陳霸先

南朝陳の初代皇帝。

陳 霸先(ちん はせん)は、南朝の初代皇帝。「梁上の君子」の故事で有名な潁川陳氏の陳寔の末裔を称した[1]

武帝 陳霸先
初代皇帝
王朝
在位期間 永定元年10月10日 - 永定3年6月21日
557年11月16日 - 559年8月9日
都城 建康
姓・諱 陳霸先
興国
小字 法生
諡号 武皇帝
廟号 高祖
生年 天監2年(503年
没年 永定3年6月21日
559年8月9日
陳文賛
董氏
后妃 武宣皇后章氏
陵墓 万安陵
年号 永定 : 557年 - 559年

人物 編集

風貌 編集

身長は七尺五寸。日角(のように額が隆起しており)龍顔で、手を伸ばせば膝を過ぎた。

生涯 編集

呉興郡長城県(現在の浙江省湖州市長興県)の人。祖先は代々潁川郡に居を構えていたが、西晋末期の永嘉の乱の際に南遷。東晋咸和年間の土断により、正式に長城県が本籍地となる。

南朝梁の軍人として活躍し、太清元年(547年)に交州で反乱を起こした李賁を討って頭角を現した。侯景が反乱を起こした時も、王僧弁と協力して承聖元年(552年)にこれを討っている。これらの功績から征北将軍に任じられた。

承聖3年(554年)に元帝西魏とその傀儡の後梁の軍により殺害されると、陳霸先は王僧弁と共に敬帝蕭方智を擁立する。だが、その後北斉により閔帝蕭淵明が皇帝として送り込まれると、閔帝を支持する王僧弁と対立し、結局天成元年(555年)には王僧弁を討って閔帝を廃し、自らは敬帝を擁して実権を掌握した。さらにその後、南下してきた北斉の大軍を打ち破るなどして、確実に実力と人望をつけた陳霸先は、太平2年(557年)に敬帝に禅譲を迫り、南朝陳を開いた。敬帝は同年のうちに殺害されている。

だが即位後は、自らが討った王僧弁の残党の反攻に苦しみ、この鎮圧に追われて、国政を磐石なものとすることなく生涯を終えた。

妻子 編集

  • 正室:銭氏(贈昭皇后)
    • 長男:孝懐太子 陳克
  • 皇后:章要児(宣皇后)
  • 生母不詳の子女
    • 次男:豫章献王 陳立
    • 三男:長沙思王 陳権
    • 皇女:永世公主 - 銭蕆の妻
    • 皇女:会稽公主 - 沈君理の妻

脚注 編集

  1. ^ 南史』第9には「其本甚微,自云漢太丘長寔之後也」とあり、陳霸先は寒門出身で陳寔の末裔を自称しているものと断じられている。

関連項目 編集

先代
皇帝
初代:557年 - 559年
次代
文帝