霊公(れいこう、紀元前540年 - 紀元前493年)は、の第29代君主。襄公の子。

霊公 姫元
第29代公
王朝
在位期間 紀元前534年 - 紀元前493年
都城 帝丘
姓・諱 姫元
諡号 霊公
生年 紀元前540年
没年 紀元前493年
襄公

孔子が衛を訪れた際の君主で、『論語』には夫人の南子とともに言及される。『論語』第十五篇は彼の名が冒頭にあるから「衛霊公篇」と呼ばれる。

生涯 編集

襄公とその妾の間に生まれ、他に子がいなかったため太子となる[1]

襄公9年(前535年)8月、襄公が薨去したため、太子の姫元が立って衛君(以降は霊公と表記)となった。

霊公5年(前530年)、霊公は昭公に参朝した。

霊公6年(前529年)秋、霊公は・晋・小邾の君主たちと平丘(衛の地)で会合し、8月に盟を結んだ。

霊公11年(前524年)夏、宋・衛・・鄭の4カ国で雷による火災が起きた。

霊公13年(前522年)6月、霊公の兄である縶(ちゅう)が斉氏(斉豹の一族)によって殺された。この乱を聞いた霊公は都から死鳥(衛の地)へ逃れた。このとき斉から公孫青が訪れて霊公に面会し、霊公の護衛を務めた。その後、衛で北宮喜が斉氏を撃って滅ぼし、乱を平定した。7月、こうして霊公は都に戻ることができ、この乱に関与した者を誅殺した。

霊公29年(前506年)3月、霊公は劉・晋・宋・・魯・陳・鄭・・曹・莒・邾・・滕・薛・杞・小邾・斉の君主たちと召陵で会合し、に侵攻した。

霊公32年(前503年)秋、斉の景公と鄭の献公が鹹(衛の地)で盟を結び、衛にも加わるよう催促してきた。霊公はそれに加わろうとしたが、国人たちが許さなかったので、霊公は北宮結を斉に送って捕えさせ、斉を衛に侵入させた。これによって霊公は斉の景公と沙(衛の地)で盟を結んだ。

霊公33年(前502年)夏、晋の趙鞅(趙簡子)が鄟沢(衛の地)で衛と盟を結ぶため、渉佗と成何を衛に派遣した。しかし2人は会盟の席で無礼なふるまいをし、霊公を辱めた。そこで霊公は晋に叛くことにした。秋、晋の士鞅(范献子)が成(成周君)の桓公と会合して鄭に侵攻し、衛にも侵攻してきた。冬、霊公は鄭の献公と曲濮(衛の地)で盟を結んだ。

霊公34年(前501年)秋、霊公は五氏(晋の地)で晋と戦っている斉の景公を援けた。

霊公35年(前500年)冬、霊公は斉(景公)・鄭(游遫)と安甫で会合した。

霊公38年(前497年)春、霊公は斉の景公とともに垂葭に駐留した。この年、魯から孔丘(孔子)がやって来たので、その俸禄を魯と同じようにして待遇したが、やがて意見が合わず孔子は帰っていった。その後も孔子は衛にやって来た。

霊公39年(前496年)春、霊公は公叔戌を憎んでいたので、彼とその仲間たちを放逐した。夏、北宮結が魯へ出奔した。また、晋が朝歌を包囲したので、霊公は斉の景公と魯の定公とともに牽で会合し、晋の范氏と中行氏を救う相談をした。秋、太子の蒯聵(かいかい)は霊公の夫人である南子と折り合いが悪く、南子を殺そうとした。蒯聵は朝礼の際、仲間の戯陽遫に殺させようとしたが失敗し、このことが父の霊公に知られ、蒯聵は宋に出奔した。

霊公40年(前495年)夏、鄭の罕達が宋を攻撃したので、霊公は斉の景公とともに渠蒢(宋の地)に駐留した。

霊公41年(前494年)4月、范氏・中行氏の一味である趙稷が邯鄲で反乱を起こしたため、霊公と斉の景公は救援に向かい、五鹿(の邑)を包囲した。秋、霊公と斉の景公はともに晋を攻撃した。

霊公42年(前493年)、霊公は外遊し、子の郢(えい)に車を馭させた。郢は霊公の末子で、(あざな)を子南といった。このとき霊公が郢に「そなたを太子にするつもりだ」と告げたが、郢は断った。その4月に霊公が薨去し、夫人の南子は郢に太子になるよう勧めたが、また断ったため、蒯聵の子である輒(ちょう)が立って衛君(出公)となった。

妻子 編集

脚注 編集

  1. ^ 『史記』ではこの時、衛の初代君主である康叔のお告げがあったと記されている。

参考資料 編集

  • 春秋左氏伝』(昭公十三年、十八年、二十年、定公四年、七年~十年、十三年~十五年、哀公元年、二年)
  • 司馬遷史記』(衛康叔世家第七)

関連項目 編集