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雅山 哲士(みやびやま てつし、1977年(昭和52年)7月28日 - )は、茨城県水戸市出身の元大相撲力士。本名は竹内 雅人(たけうち まさと)。現在は年寄・二子山として後進の指導にあたっている。

雅山 哲士 Sumo pictogram.svg
Miyabiyama Tetsushi 2008 May.jpg
平幕時代の雅山(2008年5月場所)
基礎情報
四股名 雅山 哲士
本名 竹内 雅人
愛称 マサト
20世紀最後の怪童
生年月日 (1977-07-28) 1977年7月28日(41歳)
出身 茨城県水戸市
身長 187cm
体重 188kg
BMI 53.76
所属部屋 武蔵川部屋→藤島部屋
得意技 突っ張り、右四つ、寄り、引き、叩き
成績
現在の番付 引退
最高位 西大関
生涯戦歴 654勝582敗68休(88場所)
幕内戦歴 599勝563敗68休(82場所)
優勝 十両優勝2回
幕下優勝2回
殊勲賞2回
敢闘賞5回
技能賞1回
データ
初土俵 1998年7月場所
入幕 1999年5月場所
引退 2013年3月場所
引退後 年寄:二子山
日本相撲協会評議員(1期)
2016年3月 - 2018年3月
趣味 パチンコ
備考
金星2個(朝青龍明徳2個)
2019年3月26日現在

目次

来歴編集

怪童、焼肉のために相撲編集

1977年(昭和52年)7月28日茨城県水戸市で生まれる。実家は茨城県内にバス路線網を持つ旧茨城交通グループのオーナー一族である。小学生時代に「相撲で勝ったら焼肉食べ放題に連れて行ってやる」と言われたことがきっかけで相撲を始め、「水戸尾曽相撲道場」で指導する武双山正士の父親によって強くなった。雅山が幼少期に好きだった力士には琴椿克之を挙げている。水戸市立見川中学校時代は柔道部に在籍していたが、柔道部の顧問に直談判して相撲部を創設してもらったという[1][出典無効]明治大学進学後、1997年(平成9年)9月の東日本学生相撲個人体重別選手権無差別級と1998年(平成10年)4月の全日本大学選抜相撲宇和島大会でそれぞれ優勝して大学二冠を達成すると、大学を3年で中退して武蔵川部屋へ入門、同年7月場所に幕下付出初土俵を踏む。当時の幕下付出の条件としては1997年(平成9年)の全日本相撲選手権大会で3位入賞の実績を残していた[2][出典無効][信頼性要検証]が、それを上回る輝かしい実績を引っ提げての入門だった。また、中学時代からのライバルだった岡部東洋大学)も中退して角界入りしていたことも動機の一つだった。

武蔵川部屋では、学生相撲出身者に有りがちな立ち合いの甘さを厳しい指導で真っ先に改善させ[3]、初土俵を踏んだその場所と同年9月場所の2場所連続で全勝優勝を決め、同年11月場所ではあっという間に十両に昇進した。その勢いは止まらずに同場所を12勝3敗で3場所連続優勝、1999年1月場所は西十両筆頭の地位で幕内力士との対戦もある中で14勝1敗の好成績を残し、4場所連続優勝を果たすと同時に新入幕を確定させた。あまりにも早過ぎる昇進のために丁髷が追い付かず、長髪の荒々しい風貌から「20世紀最後の怪物」と呼ばれ、右肩の[注釈 1]が印象的な力士だった(現在は度重なる手術で小さくなっている)。新入幕の同年3月場所は幕内力士との力の差もあって二桁勝利はならなかったものの、9勝6敗で敢闘賞を受賞、初土俵から所要5場所での三賞受賞は、2014年現在の最速記録である[4]

怪童から「お荷物」へ編集

2000年(平成12年)1月場所は新小結かつ優勝次点となる12勝3敗の好成績を残すと、同年3月場所および5月場所は関脇で11勝4敗、この時点で大関昇進の基準とされる「三役の地位で直近3場所の合計が34勝」を満たしたため、5月場所終了に大関昇進が決定する。初土俵から所要12場所での大関昇進は史上1位のスピード出世であるが、ここまでは相撲そのものに強みが無く勢いのみで勝ち続けた面があり、当時の武蔵川部屋には横綱・武蔵丸光洋、大関・武双山正士、出島武春がおり、「この3力士と対戦せずに3場所34勝(での昇進)は物足りない」という意見も存在した。通常ならば大関昇進を諮る理事会において「満場一致での推挙」となるのが普通だが、10名の理事のうち3名が反対を表明する異例の事態となるなど、その行く末は当初から不安視されていた[4]

その不安は的中してしまい、2000年(平成12年)7月場所では初日の栃東大裕戦で右肩を負傷した影響が最後まで響き6勝9敗と負け越し、同年9月場所はいきなりの角番となってしまう。この場所は勝ち越して角番を脱出するも8勝7敗の成績で、本来の大関の成績とはかけ離れたものとなった。その後も負け越しては角番脱出を繰り返し、3度目の角番として迎えた2001年(平成13年)9月場所では序盤戦から全く波に乗れず、9日目の海鵬涼至戦で左足首関節および左足根骨脱臼の重傷を負って途中休場、同部屋の出島と共に大関陥落となった。大関在位は僅か8場所となり、短命大関としての順位は年6場所制となった1958年(昭和33年)以降、大受久晃(5場所)・増位山太志郎 (7場所)に次いでワースト3位の不名誉記録となった[5]。また、大関在位期間中の二桁勝利が一度も無く、通算成績も57勝58敗5休と負け越すなど大関らしからぬ成績を残すことになった。そのため、相撲雑誌の有識者による座談会ではかつてのキャッチフレーズにかけて「21世紀最初のお荷物」などと言われる有様だった[4]

大関を破って再挑戦編集

関脇陥落となって迎えた2001年(平成13年)11月場所は公傷による全休が適用され、2002年(平成14年)1月場所は関脇の地位を維持、10勝以上を挙げれば大関に特例で復帰できたものの、怪我の回復が遅れたことで全休となった。公傷適用は怪我をした場所の次の場所に限定されているため、この場所の全休は全敗として換算され、同年3月場所は東前頭8枚目まで下がった。この場所では元大関の実力を見せて9勝6敗と5場所ぶりの勝ち越しを決めたがその後は平幕中位に留まり、三役へ昇進しても負け越して即陥落するなど、かつての勢いは失われていた。さらに、2003年(平成15年)1月場所の横綱・貴乃花光司戦でのいわゆる「疑惑の判定」に巻き込まれ、その取組で右足を負傷するなど、不運を被った(後述)。

2004年(平成16年)7月場所では前年までの不調を晴らすかのように平幕で12勝3敗の優勝次点となり、同年9月場所で関脇に復帰すると9勝6敗となり、大関昇進を決めた2000年(平成12年)3月場所以来4年ぶりの三役における勝ち越しを記録した。その後も三役に定着し、周囲からは大関復帰を期待する声が聞かれるようになった。大関再挑戦となるこの時まで時間を要したのは、途中で父が死去するなど心労に見舞われたことで、持ち直すのに時間がかかったという[6]。前頭4枚目で迎えた2005年(平成17年)11月場所は当時の3大関(魁皇博之千代大海龍二、栃東大裕)全員に黒星を付けて10勝を挙げ、大関陥落後では初となる三賞(敢闘賞)を受賞した。2006年(平成18年)1月場所においても前述の3大関(この場所では新大関に琴欧洲勝紀がいたが敗れた)を破って勝ち越すなど、元大関としての意地を見せた。同年3月場所においても3大関(琴欧洲、千代大海、栃東)を破って10勝を挙げ、同年5月場所では新大関・白鵬翔を含む4大関全員を倒し、千秋楽まで白鵬と優勝争いを演じた。優勝決定戦では突っ張りが白鵬の汗によって滑ったことで敗れ、初の幕内最高優勝こそ逃したものの前場所を上回る14勝1敗の好成績を挙げ、同年7月場所に大関復帰を賭けることとなった。

昇進基準と番付編集

大関復帰を賭けた2006年(平成18年)7月場所は序盤こそ緊張感から苦戦したが、終盤の5連勝によって10勝5敗で終えた。二桁勝利で終えたことにより、大関昇進時と同様に「三役の地位で直近3場所の合計33勝以上」となり、昇進を諮る審判部の判断が注目されたが、不運にも再昇進は見送られた。その理由として、直前場所の成績が10勝5敗での昇進は1960年代以来ほとんど例が無かったこと[注釈 2]や、10日目を終えた段階で5勝5敗と優勝争いに全く加われなかったこと、仮に雅山が再昇進した場合に前例の無い「1場所6大関」という極めてバランスの悪い番付構成になる[注釈 3]ことも不利に働いてしまった[7][出典無効][信頼性要検証][注釈 4]。さらに、綱取りが懸かっていた白鵬が、雅山の大関再昇進と同時(ところてん式)に昇進していれば5大関に収まったが、白鵬の横綱昇進まで見送られる結果となった。

雅山にとって三度再挑戦となった同年9月場所では、9日目までに5敗を喫して9勝止まりとなり、大関復帰は果たせなかった[8]。しかし取組の内容としては、9日目の対白鵬翔戦で善戦(本人曰く「今場所最高の相撲」)し、終盤にかけて気持ちを切らさなかったことを高く評価され、北の湖理事長も「大勝ちすれば(大関復帰の)話題性の出てくる可能性はある。よくここまで持ってきた」とコメントするなど、大関復帰の可能性はまだ残っていると見られた。しかし同年11月場所は千秋楽にようやく勝ち越しを決めることとなり、2007年(平成19年)1月場所は5勝10敗と大敗し、5場所連続で務めた関脇から陥落すると同時に大関復帰の可能性も完全に消えた。

平幕での健闘~現役引退編集

 
明治神宮例祭奉祝 奉納70回全日本力士選士権大会(2011年10月3日)
 
稽古総見(2011年12月23日)

大関復帰が夢と消えた後も、雅山は元大関としての意地を見せる場面が見られた。2007年(平成19年)3月場所2日目には横綱・朝青龍明徳と対戦し、足をぐらつかせるほどの強烈な突っ張りの末に寄り倒しで勝利し、自身初の金星を獲得した。雅山は初土俵から所要10場所で三役に昇進したため、雅山に限らずスピード昇進を果たした力士の金星の数は得てして少ない[9][10]。その後も7日目まで4勝3敗の成績を挙げたが、7日目の対旭天鵬勝戦で右の太股を痛めて途中休場となった。大関復帰に失敗した際に母が死去したことで深く悲しみ、本場所で花道に控える付け人に母の遺影を掲げるよう頼んだ時期もあったという[6]。それからの雅山は約5年間にわたって平幕の地位を保つ。関脇陥落直後は平幕上位に残り、横綱・大関と対戦する場面も見られたが次第に上位では大敗を喫し、2009年(平成21年)5月場所では前頭11枚まで陥落した。それでも同年11月場所では前頭9枚目で12勝を挙げる活躍を見せ、3年半ぶりの三賞(敢闘賞)を受賞した。

2010年(平成22年)に発生した大相撲野球賭博問題では賭博に関与したとされ、特別調査委員会から同年7月場所の出場停止(謹慎)を勧告され、相撲協会も受け入れた[11]。それによって同年7月場所は全休とされ、同年9月場所は1977年(昭和52年)の大受久晃以来史上2人目となる「元大関の十両陥落」となった。しかし元大関では十両での力の差は歴然で、12勝3敗の好成績を挙げて幕内復帰を果たしたが、野球賭博問題に関しては2011年(平成23年)3月3日に「賭博開帳図利容疑」で書類送検される[12]など、雅山自身も含めて角界全体に暗い影を落とした。同年11月場所では11勝、2012年(平成24年)1月場所では久しぶりの三役(小結)に復帰したが、元大関が十両に陥落した後に三役へ復帰したのは雅山が史上初である。この頃に入ると加齢による衰えと足裏にまで巻かれたテーピングや足袋のためか膝から滑り落ちる負け方が目立ち始め、この場所を3勝12敗と大敗、その後も横綱・大関との対戦が基本的に組まれない平幕下位に甘んじることが多くなった。成績面で見ても勝ち越しと負け越しを繰り返し、負け越しも二桁敗戦などが目立ち、番付次第では十両再陥落が起こりうる状況が続く。

2012年(平成24年)12月には心臓に痛みが走る症状が現れただけでなく脳梗塞まで疑われる状態で出場するも、2013年(平成25年)1月場所は初日から8連敗を喫する。9日目の対玉鷲一朗戦で初勝利を挙げたが、その際に館内から温かい拍手を受けて花道で涙を流した。負け越したことで十両再陥落が現実味を帯びたが「まだ気持ちは切れていない」と述べ、十両陥落後も現役を続ける決意を表した。同年3月場所は十両9枚目となり、自身2度目の十両陥落と同時に自身の持っていた元大関の最低地位を更新してしまった。そして10日目に負け越しが決定すると、13日目でも敗れたことで幕下陥落が決定的となり、千秋楽(3月24日)の対鬼嵐力戦に勝利したのを最後に現役引退を表明、年寄・二子山を襲名して後進の指導に当たることを発表した[13]。大関陥落後、関脇以下の地位を68場所に渡って務めたが、これは2009年(平成21年)7月場所を最後に引退した出島武春の48場所を大きく超える史上最長記録となった。

引退後編集

2013年(平成25年)9月30日、現役引退と年寄・二子山襲名を報告するために茨城県庁を訪れた際に、茨城県知事・橋本昌から長年の相撲界への功労を讃えられて「茨城県特別功労賞」を授与された[14]。また、引退相撲は2014年2月1日に両国国技館で行われ、8000人の観衆が見守る中で引退相撲を行ったが、取組の相手に自身の長男を選び、押し出しで敗れた[15]。また断髪式では先代の武蔵川夫妻ら270人が鋏を入れ、藤島が大銀杏を切り落とした[16]。二子山は「はさみを入れてもらっているとき、思い出が駆け巡った。これからは強い日本人力士を育てたい」とさっぱりした頭をなでながら抱負を語った[17]。また、同年1月には自伝「雅ノート」を実業之日本社から出版した。


その後、藤島部屋付き年寄として後進の指導に当たっているが、将来的には二子山部屋を独立する意向も示していた。二子山部屋といえば横綱・大関を輩出し、かつての大相撲人気を支えた名門(部屋自体は貴乃花部屋に改称して2004年に消滅)だが、これについては「偉大な名前を引き継ぐことが出来た。自分も(強い)イメージを残せる部屋を目指したい」と語っていた[18]2018年(平成30年)3月29日の理事会で、同年4月1日付で、6人の内弟子を連れて藤島部屋から二子山部屋を分家独立することが承認された[19]

協会の業務では、2015年(平成27年)1月29日付の職務分掌で記者クラブの担当として広報部に配属され、2016年3月には日本相撲協会の評議員に就任した[20]。評議員は2018年3月26日まで務め[21]、同月28日の職務分掌では審判部に配属された[22]

人物編集

得意なのは突き押し相撲だが四つに組んでも十分に相撲が取れた。相手の顔に向けて行われる小刻みな突きと、腕の動きを効果的に使う取り口である。また、重い突きを繰り出してから土俵際を回り込んでの引き、叩きの上手さもあった。

腰が重い力士としては珍しく足腰が強く、対戦相手がいなしたり、出し投げを打とうとしても足腰のバランス感覚で相手をかわす技術は高い評価を得ていたが、体重の影響による足の負傷も多かった。

通常は明るい性格で、愉快なコメントを数多く残している。豊ノ島大樹普天王水とも仲がいい。

エピソード編集

現役時代編集

  • 勝ち名乗りを受ける際には、必ず蹲踞した後に右手で右膝を叩いていた。
  • 「雅山」の四股名は通っていた相撲道場で指導を受けた武双山正士の父親が考えたものだが、雅山本人は「雅風」と考えていた。現在でも雅風に未練が残っているという。
  • 同学年の玉乃島新とは幼少期からのライバルで、大学を中退して角界入りしたのも玉乃島の影響を理由の一つとして挙げている。また若兎馬裕三からはライバル視され、千代天山大八郎とライバル関係だった時期もあった。
  • 新入幕の1999年3月場所を前頭7枚目で迎え、その後長きにわたって前頭二桁枚数の経験がなかった。雅山が初めて二桁枚数となったのは2009年5月場所の前頭11枚目で、幕内在位62場所目のことだった。
  • 大関再昇進をかけていた頃は当時の大関陣に対して相性がよく、大関キラーと呼ばれたこともあった。
  • 同部屋の元横綱・武蔵丸光洋を慕っており、武蔵丸の引退時は武双山、武雄山喬義と共に大泣きしたという。引退相撲での横綱土俵入りでは露払いも務めた。
  • 2006年5月場所から2007年1月場所まで、5場所連続で琴光喜啓司と関脇を務めた。5場所連続で同じ力士が関脇を務めたのは131年振りであった。
  • 2008年9月に7歳年下の女性と結婚、2009年6月に結婚披露宴を行った。妻との間に息子が2人いたが、次男は2013年6月に1歳11か月で他界した。次男の死後の同年9月からは年寄名の下の名を次男の名である「雅高」に変更している。
  • 大関陥落以降は「現役中は元大関と言われるのが嫌でした。大関に戻るつもりでいましたから」という理由で、大関戦で勝利してもインタビュールームには行かなかった。しかし、朝青龍から初金星を得た時は「強い横綱に勝って嬉しかったので行きました」という[23]。ちなみに朝青龍との対戦成績は5勝34敗で、5勝のうち2勝は金星である。
  • 2009年3月場所12日目の対千代大海龍二戦で、引き落としを決めて勝った際に物言いが付き、結果として「髷を掴んだが故意ではない」という見解が出された上で行事軍配通りの判定に落ち着いた[注釈 5][注釈 6]
  • 幕内在位82場所の記録を持っているが、幕下付出力士としては史上1位の記録である。学生相撲出身力士で幕内在位場所数記録の歴代10位以内に名前を記録している力士も雅山だけである。学生相撲出身者でありながら通算88場所中82場所を幕内(新入幕から引退に至るまで十両陥落は2回のみ)で過ごしたことは、出世が早く長持ちで衰えが遅く、引退間際まで幕内に定着していたことを意味する。
  • 幕内最高優勝を未経験のまま大関経験者が引退する例は、大関から横綱に昇進するも廃業した双羽黒光司の例から数えても25年3ヶ月ぶりの珍事である[注釈 7]。雅山以前に、最高位が大関の力士で優勝未経験のまま引退したのは32年前の増位山太志郎(1981年3月場所を最後に引退)まで遡る。
  • 現役生活で思い出に残る相撲は、「3場所連続休場を喫して大関から陥落した後に迎えた2002年3月場所初日の玉春日戦」「幕内最終場所となる2013年1月場所9日目でその場所の初白星を上げた玉鷲戦」「現役最後の1番となった2013年3月場所千秋楽の鬼嵐戦」である[24]
  • 雅山の引退により、旧基準の幕下付出(幕下60枚目格付出)で初土俵を踏んだ力士は全員が引退となった。

2003年1月場所編集

この場所で西前頭筆頭だった雅山は、2日目に休場明けの横綱・貴乃花光司と対戦した。取組では雅山の二丁投げが決まり、貴乃花は裏返しになって左肩から落ちた。多くの観客が雅山の勝利であると確信し、立行司木村庄之助軍配も雅山を指した。しかし勝負審判から物言いがつき、「両者同体」という判定により取り直しとなった末、貴乃花の上手投げが決まって雅山は敗れた。

しかしこの取組直後から、雅山が勝っていたとする抗議の電話が日本相撲協会NHKに100件以上も殺到した。また、雅山は最初の二丁投げを放った際、右足関節外果剥離骨折しており、それをおして出場した翌日の大関・朝青龍明徳戦で敗れた際に悪化させ、4日目から休場した。一方の貴乃花も、雅山の二丁投げを受けた際に左肩鎖じん帯を損傷させて翌日から途中休場、完治しない中で5日目から再出場したが、結局8日目の取組後に現役引退を表明した。雅山本人は「横綱(貴乃花)と二番とれたのは、少しは力がついてきた証拠かなと自信につながりましたね」と前向きに受け止めていた様子を引退後に語った[24]

ちなみに雅山は、貴乃花と幕内で11回対戦し全敗している。最高位が大関でありながら10回以上対戦して全敗した記録は雅山以外では汐ノ海運右エ門羽黒山政司に対して13戦全敗した例があるだけである。

引退後編集

  • 「相撲界のグルメ王」と呼ばれるほどグルメには造詣が深く、特に焼肉に関しては全国130軒もの焼肉屋に足を運んでは常に美味しいメニューをチェックしている。2018年の時点でも豪栄道豪太郎とは焼肉仲間で、ともに焼肉屋巡りを楽しんでいる雅山は、1日3~4軒もの店をはしごしたこともあったという[25]
  • 現役時代、叩きを武器にしてきたことから投げで勝つと賞賛されることが多いことと、叩きで勝つと褒められることが殆ど無いことの差の意味が分からないという。雅山は2017年7月場所前のコラムで「はたきだって、突いている間に相手の足がだんだんそろっていくのを、一瞬で見極めてはたくわけですから、技術的な面もあるんです」と持論を述べている[26]
  • 二宮清純との対談でモンゴル人力士の弱点を分析し、そこでは「実はモンゴルの力士は縦の引きに弱い傾向があります。横にいなしても粘っこくついてくるのに、縦に引くと意外とあっさり落ちることが少なくない。僕も白鵬に勝った時はバッと突いて、サッと引いて崩すパターンがほとんどでした」と語っていた[24]。2017年7月場所前のコラムでも、モンゴル人力士の引きに対する耐性の傾向について同様のことを話している[26]。同じ頃から問題となった白鵬のかち上げ張り手については、サポーターを巻いた肘でのかち上げは悪く取られても仕方がないとしつつも、基本的に「自分(白鵬)の体力が落ちてきたことを考えてやっていたわけですし、私は何とも思っていません」と容認している[27]
  • 2017年11月場所前の自身のコラムで、技能賞受賞に関しては小柄な力士や派手な技を繰り出す力士が有利であると分析しており、押しや叩きをもっと評価しても良いのではと私見を述べている。同じコラムで、二子山は力士の怪我の増加は稽古不足が原因であると断じており、さらに「普通の社会人で考えたら、力士は稽古が仕事なんです。だから稽古をしなかったら、就職した会社で何もしないでボーッとしているのと一緒です。巡業中に稽古をしなかったら、ただの旅行、あるいはお客さんへの顔合わせになってしまいます。相撲は修行でもありますが、仕事でもあるんです」と稽古の重要性を説いた。寝不足は移動のバスで2席使えるのだからそれを使って睡眠をとれば良いと厳しく言い、稽古不足を棚に上げて賃上げを要求するのは矛盾していると、発言のレベルが落ちていると切り捨てている[28]
  • 2019年3月場所前の自身のコラムで、日本出身力士の多くは巡業で相撲を取っていても相手の体勢になると俵までまだ十分がある距離で力を抜くと現状を指摘していた。二子山は「これでは土俵が丸いという感覚が身に付かない」とも嘆いており、むしろ外国出身力士の方が土俵を上手く使って土俵際で残していると評している[29]

その他編集

  • 生まれたばかりのとき体重が5キロもあったという[要出典]
  • 明治大学を中退したのは、約1年間にわたって下級生部員2人に殴る蹴るの暴行を加えていたことが発覚したためである。その結果、当時の相撲部監督から自主退学するよう求められ、監督自身も引責辞任することとなった。
  • 2006年7月から、好評だった部屋の公式ブログから独立する形で自身のブログを立ち上げた。しかし過去に自身のブログでファンと口論になったことがある。ブログそのものも2008年11月を最後に休止している。
  • 酒を嗜むようになったのは30歳頃からで、同郷の大久保博元と親交がある[注釈 8]。雅山はある時本場所中で負けた後に食事の席で「1日1回、リセットする時間をつくれ」と大久保に助言され、以来飲酒の習慣を取り入れた[24]
  • 2015年5月場所より自身の公式ツイッターを開設した。

主な成績編集

  • 通算成績:654勝582敗68休 勝率.529
  • 幕内成績:599勝563敗68休 勝率.515
  • 大関成績:57勝58敗5休 勝率.496
  • 現役在位:88場所
  • 幕内在位:82場所(歴代9位)
  • 大関在位:8場所
  • 三役在位:20場所 (関脇14場所、小結6場所)
  • 通算(幕内)連続勝ち越し記録:7場所(2005年11月場所〜2006年11月場所)

三賞・金星編集

  • 三賞:8回
    • 殊勲賞:2回(2000年1月場所、2006年5月場所)
    • 敢闘賞:5回(1999年3月場所、2000年3月場所、2000年5月場所、2005年11月場所、2009年11月場所)
    • 技能賞:1回(2006年5月場所)
  • 金星:2個
    • 朝青龍2個(2007年3月場所、2008年9月場所)

各段優勝編集

  • 十両優勝:2回(1998年11月場所、1999年1月場所)
  • 幕下優勝:2回(1998年7月場所、1998年9月場所)

場所別成績編集

  
雅山哲士
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
1998年
(平成10年)
x x x 幕下付出60枚目
優勝
7–0
西幕下6枚目
優勝
7–0
西十両11枚目
優勝
12–3
1999年
(平成11年)
西十両筆頭
優勝
14–1
東前頭7枚目
9–6
西前頭2枚目
6–9 
東前頭4枚目
7–8 
東前頭5枚目
10–5 
西前頭筆頭
8–7 
2000年
(平成12年)
西小結
12–3
西関脇
11–4
東関脇
11–4
西大関1
6–9 
西大関2
8–7[注釈 9] 
西大関2
9–6 
2001年
(平成13年)
西大関2
8–7 
東大関2
7–8 
西大関2
9–6[注釈 9] 
東大関2
7–8 
西大関2
3–7–5[注釈 9][注釈 10] 
西関脇2
休場[注釈 11][注釈 12]
0–0–15
2002年
(平成14年)
東関脇2
休場[注釈 13]
0–0–15
東前頭8枚目
9–6 
東前頭3枚目
10–5 
東小結
6–9 
東前頭筆頭
7–8 
東前頭2枚目
8–7 
2003年
(平成15年)
西前頭筆頭
1–3–11[注釈 14] 
西前頭9枚目
9–6 
東前頭5枚目
10–5 
東前頭筆頭
10–5 
西関脇
4–11 
東前頭4枚目
6–9 
2004年
(平成16年)
西前頭7枚目
11–4 
東前頭筆頭
8–7 
東小結
3–12 
東前頭7枚目
12–3 
西関脇
9–6 
西関脇
9–6 
2005年
(平成17年)
西関脇
9–6 
東関脇
5–10 
東前頭3枚目
8–7 
西小結
7–8 
東前頭筆頭
6–9 
東前頭4枚目
10–5
2006年
(平成18年)
東前頭筆頭
8–7 
西小結
10–5 
西関脇
14–1[注釈 15]
東関脇
10–5 
東関脇
9–6 
東関脇
8–7 
2007年
(平成19年)
西関脇
5–10 
東前頭3枚目
4–4–7[注釈 16]
西前頭9枚目
9–6 
東前頭5枚目
7–8 
西前頭5枚目
9–6 
西前頭筆頭
7–8 
2008年
(平成20年)
西前頭2枚目
7–8 
西前頭2枚目
7–8 
東前頭3枚目
6–9 
東前頭5枚目
9–6 
西前頭筆頭
4–11
東前頭7枚目
10–5 
2009年
(平成21年)
東前頭2枚目
6–9 
東前頭3枚目
4–11 
東前頭11枚目
9–6 
東前頭4枚目
8–7 
西前頭筆頭
4–11 
西前頭9枚目
12–3
2010年
(平成22年)
西前頭2枚目
5–10 
東前頭7枚目
10–5 
西前頭筆頭
5–10 
西前頭5枚目
出場停止
0–0–15
東十両2枚目
12–3 
西前頭14枚目
9–6 
2011年
(平成23年)
東前頭10枚目
6–9 
八百長問題
により中止
東前頭16枚目
8–7 
東前頭8枚目
8–7 
東前頭5枚目
7–8 
西前頭6枚目
11–4 
2012年
(平成24年)
東小結
3–12 
西前頭9枚目
8–7 
西前頭5枚目
4–11 
東前頭9枚目
8–7 
東前頭7枚目
5–10 
西前頭11枚目
5–10 
2013年
(平成25年)
東前頭16枚目
3–12 
東十両9枚目
引退
3–12–0
x x x x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

幕内対戦成績編集

力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数
碧山 0 2 蒼樹山 1 2 安芸乃島 6 5 2 6
朝青龍 5 34 朝赤龍 16(1) 9 朝乃翔 2 0 朝乃若 3 0
旭日松 1 2 安美錦 11 13 阿覧 2 5 0 1
岩木山 7 4 潮丸 2 0 皇司 2 1 大碇 0 1
大日ノ出 1 0 小城錦 1 0 隠岐の海 2 2 魁皇 15(1) 31(1)
魁聖 3 2 海鵬 9 4 臥牙丸 1 5 鶴竜 2 6
春日王 7 2 春日錦 4(1) 1 稀勢の里 4 16 北桜 1 0
北太樹 3 4 木村山 5 1 旭鷲山 12 5 旭天鵬 19 18
金開山 2 0 豪栄道 1 8 光龍 1 1 五城楼 2 0
黒海 17 5 琴欧洲 5 22 琴奨菊 9(1) 11 琴錦 2 0
琴ノ若 7 6 琴光喜 17 24(1) 琴勇輝 0 1 琴龍 9(1) 6
磋牙司 1 0 佐田の富士 3 1 敷島 3 0 霜鳳 8 5
十文字 3 0 常幸龍 1 0 松鳳山 1 2 蒼国来 0 1
大善 3 0 大道 2 1 貴闘力 4 2 貴ノ浪 5 13
貴乃花 0 11 隆乃若 5 6 高見盛 15 10 髙安 1 5
宝富士 3 1 豪風 9 9 玉飛鳥 1 1 玉春日 14 0
玉乃島 17 3 玉力道 1 0 玉鷲 6 0 千代大海 22(1) 24
千代大龍 0 2 千代天山 6 2 千代の国 1 0 寺尾 2 0
天鎧鵬 1 0 闘牙 5 7 時津海 11(1) 3 時天空 17 11
土佐ノ海 12 15 土佐豊 0 3 栃東 16(1) 19 栃煌山 7 4
栃栄 7 0 栃ノ心 6 5 栃乃洋 24 12(1) 栃乃花 4 1
栃乃和歌 1 0 栃乃若 3 3 豊桜 2 0 豊ノ島 5 6
豊響 10 4 白馬 0 1 白鵬 4 23* 白露山 1 0
濵錦 1 0 濱ノ嶋 2 0 追風海 4 3 把瑠都 5 10
日馬富士 6 12 肥後ノ海 7(1) 0 富士東 3 2 普天王 9 0
寶智山 1 0 豊真将 4 4 北勝力 12 6 舛ノ山 0 1
湊富士 3 0 猛虎浪 3 2 山本山 0 1 燁司 1 0
芳東 1 0 嘉風 5 6 龍皇 1 0 露鵬 10 5
若荒雄 3 4 若の里 16 20 若乃花 1 2

(カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。太文字は2019年3月現在、現役力士

改名歴編集

四股名編集

  • 竹内 雅人(たけうち まさと)平成10年(1998年)7月場所 - 平成10年(1998年)9月場所
  • 雅山 哲士(みやびやま てつし)平成10年(1998年)11月場所 - 平成25年(2013年)3月場所

年寄名編集

  • 二子山 雅人(ふたごやま まさと)平成25年(2013年)3月24日 - 平成25年(2013年)9月1日
  • 二子山 雅高( - まさたか)平成25年(2013年)9月2日 -

著書編集

  • 『雅ノート』実業之日本社

関連項目編集

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 肩のコブがあればカチ上げに使うことが相撲において一般的である。
  2. ^ 雅山の再昇進が見送られてから5年後の平成23年(2011年)11月場所後、稀勢の里寛が関脇で直近3場所が合計32勝、さらに11月場所では10勝止まりながらも大関へ昇進した例がある。その後も平成31年(2019年)夏場所新大関の貴景勝光信も、直前場所である春場所では10勝止まりでありながらも、大関昇進を果たしている。
  3. ^ それから6年後の2012年(平成24年)3月場所後、鶴竜力三郎の大関昇進により、大相撲史上初の1場所6大関(琴欧洲勝紀日馬富士公平把瑠都凱斗琴奨菊和弘稀勢の里寛・鶴竜)が実現した。
  4. ^ 「三役の地位で直近3場所の合計33勝以上」の基準を満たしていながら大関昇進を見送られたのは、1957年(昭和32年)11月場所の琴ヶ濱貞雄以来49年ぶり。
  5. ^ 『相撲』2009年5月号では件の場所で行われた雅山と翔天狼のそれぞれの取組をていねいに解説して「故意の髷掴み」の解釈の難しさを述べている。
  6. ^ 2014年11月場所以前までは髷掴みと勝負の因果関係が認められることもこの種の判定において重要であり、髷を掴んだからといって無条件に反則負けとはならなかった。
  7. ^ 北尾(横綱昇進後は双羽黒)は1987年12月31日に廃業届が受理された。
  8. ^ 家族ぐるみの付き合いがあるようで、引退相撲では、東北楽天ゴールデンイーグルス二軍監督としてキャンプ期間に入った大久保の代わりに大久保の母親に土俵下で鋏を入れてもらった(雅山は「どうしても鋏を入れてもらいたい3人の女性」として実姉、先代武蔵川夫人、大久保の母親を希望していた)。
  9. ^ a b c 大関角番(全3回)
  10. ^ 左足関節及び左足根骨脱臼により途中休場
  11. ^ 関脇陥落
  12. ^ 公傷・全休
  13. ^ 右肩インピンジメント症候群及びSLAP症候群
  14. ^ 右足関節外果剥離骨折により途中休場
  15. ^ 白鵬と優勝決定戦
  16. ^ 右大腿四頭筋挫傷により途中休場

出典編集

  1. ^ 講演「中学校生活で学んだこと」(水戸市立見川中学校) 2013年10月8日[出典無効]
  2. ^ 全日本相撲選手権大会[出典無効][信頼性要検証]
  3. ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』(2017年、B・B・MOOK)p33
  4. ^ a b c 北辰堂出版『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(塩澤実信、2015年)188ページから189ページ
  5. ^ さらに24歳3ヶ月での大関陥落は、大受と並んで最年少記録である。厳密には雅山が24歳3ヶ月0週、大受が24歳3ヶ月1週となっている。
  6. ^ a b 雅山哲士『雅ノート』実業之日本社、2014年1月18日、[要ページ番号]ISBN 978-4-408-45487-0
  7. ^ 大関昇進力士・昇進直前3場所の成績(大相撲海峡部屋)[出典無効][信頼性要検証]
  8. ^ この直前3場所でも「三役の地位で直近3場所の合計33勝以上」を満たしていたものの、大関昇進の直前場所ので一桁勝ち星(9勝)での昇進例は年6場所制となった1958年(昭和33年)以降存在しない。
  9. ^ 大関陥落後に初金星を挙げた力士には他に貴ノ浪貞博がいる。
  10. ^ 朝青龍は前日(初日)に小結時天空慶晃に敗れており2連敗スタート、場内は雅山の勝利で多くの座布団が舞った。
  11. ^ “(記事名不明)”. 朝日新聞 (朝日新聞社): p. [要ページ番号]. (2010年6月29日) 
  12. ^ “野球賭博:元琴光喜ら書類送検 捜査終結へ”. 毎日jp (毎日新聞社). (2011年3月3日). オリジナルの2011年3月4日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20110304121910/http://mainichi.jp/enta/sports/general/news/20110304k0000m040011000c.html 
  13. ^ “大相撲:元大関・雅山が引退表明 春場所3勝12敗”. 毎日jp (毎日新聞社). (2013年3月24日). オリジナルの2015年2月6日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20150206133950/http://mainichi.jp/sports/news/20130324k0000e050126000c.html 
  14. ^ “元大関・雅山に県が特別功労賞”. NHK茨城県のニュース 水戸放送局 (日本放送協会). (2013年9月30日). オリジナルの2013年9月30日時点によるアーカイブ。. http://megalodon.jp/2013-0930-1818-23/www3.nhk.or.jp/mito/lnews/1074831611.html 
  15. ^ “稀勢、日馬が引退相撲に土俵入りだけ参加”. nikkansports.com (日刊スポーツ新聞社). (2014年2月1日). http://www.nikkansports.com/sports/sumo/news/f-sp-tp3-20140201-1251993.html 2016年9月11日閲覧。 
  16. ^ “雅山断髪式“息子2人”と土俵入り”. nikkansports.com (日刊スポーツ新聞社). (2014年2月2日). http://www.nikkansports.com/sports/sumo/news/p-sp-tp3-20140202-1252126.html 2016年9月11日閲覧。 
  17. ^ 『大相撲ジャーナル』2014年4月号40頁
  18. ^ “元大関雅山が独立の意向 二子山部屋復活に意欲”. 中日新聞 CHUNICHI Web (中日新聞社). (2015年2月6日). オリジナルの2015年2月6日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20150206114416/http://www.chunichi.co.jp/s/article/2015020601001765.html 2015年2月6日閲覧。 
  19. ^ “元大関雅山の二子山親方、藤島部屋から独立”. 日刊スポーツ. (2018年3月29日). https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/201803290000520.html 2018年3月30日閲覧。 
  20. ^ “日本相撲協会 新外部理事に高野氏ら3人”. スポニチ Sponichi Annex (スポーツニッポン新聞社). (2016年3月29日). http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2016/03/29/kiji/K20160329012304560.html 2016年3月29日閲覧。 
  21. ^ “芝田山親方ら理事に 外部理事3人再任”. 毎日新聞. (2018年3月27日). https://mainichi.jp/articles/20180327/ddm/035/050/074000c 2018年3月30日閲覧。 
  22. ^ “花形の審判部一新、元益荒雄の阿武松親方が部長に”. 日刊スポーツ. (2018年3月28日). https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/201803280000534.html 2018年3月30日閲覧。 
  23. ^ 日刊スポーツ 2017年9月16日
  24. ^ a b c d この人と飲みたい(第2、4木曜日) : 二子山親方(元大関・雅山)<後編>「モンゴル勢の意外な弱点」”. SPORTS COMMUNICATIONS (2013年7月25日). 2016年9月11日閲覧。
  25. ^ 力士ほどのグルメはいない? ちゃんこだけにとどまらない相撲めしの数々 ダ・ヴィンチニュース 2018/3/25 (KADOKAWA、2018年4月12に閲覧)
  26. ^ a b 『大相撲ジャーナル』2017年8月号p22-25
  27. ^ 『大相撲ジャーナル』2018年3月号 p.44
  28. ^ 『大相撲ジャーナル』2017年12月号p31-32
  29. ^ 大相撲ジャーナル』2019年3月号 p.41.

外部リンク編集