陸 希質(りく きしつ、492年 - 549年)は、北魏から東魏にかけての官僚軍人は幼成。本貫河南郡洛陽県

経歴 編集

陸叡の子として生まれた。員外郎を初任とし、侍御史を兼ねた。しばらくして散騎侍郎・陽城郡太守に転じた。孝荘帝の初年、龍驤将軍・膠州刺史に任じられた。南朝梁が数万の軍を発して鬱洲から膠州に侵攻してくると、希質はこれを討って撃破した。龍驤将軍のまま建州刺史に転じた。530年永安3年)、爾朱栄が殺害され、爾朱世隆が兵を率いて晋陽へ向かうと、希質は建州の州城を守って爾朱世隆を阻んだが、城は陥落して捕らえられ、兄の陸希道の子の陸士廉が殺害された。希質の妻の元氏が、爾朱栄の妻の兄の孫だったため、希質は一命を赦された。東魏の天平初年、給事黄門侍郎となった。魏尹に任じられ、太常卿・衛大将軍・都官尚書に転じた。山偉宇文忠之らと朋党を結んで、士人を排斥したために憎まれた。549年武定7年)夏、死去した。享年は58。驃騎大将軍・中書監・青州刺史の位を追贈された。は文といった。

子女 編集

  • 陸珣(字は子琰、開府参軍、反乱に遭って弟の陸瑾とともに殺害された)
  • 陸瑾(字は子瑜、反乱に遭って兄の陸珣とともに殺害された)
  • 陸瓘(字は子璧)
  • 陸悉達(武定年間に儀同開府参軍)

伝記資料 編集