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陽春丸(ようしゅんまる)は、秋田藩軍艦[2]明治政府軍として箱館湾海戦に参加した。 艦名は「春の盛り、陽気天地に満ちる季節」を意味する[8]

基本情報
建造所 (アメリカマサチューセッツ[1])
艦歴
進水 万延元年(1860年)[1][注釈 1]
竣工 元治元年(1864年)[1]
就役 慶応4年7月(1868年)秋田藩が購入[2]
慶応4年8月25日(または明治2年1月13日[3])借上[1]
その後 明治2年8月10日秋田藩へ返還[4]
明治3年(1870年)売却
改名 サガモア → カガノカミ → 陽春丸
要目
排水量 530英トン[5]
長さ 170[5](約51.52m)
27尺[5](約8.18m)
機関 蒸気機関[5]
推進 内車[6]
出力 280馬力[6]
乗員 明治2年4月10日総員:102名[7]
兵装 砲 6門[5]
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『近世帝国海軍史要』や『日本海軍艦船名考』では日本海軍の軍艦として扱われている[8][9][10]

要目編集

『幕末の蒸気船物語』によると「サガモア」は南北戦争時に急速建造された「90日砲艦」と呼ばれる砲艦であり、その要目は以下のようであった。

  • 排水量:691トン
  • 水線長:48.26m
  • 幅:8.53m
  • 吃水:2.90m
  • 機関出力:400馬力(IHP)
  • 速力10ノット

『近世帝国海軍史要』に排水量1,500と記されている[9]。 これは単純換算すると767容積トンとなる。

艦歴編集

『日本海軍史』によると[1]
元はアメリカで建造された軍艦で原名「サガモア(Sagamore)」。元治元年(1864年)に竣工し、その後民間に売却され汽船として使用されていたのを慶応元年(1865年)に秋田藩が購入し「カガノカミ」と命名、慶応4年(1868年)に「陽春丸」と改名された。同年8月25日(1868年10月10日)に新政府軍が借り上げて「陽春」と称し、翌明治2年(1869年)の榎本艦隊追撃に参加した。

『幕末の蒸気船物語』によると
1861年12月「サガモア」建造、1865年に民間に売却され米商船「カガノカミ」と改名、慶応4年8月(1868年9月から10月)に秋田藩が購入し「陽春丸」となった、としている。

「当藩所持之陽春艦顛末取調」によると
蒸気船を持っていなかった秋田藩は、戦争に備え慶応4年7月に函館のアメリカ人から67,500両で購入した[2]。 原名は「カガノカミ」[2]。 明治2年1月13日(または2月[2])に函館へ征討の為に軍務官が借り上げた[3]

明治元年に長崎で修理を行い[11]、 12月の時点でまだ修理中だった[12]。 明治2年2月19日兵庫港を出港、20日に潮岬の沖を過ぎ、東に向かっている所でその日の午後から荒天にあった[13]。 表三角帆が破損、桁が1本折れたが、21日午後5時に無事横浜港に入港した[13]

1869年4月24日(旧暦で明治2年3月13日)に浦賀を出港した「陽春」を含む艦隊は4月27日(旧暦3月16日)に宮古湾に到着、5月6日(旧暦3月25日)には「回天」の攻撃を受けた(宮古湾海戦)。「陽春」らは追撃のため当日に宮古湾を出港し、5月8日(旧暦3月27日)に青森港に入港した。5月19日(旧暦4月8日)に部隊を載せた輸送船と共に青森を出港、翌日に函館へ部隊を上陸させ、「陽春」らは艦砲射撃を実施し味方の進軍を助けた。6月5日(旧暦4月25日)には箱館湾に進入し榎本艦隊の軍艦および陸上砲台と砲撃戦を行った(箱館湾海戦)。また6月16日(旧暦5月7日)と海戦の最終日となった6月20日(旧暦5月11日)の砲撃戦にも「陽春」は参加している。 旧暦6月16日に甲鉄、春日、陽春、丁卯の4隻を兵部卿宮が視察した[14]。 9月15日(旧暦8月10日)付で秋田藩に返還となり[4]、 旧暦8月14日に引き渡された[2]

藩では運輸船として使いたかったが、形式上商船として使用された[2]。 船の購入代金は購入時に20,000両を支払い、その後の返済で11月に完済、契約に曖昧な点があったため、翌明治3年5月に函館で談判して解決した[2]

1870年(明治3年)に民間に売却され、大阪東京間の定期船として利用された。同年末にさらに売却されアメリカ人船主が所有、「ダイミョウ(Daimyo)」と改名し極東で使用された。ダイミョウのその後は明らかになっていない。

艦長編集

  • 石井貞之進(艦長代):明治2年[7]

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 『幕末の蒸気船物語』によると1861年12月に建造。

出典編集

  1. ^ a b c d e 『日本海軍史』第7巻p.462、「陽春 YOSHUN」。
  2. ^ a b c d e f g h #M3公文類纂8/久保田藩所有陽春艦顛末取調画像1-3。
  3. ^ a b [[#M2公文類纂/陽春丸借揚の義}]]画像1、「佐竹中将 其藩所持之軍艦陽春丸当分御借揚ニ相成候此段進達候事 正月十三日 軍務官」
  4. ^ a b #M2公文類纂/陽春艦引渡の義画像1、「久保田藩 陽春艦御用済ニ付其藩ヘ御引渡ニ相成候事 但艦長石井貞之進ヨリ可受取候事 八月十日 兵部省」
  5. ^ a b c d e #艦船名考(1928)pp.10-11、「9 陽春 やうしゆん Yôsyun.」
  6. ^ a b 『日本海軍史』第7巻pp.224-225
  7. ^ a b #M1公文類纂/軍艦乗組人名録画像8-17、艦長代1、副長4、会計方1、医師1、会計助役2(以上4月10日調べ)、士官?8、水夫小頭3、水夫59、火焚小頭3、火焚20(内1名2月18日下艦)。
  8. ^ a b #銘銘伝(2014)p.208、陽春(ようしゅん)
  9. ^ a b #近世帝国海軍史要(1974)p.882、帝国艦船年表。
  10. ^ 『聯合艦隊軍艦銘銘伝』p208。
  11. ^ #M2公文類纂/陽春丸長崎に於て修復の節条約書云々画像1、「昨年陽春丸軍艦於長崎修復相成候節之条約書並諸受取書類洋文和文共船将井上大蔵ヨリ於兵庫武島氏ヘ差出置相成候由ニ付御取調早々御差越可被成尤至急入用之次第候間可成丈早々御取計之程奉希候以上 十二月廿三日 兵部省 丞 大阪出張 兵部省御中 庚午正月十二日之部ニ英文之分見当無之趣云々大阪出張所ヘノ遣輸並ニ武島氏ヘノ問合書共有之事 本文ノ云条約書受取書類ハ浪○往復ニ無之因テ是ノミ出ス」
  12. ^ #M1公文類纂拾遺/摂津丸外3艘速に修理出来方達画像1、「摂津丸 和泉丸 朝陽丸 陽春丸 士官中 御軍艦修理方猶精々加勉励速ニ出来候更ニ相達候事 兵庫軍務官 辰十二月 右和泉丸ニテ大橋健助ヘ遣候事」
  13. ^ a b #M1公文類纂拾遺/陽春艦横浜着港の件1画像1-3。#M1公文類纂拾遺/陽春艦横浜着港の件2画像1-3。
  14. ^ #M2公文類纂/兵部卿官御巡視云々春日外3艦へ達画像1

参考文献編集

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『明治元年 公文類纂 完 本省公文/軍艦乗組人名録』。Ref.C09090001300。
    • 『明治元年 公文類纂 拾遺完 本省公文/兵部省書類鈔録 陽春艦横浜着港外云々等の件石井貞之進書面』。Ref.C09090006100。
    • 『明治元年 公文類纂 拾遺完 本省公文/兵部省書類鈔録 陽春艦横濱着港外云々等石井貞之進書面』。Ref.C09090006200。
    • 『明治元年 公文類纂 拾遺完 本省公文/兵部省書類鈔録 摂津丸外3艘速に修理出来方達』。Ref.C09090008000。
    • 『公文類纂 明治2年 完 本省公文/海軍日誌 6月 兵部卿官御巡視云々春日外3艦へ達』。Ref.C09090018200。
    • 『公文類纂 明治2年 完 本省公文/海軍日誌 12月 陽春丸長崎に於て修復の節条約書云々』。Ref.C09090019100。
    • 『公文類纂 明治2年 完 本省公文/弾薬船達章 正月 陽春丸借揚の義佐竹中将へ達』。Ref.C09090019700。
    • 『公文類纂 明治2年 完 本省公文/海軍日誌 8月 陽春艦引渡の義久保田藩へ達』。Ref.C09090020100。
    • 『公文類纂 明治3年 巻8 本省公文 艦船部/諸願伺 11月 久保田藩所有陽春艦顛末取調』。Ref.C09090106000。
  • 浅井将秀/編『日本海軍艦船名考』東京水交社、1928年12月。
  • 海軍有終会/編『近世帝国海軍史要(増補)』明治百年史叢書 第227巻、原書房、1974年4月(原著1938年)。
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史 第7巻』(第一法規出版、1995年)
  • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』(光人社、1993年) ISBN 4-7698-0386-9
    • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝<普及版> 全八六〇余隻の栄光と悲劇』潮書房光人社、2014年4月(原著1993年)。ISBN 978-4-7698-1565-5
  • 元綱数道『幕末の蒸気船物語』(成山堂書店、2004年) ISBN 4-425-30251-6

関連項目編集