隈部 正美(くまべ まさみ、1897年5月26日 - 1945年8月16日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍少将熊本県出身。

隈部 正美
Masami kumabe.jpg
生誕 1897年5月26日
日本の旗 日本 熊本県
死没 (1945-08-16) 1945年8月16日(48歳没)
所属組織 日本陸軍
軍歴 1918 - 1945
最終階級 陸軍中将
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来歴・人物編集

陸軍航空本部教育部長編集

1943年(昭和18年)3月 陸軍少将に昇進し、同年5月 陸軍航空本部教育部長

総理大臣陸軍大臣東條英機が、1943年9月に陸軍部内向けの訓示で、航空機の増産と共に「航空要員養成は有ゆる手段を尽くし施設資材の許す最大限を実施せねばならない」と強い口調で指示をするほど、陸軍は航空兵を大量に育成する必要に迫られていたが[1]、隈部は教育部長として、先頭に立って航空兵の育成に尽力している。航空兵の大量育成に大きく貢献したのが、10月に閣議決定された教育ニ関スル戦時非常措置方策による学徒出陣であり、特別操縦見習士官の大量募集が行われ、航空兵の大増員が進められた[2]

自分の長男富永靖陸軍少尉が、慶應義塾大学卒業後に特別操縦見習士官1期生となり、熊谷陸軍飛行学校で訓練をしていた陸軍次官富永恭次中将から[3]、見習航空兵の操縦教育は非常に危険が多いのにも関わらず、訓練用飛行場には軍医が一人も配置されていないことを指摘されて、隈部は見習航空兵の医療充実を図り、72名の軍医が地上部隊から航空部隊に転属させている[4]。また、食事も改善させ、国内でも食糧事情が悪化して高級士官もとうもろこしさつまいも等を混入した麦飯を食べていたのにも関わらず、見習士官たちも前線の空中勤務者と同様に、高空で気圧の低い所へ行くと腸内のガスが膨張して腹部不快を起すのを防止するため、雑穀を避けて消化の良い純米の白米を主食として、体力を維持するため、肉や魚の動物性脂肪分と卵、牛乳等を毎食支給させた。さらにはウィスキー清酒といった酒類や、チョコレートや飴といった甘味品もふんだんに支給されるようにした[5]陸軍航空技術研究所、陸軍第七技術研究所、東京大学に巨費を投じて開発を命じていた、航空医学に基づく栄養食品「航空糧食」も積極的に支給させた。特別操縦見習士官が支給された「航空糧食」は「航空ビタミン食」「腸内ガス無発生食品」「航空元気酒」「疲労回復酒」「防吐ドロップ」「早急出動食」「鉄飴」などで、航空病を予防し、パイロットの能力を最大限発揮させることができたという[6][7]。このようにして大事に育成された特別操縦見習士官1期生は、富永の長男靖も含めて2,336名が少尉として任官し、陸軍航空隊航空士官の主力となって活躍した[8]

第4航空軍参謀長編集

1944年(昭和19年)8月 第3航空軍参謀長

同年11月、第2飛行師団師団長木下勇中将が更迭され、第4航空軍参謀長の寺田済一少将が新師団長に親補されたため、寺田の後任として第4航空軍参謀長に任命された[9]

隈部は富永を補佐して特別攻撃隊を中心とした航空作戦を指揮したが、温厚だった寺田と打って変わり、ともに激しい性格であった富永と隈部はあわず、司令部内の空気は陰鬱を極めており、作戦遂行の支障となった[10]

やがて富永は、特攻機を送り続けることの過大な精神的負担で精神が衰弱し[11]、大雨のなかでずぶ濡れになりながら特攻機を見送っていたことが徒となってデング熱も発症し、40度の高熱にうなされていた[12]。心身ともに衰弱している富永を見かねた参謀長の隈部は、富永を後方に退避させ療養させることと共に、現地の残存兵力や状況を勘案し、これ以上フィリピンの山中に籠っていても、航空軍としては何の作戦行動をとることもできないと考え、第4航空軍司令部を台湾に撤退させて、戦力を立て直すことを計画して幕僚らと協議した[13]。富永は酒を飲まないため、参謀たちは富永を除いて飲酒しながら協議を繰り返していたが[14]、1月10日に富永不在の幕僚会議で「一部兵力をルソン島に残し、第14方面軍のための指揮連絡、捜索に任じせしめ、主力は台湾基地を活用して方面軍に強靱な航空支援をするほか手段がない」という結論に達した。12日に第14方面軍の参謀も兼任していた佐藤参謀が、方面軍首脳に意見具申し、松前、渋谷両参謀が台湾に飛んで第10方面軍に協力を要請した[15]

隈部らの計画は第4航空軍を台湾に撤退させた後に、戦力を補充してフィリピンを支援するというものであったが[16]、直属の第14方面軍にも台湾の第10方面軍にも打診していただけで正式な許可があったわけではなかった。第14方面軍司令官の山下奉文大将は、自分のマニラをオープンシティにするといった命令通りに富永がマニラを撤退したことから、佐藤の報告を好意的に受け取って「富永はよくエチアゲに撤退してくれた。これで方面軍の面目も立つ、台湾の件は意見具申の電報を起案しておけ」と命じている[17]。第4航空軍が正当な手続きを経て台湾に後退するためには、第14方面軍の指揮下から外れて、台湾を管轄する第10方面軍の指揮下に入らねばならなかったが、第14方面軍に了承の意図があっても、最終的には南方軍を経て大本営の許可が必要であった。ただし、大本営にはニューギニアからフィリピンまで敗退を続けている第4航空軍を、フィリピン決戦と運命を共にさせようという意図もあって、撤退の許可は簡単には出さないものと考えられた[18]

しかし、エチアゲにも連合軍の空襲が始まり、台湾とフィリピン間の制空権が風前の灯火となると、隈部らは焦りだし、いずれ撤退の許可がもらえることを前提にして、心身ともに衰弱の激しい富永を台湾に「視察」に行かせるという名目で脱出させることとした[19]。隈部は心身ともに衰弱している富永に「第4航空軍は台湾軍司令官に隷属し、揚子江河口付近から台湾を経て比島に渡る航空作戦を指揮することとなった。ついては軍司令官は病気療養もあり、台湾軍司令官との作戦連絡もあるので、至急台湾に飛行していただきたい」という至急電が届いたと虚偽の報告をして、富永に台湾への撤退を同意させている[20]。富永自身の記憶では、この隈部による口頭での報告が、富永が入浴中のときに行われたとされている[21]。そして、隈部らは撤退用の航空機をどうにか準備すると、富永を台湾に逃がすための口実として「隷下部隊視察」との名目で台湾行きを大本営に申請していたが、やがて陸軍参謀総長からの台湾視察承認の電文が届いたので、これを台湾撤退許可と解釈し、まずは富永を航空機で脱出させることとした[22]

1月16日にまずは富永と随行者の内藤准尉が2機の「九九式襲撃機」で台湾に向けて脱出。その際、身体が弱って航空機に満足に乗れない富永を、参謀らが無理やり押し込んでいる様子を見ていた毎日新聞の報道班員村松喬記者は違和感を感じており、戦後に「彼(参謀)らはその時なんとしても、たとえ(富永)軍司令官を敵機の餌食にしようとも、送り出さなければならなかったと私は見ている。そうしなければ、彼らも脱出することができないからだ」[23]「まずは病める軍司令官をシャニム二送り出した。新司偵が使えないとならば、危険極まる軍偵にまで軍司令官を乗せた。ということは、ひとまず送り出せば、あとは戦死しようと、知ったことではないからだ」と、隈部ら参謀が自分たちが台湾に後退するために富永の危険覚悟で送り出したと推理している[24]。富永が台湾に到着すると、1月18日には隈部が「各部隊は現地において自戦自活すべし」との命令を出し、夕方になってからエチアゲ南飛行場から航空機でフィリピンを脱出した。

第10方面軍司令部に到着した富永は、司令官安藤利吉大将に「第4航空軍は第10方面軍の指揮下に入って作戦する」旨の申告を行ったが[25]、安藤は憔悴しきった富永の姿を見て驚くと共に、当惑した表情で「大本営からそのような電報はきていませんが」と答えている[26]。当惑した富永は、台湾に到着した隈部をサイゴン南方軍総司令部に説明に向かわせたが、南方軍総司令官寺内寿一大将は、富永の無断撤退に唖然として、報告にきた隈部を寺内は自ら直接激しく叱責している。しかし寺内は、今更第4航空軍司令部を比島に戻しても意義が少ないため、これを追認し、正式に軍の後退を許可した[27]

台湾撤退に関しては、富永は戦後も一貫して「参謀長の隈部から虚偽の報告を受けた」としており[28]、隈部の虚偽の報告を受けた上で「軍司令官は結局、参謀長の意見どおりに行動したのであるが、これは参謀長の所見に屈従したのではない。当時の精神衰弱の状態において、ひとり幾度が熟考した上で決行したものである。」と自らの判断で行ったと述べている[29]。隈部自身も、後日、日本に帰ってきたときに、陸軍省の人事局に訪れて「第4航空軍の不評は全く私のいたらぬためです。殊にあの立派な、しかも当時、心身ともに過労の極にあった富永軍司令官に対して、とかくケチをつける者があると聞き深く呵責の念に堪えない」「(富永)自ら最終的にレイテに突入することを決めておられた。ところがそれを妨げて、軍司令官に生き恥をかかせたのは実にこの私です」「当時の実情を聞いてください。この軍司令官の決意が、いつとはなしに次第に司令部内に知れたため、我も我もと軍司令官と行を共にしたい者が増えてきたのです」「そこで私はいろいろと苦心して、その源を断つために軍司令官の突入を漸く防ぎ、その後台湾に後退することとなったのです」「ところが、この苦心が却って仇となり、避難の因を作ったことは全く私の不覚でした。」と話しており、富永の「虚偽の報告を受けた」とする回想を裏付けるものとなっている[30]

一方で富永も、レイテ島の戦い終盤までは、マニラを死守して送り出した特攻隊員の後を追うと決めていたが[31]、精神的に衰弱してくると、1944年9月21日付「大陸指第2170号」における第4航空軍は南部台湾を作戦に使用して良いとの命令を利用して、台湾への一時撤退を考えるようになった。台湾への撤退の理由としては、戦力の立て直しのほかに、第4航空軍の参謀たちを無駄に死なせてはいけないという思いもあったという[32]。第14方面軍参謀長の武藤章のほかに、第3船舶輸送司令官稲田正純少将からも台湾に撤退して戦力を立て直すべきとの提案があっており、富永を後押しした。しかし、常々、「君らだけを行かせはしない。最後の一戦で本官も特攻する」と訓示して多数の特攻機を出撃させ、「マニラを離れては、特攻隊に対して申し訳ない」とも主張し、多くの共鳴者もいたので[33]、台湾への後退について、自分からは何の意思表示もできなかったという。一方で富永は、隈部ら参謀がルソン島に残っての航空作戦の続行の可能性について疑問視し、台湾への撤退を考えていることも察知しており、結局のところ、富永も隈部ら参謀も台湾への撤退を望んでいた[34]。富永は軍司令官就任当初から「幕僚統帥を絶対にやらぬ」と決めていたとおり、これまで航空作戦を独断で進めており、それは病床に伏すようになってからでも変わらず、また、人事局長や陸軍次官といった官僚的な職務に長く就いてきたこともあって、形式に拘り枝葉末節のことにやかましかったので、「台湾に転進せよ」との命令があったとする隈部の口頭だけでの報告を、後で自ら検証することなく「自分の軽率を恥じねばならぬ。自分の手落ちを認めねばならぬ」と盲信するはずはないと言う指摘もあって[35]、富永を診察していた中留軍医部長は、「台湾に下がって爾後の作戦を講ずるというのが司令官の決意である」と富永の本心を見抜いていた[36]。のちに、台湾で第4航空軍との連絡係をすることになり、富永や参謀たちと面談を重ねた第8飛行師団参謀の神直道中佐も、「航空軍四首脳(司令官、参謀長、参謀副長、高級参謀)の創作以外のなにものでもない」と、富永を含む第4航空軍司令部の共同謀議と考えていた[37]

2月13日、大本営は第4航空軍司令部の解体を発令したが、富永については上部組織の追認があったことから、軍紀違反にはあたらないとして処分は待命にとどまった[38]。この処分は厳正を欠くという批判も多かったが、富永の病状は正常な判断能力がない水準にあるという、人事当局の判断から決定された処分であった[39]

自決編集

1945年(昭和20年)2月 第4航空軍廃止により、隈部は陸軍航空審査部総務部長に更迭された[40]。 日本に帰国した隈部は陸軍人事局を訪れ局長の額田坦中将に「私は罪万死に値すると考えるので、内地の要職など思いもよらない。どんな下級職でも結構ですから、是非とも最も危険な場所にやって貰いたい」と訴えたが、希望は通らなかった。しかし、陸軍航空審査部では精魂を込めた仕事ぶりで着々と業績を上げていたという[41]

8月15日、終戦が決まった夜に、実母、妻女、19歳の長女、17才の次女と一緒に食卓を囲み、娘が奏でるバイオリンで最後の晩餐を共にした後、家族全員で多摩川畔まで行き、隈部が家族全員を拳銃で射殺したのち自らも自決した。第4航空軍参謀長当時推進した特攻作戦への責任と、敵前逃亡に等しい戦場離脱をした悔恨による一家自決であった[42]。司令官の隈部亡き後の横田基地(多摩飛行場)は、陸軍航空審査部の有森光夫少将が指揮を取り、進駐してきたアメリカ軍に9月6日に引き渡された。

脚注編集

[脚注の使い方]
  1. ^ 一ノ瀬俊也・東條 2020, 電子版, 位置No.3623
  2. ^ 平和の礎17 1999, p. 582
  3. ^ 高木俊朗Ⅰ 2006, p. 221
  4. ^ 高木俊朗Ⅰ 2006, p. 221
  5. ^ 平和の礎17 1999, pp. 583-584
  6. ^ 岩垂荘二 1992, p. 13
  7. ^ 岩垂荘二 1992, p. 71
  8. ^ 西山伸 2018, p. 11
  9. ^ 生田惇 1977, p. 92
  10. ^ 秦・上 1995a, p. 313
  11. ^ 木俣滋郎 2013, p. 292
  12. ^ 内閣府 沖縄戦関係資料閲覧室『陸軍中佐 神直道回想録』P.7
  13. ^ 戦史叢書48 1971, p. 563
  14. ^ 高木俊朗③ 2018, p. 163
  15. ^ 生田惇 1977, p. 124
  16. ^ 戦史叢書48 1971, p. 561
  17. ^ 高木俊朗③ 2018, p. 144
  18. ^ 戦史叢書48 1971, p. 562
  19. ^ 生田惇 1977, p. 124
  20. ^ 戦史叢書48 1971, p. 568
  21. ^ 高木俊朗③ 2018, p. 218
  22. ^ 戦史叢書48 1971, p. 567
  23. ^ サンデー毎日 1955, p. 23
  24. ^ 秘録大東亜戦史④ 1953, p. 236
  25. ^ 生田惇 1977, p. 125
  26. ^ 高木俊朗③ 2018, p. 194
  27. ^ 戦史叢書48 1971, p. 570
  28. ^ 高木俊朗③ 2018, p. 218
  29. ^ 高木俊朗③ 2018, p. 367
  30. ^ 額田坦 1968, pp. 411-412
  31. ^ 高木俊朗③ 2018, p. 437
  32. ^ 高木俊朗③ 2018, p. 131
  33. ^ 武藤章 2008, p. 118
  34. ^ 高木俊朗③ 2018, p. 132
  35. ^ 高木俊朗③ 2018, p. 218
  36. ^ 高木俊朗③ 2018, p. 163
  37. ^ 内閣府 沖縄戦関係資料閲覧室『陸軍中佐 神直道回想録』P.7
  38. ^ 生田惇 1977, p. 127
  39. ^ 戦史叢書48 1971, p. 586
  40. ^ 新人物往来社 1995, p. 201
  41. ^ 額田坦 1968, p. 412
  42. ^ 新人物往来社 1995, p. 202

参考文献編集

  • 生田惇 『別冊1億人の昭和史 特別攻撃隊 日本の戦史別巻4「陸軍特別攻撃隊史」』 毎日新聞社、1979年9月。ASIN B007ZY6G8O 
  • 生田惇『陸軍航空特別攻撃隊史』ビジネス社、1977年。ASIN B000J8SJ60
  • 新人物往来社編『ドキュメント 日本帝国最期の日』新人物往来社、1995年。ISBN 978-4404022318
  • 一ノ瀬俊也『特攻隊員の現実』講談社、2020年。ISBN 978-4065184400
  • 一ノ瀬俊也『東條英機 「独裁者」を演じた男』文芸春秋、2020年。ISBN 978-4166612734
  • 岩垂荘二『50年前日本空軍が創った機能性食品―その規格と資料』光琳、1992年。ISBN 978-4771292031
  • 木俣滋郎『陸軍航空隊全史―その誕生から終焉まで』潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2013年。ISBN 4769828578
  • 『サンデー毎日 昭和30年5月15日』サンデー毎日編集部 編、毎日新聞出版、1955年。
  • 『比島捷号陸軍航空作戦』防衛庁防衛研修所戦史室 編、朝雲新聞社〈戦史叢書48〉、1971年。
  • 高木俊朗『陸軍特別攻撃隊 上巻』文藝春秋、1983年。ISBN 978-4163381800
  • 高木俊朗『陸軍特別攻撃隊 下巻』文藝春秋、1983年。ISBN 978-4163381909
  • 高木俊朗『戦記作家高木俊朗の遺言』1、文藝春秋企画出版部、2006年7月。ISBN 9784160080249
  • 高木俊朗『戦記作家高木俊朗の遺言』2、文藝春秋企画出版部、2006年7月。ISBN 9784160080249
  • 西山伸『1943年夏の大量動員 --「学徒出陣」の先駆として--』京都大学、2018年。
  • 秦郁彦『太平洋戦争航空史話〈上〉』中央公論社、1995年。ISBN 978-4122023703
  • 秦郁彦『明と暗のノモンハン戦史』PHP研究所、2014年。ISBN 978-4-569-81678-4
  • 『平和の礎 労苦体験手記 軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦(兵士編)第13巻』平和祈念事業特別基金編、平和祈念事業特別基金〈平和の礎13〉、1999年。ASIN B07JF51BMX
  • 『平和の礎 労苦体験手記 軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦(兵士編)第17巻』平和祈念事業特別基金編、平和祈念事業特別基金〈平和の礎17〉、1999年。
  • 『秘録大東亜戦史』4 比島編、村田省蔵 編、富士書苑、1953年。ASIN B000JBGYJ6
  • 額田坦 『世紀の自決―日本帝国の終焉に散った人びと』 芙蓉書房、1968年1月。ASIN B000JA5A4W 
  • 額田坦 『陸軍省人事局長の回想』 芙蓉書房、1977年5月。ASIN B000J8X90G