メインメニューを開く
地下深くに作られたロンドンの防空壕

防空壕(ぼうくうごう)は、敵方の航空機の攻撃(空爆機銃掃射)およびミサイル攻撃から避難するために地下に造られた施設。避難壕(シェルター)の一種である。

概要編集

鉄筋コンクリート造のものも一部に造られたが、第二次世界大戦時の空襲に備えたものは、物資難の状況から多くはを掘り、周囲に土を盛ったり、廃材を利用して築いていた。

都市部に造られた簡易なものは、大戦の終結後まもなく破壊されたが、郊外に造られた洞窟状の防空壕や、鉄筋コンクリート造のものが残っていることもある。戦争遺跡として保存すべきという意見もあるが、崩落など事故が懸念されるものもあり、各地で問題になっている。

冷戦期には大量破壊兵器の恐怖からNBC、すなわち核兵器生物兵器化学兵器から防護されたシェルターや、その機能を持つ地下鉄などが盛んに作られた。

構造編集

第二次世界大戦中を中心に述べれば、防空壕は爆風や爆弾破片、爆風によって飛散し飛来する土砂・石礫などによる危害を避けるためのあくまでも応急的な待避設備であり、命中弾を受けた場合の安全性はかならずしも保証されない。上空に敵機の飛来を受けつつある間のみの待避場所であり、敵機の離去とともに防空活動を再開続行するべきであるから、普通は敷地内の庭、空き地などに設けられる。理想的な立地条件についていえば、煉瓦建造物・煉瓦塀その他の崩壊し易いものから相当へだたった所が適当である。家屋密集地で自敷地内に余地の無い場合は付近の空き地が選ばれる。

一弾による被害を局限するために壕の大きさは20人収容を限度とし、なるべく小単位のものが分散的に配置されるべきである。構造は、座るか腰掛けていられる程度の深さ、すなわち1.5m程度に穴を掘り、土質が軟弱である場合はで土留めをし、掩蓋として丸太・角材などを渡し、雨戸や板などを敷き、掘り出した土を30-60cm厚さに積む。以上は地下式の場合である。地下水位が著しく高い、または舗装地面であるなど、地下式にできない場合は半地下式・地上式とするが、その場合の側壁の厚さは土嚢などで土を用いた場合は1m以上、煉瓦・石その他の場合は50cm以上を標準とする。

入り口は弾片・崩壊物の飛散物・爆風などが直接侵入しないように防護塀を設けたり入り口を屈曲させたりする。入り口に厚い板戸を設ければ爆風をある程度阻止し、雨水の浸入を防止することができるとされ、防毒幕を二重以上適当に取り付ければ防毒の効果も期待できようといわれた。壕内への雨水の流入の防止、また、排水については特段の注意を払い、は板敷きまたは砂利敷きにするなど、水でぬかるまないように心がける。壕内にまたは土嚢などで腰掛けを設ければ便利である。

防空壕を造る材料としては次のようなものが必要であった。丸太、押角、古い角材その他(、杭、梁材として)、板、古い雨戸、アンペラ、筵、砂利その他(天井、床の材料として)、(かすがい)、針金その他(緊結の材として)。また、側壁、天井を土嚢、土箱などを積んで造る場合は袋、(たわら)、(かます)、などが必要であり、構築用具として、(くわ)、シャベル(もっこ)が必要である。

日本の防空壕編集

 
日本海軍連合艦隊司令部地下壕入り口
慶應義塾大学日吉キャンパス内)
 
太平洋戦争時の防空壕(三重県
 
当時の防空壕の内部
 
軍の指揮により防空壕で待避する人々

用途編集

日本では第二次世界大戦中に、アメリカ軍をはじめとする連合国軍機による銃後への大規模空襲が現実のものとなり、空襲の危険から逃れるため、1944年頃から学校校庭、強制疎開跡の空き地、個人宅内などに大量に作られるようになる。空襲警報が鳴ると、身近なところに造られた防空壕に身を隠した。

堅固な防空壕から、簡易な待避所へ編集

日本国政府は、空襲激化を前にして防空壕政策を転換した。1940年12月24日内務省計画局が発した通牒「防空壕構築指導要領」は、空き地や庭に堅固な防空壕を作るよう国民に指示した。ところが、防空法改正により退去禁止と消火義務が法定された後、1942年7月3日に内務省防空局が発した通牒「防空待避施設指導要領」は、床下に「簡易ニシテ構築容易ナルモノ」を設置するよう指示した[1]

特殊地下壕対策事業編集

日本政府は、旧軍地方公共団体町内会などが築造した防空壕を特殊地下壕(とくしゅちかごう)と呼び、調査や対策を行っている。2005年の調査では、日本全国に10,280箇所が確認されているが、民有地では世代交代などにより地域住民や土地所有者ですら存在を忘れているケースも多く、調査のたびに実数は増える傾向にある。 多くの防空壕では、老朽化が進み落盤による地表の陥没や、遊び場としていた小・中学生が巻き込まれて一酸化炭素中毒酸欠で死亡するなどにより問題になることもある。対策は、陥没が酷い場合は破壊や埋め戻しを、今後も耐久性が見込まれる場合は、出入口をコンクリート擁壁や土留で封鎖する措置が取られる。実施主体は、国有地は直轄で、民有地は国土交通省などの補助を受けた地方自治体が対策を講じることとなるが、地方自治体による地籍調査の遅れや財政不足などの事情により進んでいない。

各国の防空壕編集

イギリス
第二次世界大戦当時、ドイツ空軍爆撃にさらされたイギリスロンドンでは、発達した地下鉄を防空壕として使用した。ほかに、戦争初期に計画し郵便施設地下に作られた「パドック」(暗号名)、ウックスブリッジ空軍地下秘密指令施設などがあった。
冷戦期には、ロンドンのコーシャムにある地下採石場跡を使用した核シェルター作戦本部 en:Central Government War Headquartersen:Hack Green Secret Nuclear Bunkeren:York Cold War Bunker が設置された。
アメリカ
 
第二次世界大戦中にサンフランシスコ市内に張り出されたシェルターへの避難案内
第二次世界大戦中のアメリカでは、1942年9月に行われた日本海軍機によるアメリカ本土空襲を受けて、サンフランシスコシアトルロサンゼルスなどの西海岸の主要都市に防空壕が多数作られた。
冷戦期に、ソ連からの核攻撃に備えレイブン・ロックマウンテン・コンプレックス英語版(別名:underground Pentagon)という陸海空軍の非常用統合指揮所、北アメリカ航空宇宙防衛司令部(NORAD)の地下司令部シャイアン・マウンテン空軍基地が作られた。
政府存続計画の一つ 「Project Greek Island」で、ワシントンから近いグリーンブライヤー英語版ホテルの地下に政府要人のための核シェルターが設置された。
韓国
韓国では、地下鉄地下街を、主に北朝鮮関連の有事の際に防空壕として利用することとなっている。このため、入口の「避難所」表示や、駅での防毒マスク備蓄など、非常時に対応できる設備も多く備わっている。首都ソウルをはじめ多くの主要都市に地下街が発達しているのもこのためである。
フランス
パリの地下採石場英語版の一部は納骨堂として一般開放されている。第2次大戦時にドイツ軍の防空壕施設、そしてそのすぐ側にはドイツに対抗するレジスタンスの施設が置かれていた[2]
冷戦期に、元採石場を利用したタヴェルニー空軍基地が核シェルターとして建設された。
中国
1969年の中ソ対立を機に、広大な核シェルター北京地下城が建設された。
ドイツ
アルプス山地北側の丘陵地帯にはエルトシュタール英語版というトンネルが点在している。起源は不明だが、昔から避難所や宗教儀式場として利用されていたと推測されている。
ドイツの都市部には第二次大戦期・東西冷戦期の防空壕が残り、地下のトンネルや核シェルターのほか、地表に設けられた避難施設(ホーホブンカー)や高射砲塔(フラックトゥルム)も含まれる。これらの一部は歴史的建造物として見学できるほか、住宅・商業施設等としても利用され続けている。
ハンガリー
冷戦期にen:F-4 Object という核シェルターが、ブダペストの都心部に設置された。国会議事堂に繋がる秘密通路を持つブダペスト地下鉄2号線と直結している。
ロシア
アメリカはヤマンタウ山の地下に核シェルター司令部が置かれていると推察している[3]
首都モスクワには、モスクワ地下鉄に沿うように建設されたとされる、核戦争時の緊急避難シェルターおよびそこに通じる専用路線メトロ-2(en)がある。

関連項目編集

脚注編集

外部リンク編集