阿倍 継麻呂(あべ の つぐまろ/つぎまろ)は、奈良時代貴族官位従五位下遣新羅大使

 
阿倍継麻呂
時代 奈良時代
生誕 不明
死没 天平9年(737年)1月(27日以前)
官位 従五位下
主君 聖武天皇
氏族 阿倍氏
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経歴 編集

天平7年(735年従五位下叙爵[1]。天平8年(736年遣新羅大使に任命されて、新羅に渡る[2]。しかし、当時新羅との関係は悪化しており、使節としての使命は受け入れられなかった[3]。また、天平9年(737年)1月に継麻呂は帰国途中の対馬国で疫病のため客死した[4]。なお、この新羅渡航の際に継麻呂が詠んだ和歌が、随行した次男の作品と共に『万葉集』に採録されている[5]

継麻呂の死後に残された遣新羅使が入京すると、天然痘が蔓延したため(天平の疫病大流行)、当時この疫病は新羅から持ち込まれたものだと信じられたという[6]

脚注 編集

  1. ^ 『続日本紀』天平7年4月23日条
  2. ^ 『続日本紀』天平8年2月28日条
  3. ^ 『続日本紀』天平9年2月15日条
  4. ^ 続日本紀』天平9年正月27日条。
  5. ^ 『万葉集』巻15-3656,3668,3700
  6. ^ 『続古事談』巻5、『塵添壒嚢鈔』巻5第23。

出典 編集