陶啓勝(とう けいしょう、1883年 - 1911年10月11日)または陶啓聖は、新軍第八鎮工兵第八営第二哨哨長(小隊長に相当)で、1911年の武昌起義において、最初に戦死した人物である。湖北省の出身。

陶啓勝
プロフィール
出生: 1883年
死去: 1911年10月11日
職業: 軍人
出生地: 湖北省
死没地: 湖北省武昌
各種表記
繁体字 陶啓勝
簡体字 陶启胜
拼音 Táo Qǐshèng
ラテン字 Tao Qisheng
和名表記: とう けいしょう
発音転記: タオ・チーション
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1911年10月10日、革命家の劉復基彭楚藩楊宏勝ロシア人警官の捜査を受けて逮捕された。湖広総督の瑞澂は3名を公開斬首刑とし、新軍内の革命家に動揺が広がっていた。夕方、正目(班長に相当)金兆龍と兵士の程定国小銃と弾薬箱を持ち出し、仰向けに寝そべっていた。それを発見した陶啓勝は「謀反する気か?」と二人を詰問した。金兆龍は「反乱だ! 反乱! すぐに反乱を起こしてやる! 」と反抗したため陶啓勝は激怒、金兆龍を平手打ちし、トラブルとなった。陶啓勝の方が優勢となり、金兆龍は取り抑えられた。そこへ小銃を持って駆け付けた革命派の程定国が金兆龍に加勢、程定国から銃床で殴りつけられた陶啓勝は負傷してしまった。形成不利となった陶啓勝は逃げ出したが、兵舎での暴動鎮圧のため駆けつけた管帯(大隊司令官)阮栄発により革命派と間違われ、誤射されてしまう。彼は革命派だった弟の陶啓元副正目(副分隊長に相当)の救護を受けたが、翌日に出血多量で亡くなった。

言い伝えによると、陶啓勝の弟の陶啓元と「革命軍大隊長」の熊秉坤義兄弟だった。蜂起計画を知らされた陶啓元は兄の身を案じ、蜂起に巻き込まれないよう忠告を行ったが、逆に陶啓勝は蜂起計画を知って警戒を強化し、金兆龍とトラブルになったとされる。また別説よると、陶啓元は陶啓勝に蜂起計画を直接忠告したのではなく「運勢が悪くなっているから回避しよう」と説得したが、「軍人がそんなものを信じるとでも?」と取り合わなかったため、戦死したとされている。

参考文献 編集

  • 胡石庵「湖北革命実見記」
  • 賀覚非「辛亥武昌首義人物伝」中華書局