陳 希烈(ちん きれつ、生年不詳 - 至徳2載(757年))は唐代玄宗朝の政治家。宰相にまで任じられたが、安史の乱において安禄山側に降伏し、粛宗自殺を命じられた

経歴編集

 宋州の出身。玄学(道教の学問)に詳しく、書は読んだこともなかった。開元年間に玄宗に玄学を講義し、秘書少監となった。開元19年(731年)には、張九齢に代って集賢院学士となり、工部侍郎まで昇進した。玄宗が撰述した書物は全て陳希烈によるものであった。天宝元年(742年)、符応にかこつけて玄宗に取り入り、崇玄館大学士となった。

 天宝5載(746年)、李林甫は彼が玄宗の信任が厚い上に、柔和で御しやすいので宰相に引き立てた。陳希烈は李林甫の政策や謀略にただ同調し、署名するだけであったと伝えられる。兵部尚書と左相を兼ねた。

 天宝11載(752年)には楊国忠に同調し、王鉷の排除や李林甫との対立に協力する。李林甫の死後、天宝12載(753年)、楊国忠とともに李林甫への誣告を行い、許国公に任じられた。しかし、楊国忠が韋見素を引き立てて陳希烈を宰相から外し、太子太師にしたために恨みに思っていたと伝えられる。

 天宝14載(755年)の安史の乱が勃発する。至徳元載(756年)の長安陥落時に、張均張垍達奚珣らとともに安禄山に降伏し、宰相に任じられた。

 至徳2載(757年)、広平王・李俶郭子儀ら唐側が安慶緒に勝利し、安慶緒が逃亡した時に、洛陽にいた燕(安禄山の王朝)側の百官を率いて素服で降伏し罪を請うた。罪は斬刑にあたったが、玄宗から寵愛されていたことにより自殺を命じられた。

伝記資料編集

  • 旧唐書』巻九十七 列伝第四十七「張説伝」
  • 新唐書』巻二百二十三上 列伝第百四十八 「姦臣上・陳希烈伝」
  • 資治通鑑