附属池田小事件

2001年6月に日本の大阪府池田市で発生した殺傷事件

附属池田小事件(ふぞくいけだしょうじけん)は、2001年平成13年)6月8日大阪府池田市大阪教育大学附属池田小学校で発生した無差別殺傷事件(殺人・殺人未遂建造物侵入銃刀法違反事件)。宅間 守(たくま まもる)が校内に侵入し、同校の生徒計8人を凶器で殺害した。

附属池田小事件
Osaka Kyoiku University Ikeda elementary school.jpg
場所 日本の旗 日本大阪府池田市緑丘一丁目
座標
標的 民間人(小学生と教師)
日付 2001年平成13年)6月8日
10時20分 (UTC+9日本標準時・JST〉)
攻撃手段 刃物で刺す
攻撃側人数 1人
武器 包丁
死亡者 8人(1年生1名、2年生7名)
負傷者 15人(児童13名、教師2名)
損害 児童・保護者・教師が精神的・肉体的に傷付いた
犯人 宅間守
容疑 殺人罪
動機 社会への憎悪
対処 宅間を大阪府警が逮捕・大阪地検が起訴
謝罪 初公判では謝罪したが、第2公判以後は謝罪の態度をとらなかった
刑事訴訟 死刑執行済み
影響 教育関連施設での警備強化
管轄 大阪府警察大阪地方検察庁
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犯人・宅間守編集

宅間 守
生誕1963年11月23日
  日本 兵庫県伊丹市
死没 (2004-09-14) 2004年9月14日(40歳没)
  日本 大阪府大阪市都島区友渕町大阪拘置所
死因刑死絞首刑
国籍  日本
職業無職
罪名殺人罪
刑罰死刑2003年8月28日大阪地方裁判所
動機 社会への憎悪
都道府県 大阪府
死者 8人
凶器 出刃包丁
収監場所 大阪拘置所

生い立ち編集

宅間 守(たくま まもる、1963年昭和38年)11月23日 - 2004年平成16年)9月14日)は、兵庫県伊丹市の工場街の工員家庭の家に生まれた[1]。幼少時代の宅間はたびたび問題行動を起こし、3歳の時に三輪車で国道の中央を走って渋滞させたり、小学校では自分より強い児童にはいじめられていたが、自分より弱い児童に対しては徹底的にいじめるなどした。すなわち、いじめられっ子であると同時にいじめっ子でもあった[2]。乱暴者で、小学校時代のあだ名は『ゴン太』であり[3]などの動物を新聞紙に包んで火をつけて殺害したこともあった。中学入学後も弱いものいじめは継続して行っており、本人が事件後鑑定医に語ったところによれば、「好意を抱いていた女子生徒の弁当精液をかけた」こともあるという[4]。小学生の頃から自衛隊に強い関心を持っており、「将来は自衛隊入るぞ~」と大声で叫んだり、一人で軍歌を大声で歌っていたこともあり、高校生になっても周囲の同級生に「俺は自衛隊入るからお前らとはあと少しの付き合いや」と発言していたこともあったという。また、高校時代に停学処分を受けた際、反省文にも「自衛隊は内申書一切関係無しの一発勝負」などと綴っていたこともあった[注 1]。宅間は幼いころから「高学歴・高収入のエリート」に対する屈折した羨望、嫉妬を抱いていた[2]

尼崎市内の工業高校を1981年(昭和56年)3月に2年で中退[5]したあと、定時制高校に編入学するもすぐ退学。数ヶ月間のガソリンスタンドでのアルバイトを経て、1981年末、18歳のときに航空自衛隊に入隊したが、1983年(昭和58年)1月に1年強で除隊処分を受けている[4]。除隊の理由について、鑑定書は「家出した少女を下宿させ、性交渉した」ために懲罰を受けたと記述している[4]

除隊後、宅間は運送会社やトラック運転手、引越し業者など十数社にわたる転職を繰り返していたが、いずれも数週間から半年以内で辞職している。精神的に荒れ、家族に暴力をふるったり、傷害、暴行などに走り、また高速道路を逆走するなど非行を行うようになっていった[4]。1984年(昭和59年)、マンション管理会社に勤務していたときには家賃の集金と称して女性の部屋に上がり込み、強姦事件を起こしている[6]。事件後、宅間は母親をともない精神科を受診し入院するが、入院中に5階から飛び降りて重傷を負う[6]。この出来事のあと、統合失調症の診断を下されている。また、のちに母親に宛てた手紙によれば、入院したのは警察から強姦事件で追及されるのを回避するためで、5階から飛び降りたのは「親に嫌がらせをするため」であったという[6]。初犯の強姦事件では1985年(昭和60年)に懲役3年の実刑判決が確定し、翌1986年(昭和61年)春から1989年(平成元年)春まで奈良少年刑務所に服役し、1989年の出所後父親が宅間の私物を下取りに出しその金を本人に手渡しして父親から勘当されている。

1993年(平成5年)、30歳のとき非常勤の地方公務員になり、伊丹市営バスの運転手やゴミ収集(1997年)、伊丹市立池尻小学校の用務員(1998年より)などを務めていた[5]が、この間も市バスの運転を務めている最中に乗客の女性に「香水の匂いがきつい」ことを理由に言いがかりをつけてトラブルを起こし懲戒処分を受けている[7]。小学校で用務員を勤めていた際には、ごみを収集場所に持ってきた児童に「入れ方が悪い」と大声で怒鳴ることもあり、生徒が校長に、宅間を辞めさせるよう頼んだこともあったという[8]

1999年(平成11年)4月に宅間は、小学校教諭等が飲む茶に精神安定剤を混入させる行為をした[9]として傷害容疑で逮捕され[5]、後に分限免職されたものの、刑事処分は「責任能力なし」として受けなかった[9]。なお、精神安定剤混入事件について宅間は「先生達に無視され家族とも上手くいかず、人間関係による鬱憤を晴らしたかった」と語っている[5]

その後ふたたび職を転々とするが、そのたびに暴行事件などを起こしたため長続きしていない[10]。2000年(平成12年)11月からは池田市内の建設資材販売会社でトラック運転手を務めていたが、信号待ちで並んだ車の女性に「目が合った」とつばを吐きかけたり、前方に割り込んだ車を蹴るといった問題を起こし、2001年(平成13年)2月に退職させられていた[8]。事件当時住んでいたマンションでも、入居直後から「にらみつけられた」「つばを吐きかけられた」といった苦情が住民から寄せられており、大家は退去してもらうことを検討していたという[8]

十数社の職歴のうち、ある程度長続きした(1年以上)のは航空自衛隊と非常勤の地方公務員の2ヶ所のみであり、それ以外はいずれもおよそ半年以内で辞職したり解雇されたりしている。また、初犯の強姦事件を除き、15回もの逮捕歴があったが、すべて精神障害を理由に不起訴処分になっている。

また、4回の離婚や自殺未遂も経験している[11]

家系・家族とその環境編集

宅間の先祖は旧薩摩藩の下級武士[12]、宅間の家系では事件発生前まで代々誇りにしていた。宅間家の男子にも代々受け継がれ[12]法律警察関係の仕事を行う者が多かった[12]

武士だった宅間の曽祖父は、明治維新の直後に丁髷を落として警察官に就任し、鹿児島県から奄美大島に渡ったあと、大阪・河内へ移住した[13][14]。宅間の祖父は、宅間の父親が17歳になった年の春に死去している[13]。宅間の父親は小学校で学歴を終え、宅間家一家の大黒柱として6人の家族を養ってきた[12]

宅間の父親は、宅間の祖父と幼いころから自宅の庭で木刀を打ち合っていたといい[13]、「自分は薩摩武士だ」との強烈なプライドを生涯持ち続けていた[14]。父親によれば「『誰にも迷惑をかけない』というのは、大きな私のテーマでありました[15]」と語っている。また、「(宅間家の男子は)何代にも渡って厳しい修身教育(道徳)を受けてきたため[16]、(宅間家の男子は)『真のサムライたれ』[15]と教育された。ワシも父親に厳しくそれを仕込まれたし、どんな出身地や身分にも関係なく『教育勅語』というものがあった[15]。これがあったから日本人はちゃんとしとったんですよ[15]」という。父親は極めて平凡な頑固親父で、人生の勝利者にはなり得なかったが自分の人生にプライドを持っていたという[14]

宅間の父親は、家族全員に対して激しい暴力をふるっており[17]、宅間自身も父親から虐待を受けて育った(なお、父親自身も放任されて育っていた様子である)。宅間は暴力をふるう父親を憎悪し、寝ている間に包丁で刺殺してやろうと思ったこともあると述懐している[17]。宅間が自衛隊を退職して非行に走るようになると親子関係はさらに悪化し、取っ組み合いをして父親が宅間を何度も石で殴打する出来事もあった[4]。事件後、父親は宅間のことを「物事が上手くいかないとすべて人のせいにする人間」と評している[18]

宅間の母親は、家事、育児が苦手であり、家事のほとんどは父親が担当し、一種のネグレクト状態であったと指摘される[17]。宅間を身ごもった時、父親に「これはあかん」「おろしたい」と語っていた[19][17]。また、母乳をあげることも嫌がっていたことからも分かるように、宅間の母親は宅間には全く愛情を注がなかったうえに、宅間が中学を受験する際には、「お前なんか産まれてこなければよかった」と罵詈雑言を浴びせられたと、事件後に宅間のマンションから押収されたノートに書かれていた[2]

宅間は両親に対して、けんかをした際に「ヤクザを使ってお前らの生活滅茶苦茶にしてやる」「死ぬまで苦しめてやる」と語っていた[6]

宅間には実兄が一人いたが、破綻した実弟の存在に心を病み、起業の失敗と偽って小刀で首を斬り40代前半のときに自殺している[14]。宅間の母親も長期に渡って心を病み、精神病院に数十年以上入院生活し、2016年(平成28年)末に死去している[20][14]。父親は事件後酒乱となり入院しているが、獄中の宅間によると「宮崎勤の父のように自殺して欲しかった」と語っている[21]

事件編集

事件前日編集

事件前日の2001年平成13年)6月7日夜、宅間は自宅マンションで過去に思いを巡らせ、「何をやっても裏目に出る」と考えていた。復縁しようとしてもますます離れていくばかりだった3人目の元妻について、小学校へ勤務していたときに薬物混入事件を起し免職になったのも彼女と別れて苛々していたためだと考え、「彼女と知り合っていなければ、こんなことにはならなかった」と全ての責任を押し付けて恨みを募らせた。生活に行き詰まっても自殺もできない自分が情けなく苛立たしかったが、「自殺しても元妻らが喜ぶだけだ。あほらしい」「大量に人を殺害すれば、元妻は自分と知り合ったことを後悔するだろうし、世間の多くの人も絶望的な苦しみを味わうだろう」という考えに次第に変化していった。大阪市内の繁華街へダンプカーで突っ込むことも考えたが、小学生を襲うのが簡単だと考え、小さい頃に憧れて同時に嫉ましくも思っていた、エリート校の附属池田小を襲うことに決めたという[22]

当日編集

6月8日午前9時40分頃(事件の40分前)、宅間とみられる男が、白い乗用車を運転し猛スピードで無断駐車をしている駐車場から出ていった様子が目撃された。目撃した人物は「何かやるぞと感じた」という[5]。宅間は刃物店を訪れると「丈夫なやつ」と告げて出刃包丁1本を購入し、池田小へと向かった。車内には、元妻を殺そうとの目的で以前から準備していた文化包丁もあった[22]

宅間は大阪教育大学附属池田小学校東門の前に車を停めると、約100メートル離れた南校舎へ向かい[23]、午前10時10分過ぎ、1階にある2年生の3教室に次々と侵入し犯行に及んだ。時間は2時間目の授業が終わった休憩時間で、2年南組担任の教諭は、数人の児童と共に花壇の世話のため外へ出ていたが、児童の悲鳴を聞いて校舎へ近づき、2年東組担任と1年南組担任の教諭が宅間を追いかけているのを目にした。1年南組担任は、宅間の振り回した包丁で背中を刺されている。2年南組担任がテラスに出ていた生徒にグラウンドへ逃げるよう指示すると、宅間は一瞬生徒らを追う素振りを見せたが、方向を変えて1年南組教室へと飛び込んだ[23]

午前10時20分、1年南組の生徒たちはちょうど音楽の授業から教室へ戻ってきたところで、一足早く音楽室から戻ってきていた男児が、ここで刺され犠牲となった。宅間は他の児童にも次々と切りつけ、教室の後ろにいた女児らは泣きながら廊下へと逃げ出した。駆け付けた副校長と2年南組担任が宅間と格闘になり、2年南組担任は包丁を持った手を押さえようとして顔を切られた。しかし手を押さえられると宅間はおとなしくなり、二人により取り押さえられた。15分に及んだ犯行の間、宅間は終始無言だった[23]。最後の一人を刺し終えた瞬間、凶器である出刃包丁を自ら落として、「あーしんど!」と呟いたとの週刊誌の報道もある[24]

児童8名(1年生1名、2年生7名)が殺害され、児童13名・教諭2名が傷害を負った[25]

取り調べ編集

宅間は取り調べで、事件を起こした理由について「エリートでインテリの子をたくさん殺せば、確実に死刑になると思った」などと供述していた[26]。その後、宅間は殺人罪などで起訴されている。

逮捕当初、宅間は精神障害者を装った言動を取っていた[注 2][注 3]。しかし、被疑者に対して起訴前と公判中に2度行われた精神鑑定の結果で、2度とも「情性欠陥者で妄想性などのパーソナリティ障害は認められるが、統合失調症ではなく、責任能力を減免するような精神障害はない」となり、事件の責任能力を認める結果が出た[28]。また、同時に宅間の犯行時の制御能力について「2、3歳程度の水準にまで」退行していた可能性があるという判断がされた[11]

宅間は逮捕直後に「薬を十回分飲んだ。しんどい」と供述して医師の診察を受けた[29]が、宅間が飲んだとされる薬は通院先の病院などを調べた結果、抗精神病薬「セロクエル」と抗うつ薬「パキシル」、睡眠剤「エバミール」の三種類と判明した[29]。仮にこれら全部を宅間の供述通り10回分服用しても眠くなるだけで、奇怪な行動を起こしたりすることはない[29]

また宅間の自宅を捜索すると、睡眠薬や抗精神病薬など10数種類、約200錠の薬物が押収[29]されたが、これは宅間が複数の病院に通院しては、医師に「眠れない」などと睡眠障害・不眠症を偽って(いわゆる詐病の一種)薬を処方してもらい、服用せずにため込んでいた[29]ものだった。さらに、逮捕後に宅間の血液や尿を採取して仮鑑定した結果、精神安定剤の成分が検出されなかった[29]捜査員がこの事実を宅間へ突きつけると、「すみません。薬は飲んでいません。作り話でした」と偽証していたことを認めた[29]

弁護団によると、初公判が近付くにつれ宅間は多弁になり、「こんなことを言ったらマスコミは騒ぐかな」「(自分に対する)傍聴人の不規則発言は退廷させられるんですかね」などと語っていた。また、弁護団は遺族の思いを伝えることで内省を深めさせようと、宅間に遺族ら被害者の調書150点を差し入れていた。しかし返ってきたのは「遺族にとても聞かせられない言葉」であったといい、弁護団も「公表は控えたい」と口をつぐんでいる[30]

夏には弁護士に、反省の気持を綴った手紙を3通送っていたが、のちに弁護士も「こんなに上手に謝罪の手紙が書けるということを示したかったのかもしれない」と振り返っている。自分の気持を本に書かないかとも言われていたが、「高く売れるんだったら書きましょうか」「フェルトペンでは書きにくいから」として、その気を示さなかった[30]

またこの頃、「こんなところでいたずらに生かされるのは嫌だ」「死刑になってもなかなか執行されないなら、早くやるよう訴訟を起こそうかな」などと話しており、弁護士も「普通の感覚では理解できない。精神医学でどの程度説明できるのだろうか」と洩らしている[30]

裁判編集

2001年(平成13年)12月27日、大阪地方裁判所川合昌幸裁判長)で初公判が開かれた。宅間は「池田小に入って殺傷したことに間違いありません」と起訴事実を全面的に認めた。検察側は宅間が元妻や自分を勘当した父親への恨みを社会へ向け、不特定多数の人の殺害を考えたと指摘。弁護側は「極度に追い詰められた心境下にあって、善悪をわきまえる能力を一時的に喪失したか、著しく減退した状況のもとで犯行に及んだ可能性がある」と、犯行時の責任能力の判断を裁判官に求めた[22]。宅間は「自らの命をもって償いたい」とくぐもった声で語った[30]

また宅間は、検察官による起訴状朗読が始まって約2分後、突然「座ったらあかんか」と左手で席を指しながらぶっきら棒に発言。裁判長に「立ったまま聞いてなさい」とたしなめられる場面もあった[30]

2003年(平成15年)8月28日、大阪地方裁判所(川合昌幸裁判長)は、被告人の宅間守に対して死刑判決を言い渡した。宅間は午前10時2分に刑務官に囲まれて法廷へ姿を現したが、裁判長が判決の言い渡しを告げると、遮るように「最後にちょっと言わせてえな」と叫んだ。裁判長は「今日は発言を認めません」と制したが、「どうせ死刑になるんやったら、言わせてくれ。たったメモ3枚や」「今までおとなしくしとったんや、それぐらいあってもええやないか」と、右手のメモを繰り返し突き出しながら矢継ぎ早に叫んだ。「発言をやめなさい」と厳しい口調で繰り返されてもやめなかったため、10時4分に退廷を命じられ、刑務官に両脇を抱えられて連れ出された。その際、怒りを露わにして傍聴席を振り返り、遺族1名の実名を挙げて大声で罵った。10時5分、裁判長は刑事訴訟法に基づいてそのまま判決を言い渡す旨を告げ、「被告人を死刑に処する」と2度読み上げた[31][11]

死刑確定後編集

死刑判決の言い渡し後、弁護人は控訴したが、翌月に宅間が控訴を自ら取り下げ、死刑判決を確定させた[32]。宅間は主任弁護士への手紙で「6カ月以内、出来れば3カ月以内の死刑執行を望みます」と記していた[33]

宅間は死刑が6ヶ月以内に執行されなかった場合、「精神的に苦痛を受けた」として国家賠償請求訴訟を起こす準備も行っていた。また、今の境遇になったのは過去に入院した精神病院や家族のせいであるとして、「どうせ死刑になるんだったら一矢を報いたい」と、賠償請求訴訟を起こすことも考えていたという[34]

死刑判決確定後、宅間は死刑廃止運動家の女性と出会い、文通を経て獄中結婚をした。晩年は宅間自身の姓を女性の姓に改名している。このほか、愛知県出身の既婚女性から告白を受けており、その女性とも文通を行っていた[35]

死刑確定の約1年後、2004年(平成16年)9月[32]14日(火)午前8時16分に大阪拘置所にて宅間に死刑を執行。宅間の望んだ通りの比較的早い執行となった。執行当日の朝食は摂取することが許されなかったが、宅間は執行直前に刑務官から受け取った煙草リンゴジュースをゆっくり味わってから死刑台に消えていったという。40歳没。宅間が最期に残し、妻が死刑執行後に刑務官から伝えられた言葉は「『ありがとう、と僕が言っていた』と、妻に伝えてください」とされている[36]。妻に対しては感謝の気持ちを表すまでには至ったものの、事件によって犠牲になった被害者の児童やその遺族への謝罪は最期まで一切なかったと言われる。また、同日には福岡拘置所で、別の1人の死刑も執行されている[注 4]

なお、葬儀はマスコミが押しかけることと、費用面など経済的事情もあり難航し、信者ではなかったが大阪市内のキリスト教関係の施設で行われたという[36]

事件後の反響編集

学校側の対応編集

混乱の中、教員が救急車に乗らず児童に付き添わなかったため、保護者への児童の搬送先病院の連絡が遅れていた[37]。事件直後、ある死亡児童の保護者は、早い段階で来校したにもかかわらず、学校内で負傷していた児童に会うことも付き添うこともできなかった末、自力で探し回った病院で死亡した我が子と対面することとなった。さらに事件後、学校からの説明や弔問が遅れただけでなく、教員の心ない表現、発言および行動が遺族の心を大きく傷つけた[38][39]

その後、附属池田小学校では、事件を教訓に学校安全の取り組みを積み重ねてきたことが評価され、2014年(平成26年)、日本の中学では初めて国際的な学校安全認証「インターナショナルセーフスクール(ISS)」を取得した[40]

学校の危険対策編集

この事件をきっかけに、学校(小学校など)、幼稚園保育所などの児童・生徒・幼児が頻繁に利用される教育関連施設にも「警察官立寄所」の看板(プレート)またはシールが貼り付けられたり、学校にも部外者の学校施設内への立ち入りを厳しく規制したり、警備体制を強化するなどの方策を主張する声も増えた。また、防犯ブザーを携帯する児童も増加したほか、保育士教職員が防犯や心肺蘇生を必ず学ぶきっかけとなった[41]。この事件をきっかけに日本では、幼稚園、保育所や学校はそれまでの「地域に開かれた施設」から安全対策重視の「閉ざされた施設」に方針転換するきっかけとなった。それまでは地域のコミュニティに重要な役割を果たしていたと言い、校庭などは子供たちの遊び場にもなっていた。この事件をきっかけに監視カメラを設置したり、原則的に部外者の立ち入りを禁じると言うこれらの傾向が強まった。一部では常に警備員を配置したり、集団登校時に保護者や地域のボランティアによる見守りも行われるようになった[42]

触法精神障害者に対する対応編集

心神喪失と認められ、無罪あるいは不起訴処分となった者に対する処遇のあり方について議論された。それまでは、精神障害者に対して司法機関が関与して処遇が行われることは、一部の団体が保安処分に対して、極めて抵抗感が強かったが、この事件以降に『心神喪失等の状態で重大な他害行為を行った者の医療及び観察等に関する法律』が制定された。保護観察所に社会復帰調整官(精神保健福祉士)が置かれ、社会復帰調整官が中心となって医療観察が実施されることとなった。

被害者の精神的な障害編集

児童や教職員・保護者の中には、心的外傷後ストレス障害 (PTSD) に未だかかっている人もいる。また、「あの時ああすればこの事件が起きなかったのに(または被害を抑えられたというのに)」というサバイバーズ・ギルト、いわゆる「見殺しにしたという自覚」ともとれる自責の念に駆られている教員もいる(一審の最終弁論で現行犯逮捕に携わった教員の証言)[38][39][43]

精神障害者における報道被害編集

精神障害者のうち、統合失調症気分障害などの者の家族らで運営する、精神障害者家族会のかつてあった全国連合組織、財団法人全国精神障害者家族会連合会(全家連)が、精神科医を通して、事件後の精神障害者に対する報道被害の様子の変化を調査している[44][45]

  1. 自分の病気や障害について深く考え悩むことがあった患者がいた (73.9%)
  2. 他人の目が気になったりして外出が嫌になった患者がいた (63.0%)
  3. 再発というほどではないが症状が不安定になった患者がいた (57.6%)
  4. 眠れなくなったりするなど生活のリズムが乱れた患者がいた(50.0%)

深刻な事例として、精神科医から挙がった声としては

  1. 自殺した患者がいた(1.1%、2人)
  2. 入院・再入院した患者がいた(16.3%、24人)
  3. 再発した患者がいた(13.0%、21人)

となった。

全家連から報道機関への見解と要望編集

全国精神障害者家族会連合会(全家連)は、報道機関に対し「大教大池田小児童殺傷事件の報道について」(2001年6月8日付)と[46]「小学校児童殺傷事件報道について」(2001年6月18日付)を送付している[47]

  • 前者では「この事件で逮捕された男には、精神病院の通院歴があったと報じられていますが、その記述については、私たち身内に精神科治療を受ける者を持つ立場から見て、重大な疑義を感じざるをえません。記事(番組)の中で報道されている『男は、精神病院に通院中で…』という部分は、その表現 (以下、病歴報道)によって、読者(視聴者)には、『精神疾患』が本事件の原因であり、動機であると理解されてしまいます。その結果、「精神病者精神障害者)はみな危険」、という画一的なイメージ(=偏見)を助長してしまうと考えるからです」

と、安易な病歴報道の問題点を指摘し、

  • 「妄想や幻聴などの症状は、薬物療法でコントロールしやすいといわれています」と精神科治療の実情を説明、「なぜこんな事件が起きたのか、服薬はきちんとしていたのかなど、事件の背景をきちんと取材し、今後の教訓となるような報道をしてください」

と要望している。

  • 後者では「安易な報道によって、「精神障害者は危険だ」という社会の偏見がより強くなりました。(中略)これは『報道被害』であるといっても、過言ではありません」

と、報道によって受けた報道被害を訴え、

  1. 事件の報道をする場合、警察発表であったとしても、事件の背景、病気の状態などが明らかになっていない段階で、特定の病名や通院歴・入院歴を報道するべきではないこと
  2. 法的責任能力の問題を精神障害に置き換えて報道しないこと
  3. この事件と触法精神障害者処遇問題を安易に結びつけないこと

の三点を要望している。

補足編集

精神鑑定書編集

2013年、本件の鑑定人の一人である精神科医の岡江晃は、宅間の名を冠した『宅間守 精神鑑定書 精神医療と刑事司法のはざまで』を著した[48]。その本の内容は下記によりなる。

  • 鑑定書前文
  • 第1章 家族歴
  • 第2章 本人歴(生活歴、精神科治療歴、生活歴精神科治療歴に関する宅間の陳述)
  • 第3章 本人犯行(宅間以外の供述、鑑定時に述べたこと)
  • 第4章 現在症(精神所見、心理検査所見、身体所見)
  • 第5章 診断(精神医学的考察、本件犯行とその心理、精神能力)
  • 第6章 鑑定主文

資料として各種検査、判決要旨が追加されている。鑑定人はH.T.と岡江晃で、ほかに鑑定助手として医師2人、臨床心理士1人が協力した。鑑定主文を要約すると、宅間はいずれにも分類できない特異な心理的発達障害があり、この延長線上に青年期以降の人格がある。本件犯行時、本人は情性欠如者であり、穿鑿癖、脅迫思考を基盤とした妄想反応である、嫉妬妄想があった。本件犯行そのものに踏み切らせた決定的なものは情性欠如であり、著しい自己中心性、攻撃性、衝動性である。本件犯行が極めて重大な犯罪であるという認識は、犯行直前、直後、現在もある。

  • 診断の中の精神医学的考察の中で、過去の精神科医の診断が述べられている[49][50]。それによると過去に診察したすべての精神科医は程度の差はあれ、精神分裂病(現在は統合失調症)の可能性があると考えたという事実が記録されている。診療録の診断名は精神分裂病のみならず、精神神経症、敏感関係妄想、神経症などとなっているが、それらは単に暫定診断であり、保険請求のための診断であった。唯一、約2年間にわたって主治医であった精神科医Y.M.のみが、本件犯行より以前に精神分裂病から、妄想性パーソナリティ障害へと診断変更した。

呼称について編集

  • 「大阪教育大学教育学部附属池田小学校」(現:大阪教育大学附属池田小学校)[注 5]の所在地周辺では、「池田小」といえば別の学校である「池田市立池田小学校[注 6]を指すことが一般的で、事件のあった学校名を記載する際には、「大阪教育大学教育学部附属池田小学校」とフルネーム、略称も「附属池田小」と呼称する場合が多い。マスコミなどの扱いでも、主要紙は記事本文では「附属池田小事件」と表記することが多いが、見出しなどでは依然「池田小事件」と表記されることもある[51]

その他編集

  • 事件発生2日後の2001年6月10日横浜国際総合競技場(現:日産スタジアム)で行われたFIFAコンフェデレーションズカップ決勝、日本 - フランス戦のキックオフ直前に、両チームの選手が事件の犠牲者へ向けて1分間の黙祷を行っている。この時、字幕に「Pray for eight victims(8人の尊い命に対し、黙祷を捧げます)」というテロップが世界中に放送された。
  • 産経新聞が校庭に座って泣く児童らの写真を掲載し、この写真は2001年度の新聞協会賞を受賞している。
  • 橋下徹は、政界入り以前の弁護士だった2004年に「(宅間を)速やかに死刑にすべき」という異例の寄稿を週刊誌で発表した。その後、宅間から弁護人を通じて早期の死刑実現に対する援助を依頼する手紙が届いたが、橋下は宅間が遺族に謝罪するという条件つきで了承する旨を返答した。しかし、返事には人生に対する恨みや苦悩は書かれていたが、遺族への謝罪や反省のコメントは書かれていなかった。この手紙はテレビ番組「たかじんのそこまで言って委員会」で朗読したが、結局協力はしなかった。
  • この事件は海外でも大きく報道された。これをきっかけにコロンバイン高校銃乱射事件の犠牲者の遺族と本事件の遺族との交流が始まり、以降両者は「学校の安全をいかに確保するか」というテーマで定期的にシンポジウムを行っている[52]
  • 2012年5月公開の映画「僕は人を殺しました」(坂井田俊監督)は、宅間と北九州監禁殺人事件で死刑判決を受けた犯人Xをモチーフにしている[53]

脚注編集

[脚注の使い方]

注釈編集

  1. ^ その他、当時の反省文には自身が小学生の頃からの反社会的行動や、運転免許証を所持していないにも関わらずオートバイを購入したこと、祖母への愛着、部落問題への批判など十数ページにわたり延々と綴った後、文末には「最後に俺自身の大きな反省点は、先の事を考えて行動せよ。それだけ」で締め括っている。
  2. ^ 取り調べで「オレは学校なんか行ってない。阪急池田駅で人をメッタ斬りした」と不可解な発言をした[27]
  3. ^ 宅間は過去に15回もの逮捕歴(高速道路の逆走、実兄の愛車である高級輸入車を「サラリーマンが外車なんか乗るな!」と角材で破壊する行為、小学校教諭が飲む茶に精神安定剤を混入させる行為など多岐にわたる)を持つが、精神科通院歴が理由で不起訴処分(あるいは保護観察処分)という比較的軽い処分を経験している[27]
  4. ^ 当時59歳の元暴力団組長で、1988年(昭和63年)に部下の組員を保険金目的で殺害、口封じに他の組員2人も殺害したほか短銃を強盗するなどし、11の罪に問われていた。1999年(平成11年)3月に最高裁が上告を棄却し死刑が確定[33]
  5. ^ 2004年度に改称。
  6. ^ 大阪教育大学附属池田小学校と池田市立池田小学校の2校は歴史的に関連がある。

出典編集

  1. ^ 『北日本新聞』2001年6月10日付朝刊30面『狙われた教室 上』より。
  2. ^ a b c 片田珠美 2009, p. 104.
  3. ^ Showa heisei nihon no kyoaku hanzai hyaku.. Takarajimasha., 宝島社. Takarajimasha. (2017.8). ISBN 9784800273413. OCLC 1003125116. https://www.worldcat.org/oclc/1003125116 
  4. ^ a b c d e 片田珠美 2009, p. 105.
  5. ^ a b c d e 『富山新聞』2001年6月9日付28面『無言で次々と刺す「何かやるぞ」最悪の事態に 宅間容疑者 異物混入で逮捕歴』より。
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  7. ^ 片田珠美 2009, p. 107.
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  10. ^ 片田珠美 2009, p. 109.
  11. ^ a b c 『死刑囚200人最後の言葉』(2019年8月22日、宝島社発行)204ページ。
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  20. ^ Showa heisei nihon no kyoaku hanzai hyaku.. Takarajimasha., 宝島社. Takarajimasha. (2017.8). ISBN 9784800273413. OCLC 1003125116. https://www.worldcat.org/oclc/1003125116 
  21. ^ Hito o koroshite mitakatta : Nagoya daigaku joshi gakusei satsujin jiken no shinso.. Ichihashi, Fumiya., 一橋, 文哉. Kadokawa. (2015.9). ISBN 9784041033913. OCLC 931926886. https://www.worldcat.org/oclc/931926886 
  22. ^ a b c 『朝日新聞』2001年12月27日東京夕刊社会面1頁「宅間被告、罪状認める 池田小の児童殺傷事件、初公判 責任能力が争点に 大阪地裁」
  23. ^ a b c 『朝日新聞』2001年6月9日東京社会面39頁「『あの明るい子が…』 大阪の小学校 8人刺殺 苦手の鉄棒練習・笑わせるの得意 犠牲児童思い涙」
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  31. ^ 『朝日新聞』2003年8月28日付東京夕刊23頁『「最後に言わせてえな」宅間被告に死刑 メモ掲げ 何度も叫ぶ 退廷時、遺族ののしる』
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  51. ^ 池田小の事件当時は小2 重傷を負った女性は幼児教育の道にライブドアニュース公式サイト
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  53. ^ “池田小事件がモチーフ…「洗脳」で人を殺せるのか? 衝撃的過ぎる映画『僕は人を殺しました』公開決定”. シネマトゥデイ. (2012年4月24日). https://www.cinematoday.jp/news/N0041560 2018年12月5日閲覧。 

参考文献編集

関連項目編集

死刑囚が早期の死刑執行を望んだ殺人事件編集

  • ゲイリー・ギルモア - 『死刑にされる権利』を訴えたアメリカの死刑囚
  • ピアノ騒音殺人事件 - 早期の死刑執行を望み控訴を自ら取り下げたが、死刑確定から40年以上が経過した2020年6月時点でも死刑が執行されていない。
  • 広島タクシー運転手連続殺人事件 - 2000年に第一審で死刑判決を言い渡されたが控訴せず死刑が確定。2006年に死刑執行
  • 奈良小1女児殺害事件 - 2006年に第一審で死刑判決を言い渡されて控訴したが自ら取り下げて死刑が確定。2013年(土浦連続殺傷事件の死刑囚と同日)に死刑執行
  • 土浦連続殺傷事件 - 2009年に第一審で死刑判決を言い渡されて控訴したが自ら取り下げて死刑が確定。2013年(奈良小1女児殺害事件の死刑囚と同日)に死刑執行

学校侵入者による類似襲撃事件編集

類似事件編集

その他、アメリカ合衆国では銃乱射しての事件が頻繁に発生。

外部リンク編集