した戦力だった。早稲田は、安藤元博金沢宏両投手陣、近藤昭仁木次文夫らの戦力。延長10回1-1引き分け再試合にもつれ込み、9回裏2死無走者で関学が1点リードするも、失策を機に3-4xでサヨナラ負けを喫した。この時三ゴロを逸失したのが五藤康之(広島三原高)。後に三菱重工三原監督から三原市長を務めた。

1962年(昭和37年)、入れ替え戦方式を導入した関西大学野球連合設立に旧関西六大学野球リーグも参加。

1964年(昭和39年)、監督が社業で不在となり、やむなく小林秀一主将(阿倍野高)がプレーイングマネージャーに。滝口(生野高)と清水正輝(洲本実業高)両投手の活躍と、片岡(同志社高)、伊東(関学高)、湊(住吉高)、五十田(甲陽学院高)、福良(県尼崎高)らの活躍で春季リーグ戦優勝。第13回全日本大学野球選手権大会でも学生監督ながら準決勝まで進出したが、初優勝を遂げた駒澤大に敗れた。

1966年(昭和41年)秋のリーグ優勝。春季リーグ優勝の山下律夫投手や下級生有藤通世擁する近畿大、関学と秋季リーグ優勝を競った伊能正司らを擁する龍谷大、および大阪商業大など、入れ替え戦で旧関六に昇格してきた各校の戦力アップに伴い、以降は優勝から遠ざかることになる。くわえて1968年秋と1969年春には、先に降格していた立命館との入れ替え戦で下部リーグ(近畿大学野球リーグ)と旧関六との降格昇格を繰り返した。1973年(昭和48年)春には、入れ替え戦で京都産業大に敗れてから、下記のように1981年春に旧関六に昇格するまでの8年もの間下部リーグ暮らしを経験することとなり、大学側のスポーツ推薦廃止なども重なり低迷期が長期化した。

大学側としては1978年(昭和53年)に強化策の1つとして、三菱重工三原で活躍したOBの土屋明生(富田林高)を監督に招聘し、野球部の立て直しに着手。

1981年(昭和56年)春、入れ替え戦で大阪経済大を下し旧関六に復帰。スパルタの指導方法で、スポーツ推薦のない野球部を数年で1部復帰させることに成功。その後まもなく連合が解体され、翌1982年(昭和57年)に関学も加わった関西学生野球連盟が発足。固定リーグとなったため2部落ちはなくなったものの、新興の近大、同志社、立命館の牙城を崩せずにいた。

80年代後半には酒井光次郎投手擁する近大がリーグ戦6連覇を遂げた。その酒井らが卒業した1990年代前半から半ばにかけてリーグ戦の行方は近大1強から混迷した展開となる。1990年(平成2年)春秋リーグ戦は長谷川滋利の立命と杉浦正則の同大が優勝。関学は上野伸治投手らを擁して春5位・秋3位であった。翌1991年(平成3年)春季リーグで高木貴と池添修世両投手擁する関大が、1972年以来19年ぶりの優勝を遂げた。同1991年、田口壮が関西学生野球連盟の通算安打記録を更新し[4]、この時担当スカウトであった谷村智啓以来21年ぶりとなるドラフト指名を関学関係者が受ける。

1992年(平成4年)の新入生よりおよそ20年ぶりにスポーツ推薦入試を復活させた。その1期生として今治西高から入学したエース木原栄一郎(のち三菱自動車京都)の活躍もあり、1993年(平成5年)春に66年秋以来およそ27年ぶりのリーグ優勝を飾る。続いて64年春以来29年ぶりに第42回全日本大学野球選手権大会に出場したが、初戦2回戦で青森大に2-6で敗退。以降、関大岡本晃、近大大塔正明と1年下今井圭吾、同大細見和史、関学木原と2年上の本荘雅章(のち関学監督)、立命水田章雄と1年上金森隆浩らが投げ合い、各校が優勝する展開となる。しかし90年代後半になると、二岡智宏清水章夫投手らを擁する近大の連覇が再び続き、時に立命などが絡む展開が続いた。

93年春の優勝を置き土産に土屋明生が監督を退任後、坂田穣、本荘雅章(関学高)、清水正輝(洲本実業高)ら各監督のもとで戦力強化ならびに人工芝の新グラウンド、室内練習場を完成させて環境面の整備を行った。しかし2004年(平成16年)、3回生投手宮西尚生清水誉のバッテリー、野手陣の3回生荻野貴司らが揃った時期でも優勝にはあと一歩届かなかった。

2012年(平成24年)秋、大阪桐蔭高夏の全国制覇を成し遂げた当時の4番バッター萩原圭吾(現ヤマハ)が主将となってチームを引っ張り、またエース蒔野健太(現東邦ガス)のふんばりでついに10月14日、19年ぶり(39季ぶり)13回目のリーグ優勝を飾る。翌2013年(平成25年)秋季リーグては、昨秋以来2季ぶり14回目の優勝を飾る。第44回明治神宮野球大会出場を賭ける関西地区代表選では、第1代表決定トーナメントの2回戦で大商大に敗れたが、第2代表決定トーナメントにまわり奈良産業大大阪体育大を下し神宮大会初出場を果たした。

2021年(令和3年)春、1993年以来28年ぶりに第70回全日本大学野球選手権記念大会に出場し、準々決勝で優勝した慶応大に3-5で敗れた。

本拠地 編集

兵庫県西宮市上ヶ原山田町67-1 関西学院大学 第3フィールド

記録 編集

出身者 編集

Category:関西学院大学硬式野球部の選手も参照。

脚注 編集

  1. ^ 飛田穂洲 『早稲田大学野球部史』 明善社、1925年、294頁
  2. ^ 横井春野 『日本野球戦史』 日東書院、1932年、207頁
  3. ^ 1959年、社会人・大学生混成の第3回アジア野球選手権大会全日本代表に選出された。全日本チームは大沢含む社会人8名・学生9名で構成され、辻猛監督、大沢貞義助監督兼外野手(熊谷組)、堀本律雄(日本通運)、五代友和森滝義巳らの投手陣にくわえ、古田昌幸(熊谷組)、高林恒夫浜中祥和ら立教大関係者を軸に、宮原実捕手(日本鋼管)、田中徹雄(日本石油)、木次文夫渡海昇二、高橋捷郎ら早慶関係者の野手陣を中心に編成。総勢9人の大学生中7人を東京六大学勢が占める中、唯一の関西六大学勢である関学の斎藤圭二と共に唯一の東都勢から専修坂井勝二投手が選出され、片岡健治投手(いすゞ自動車)らと全日本チームの優勝に貢献した。 
  4. ^ それまでは1952年、同志社4回生小俣滋のリーグで初の三桁にのせる通算118安打が長くリーグ最多安打記録であった。91年に関学4年田口壮が123安打で更新。2018年に立命4年辰己涼介が田口にあと1本に迫る122安打を記録している。

外部リンク 編集