青山 孝史(あおやま たかし、1951年8月10日 - 2009年1月28日)は日本歌手俳優タレントである。

あおやま たかし
青山 孝史
本名 城下 孝行
しろした たかゆき
別名義 ター坊
生年月日 (1951-08-10) 1951年8月10日
没年月日 (2009-01-28) 2009年1月28日(満57歳没)
出生地 日本の旗日本佐賀県佐賀市高木瀬町
血液型 A型
ジャンル 俳優歌手
活動期間 1968年 -2009年

目次

人物編集

生まれは佐賀県佐賀市高木瀬町だが、育ったのは神奈川県横浜市渋谷区幡ヶ谷

1970年代を代表する男性アイドルグループ・フォーリーブスのメンバー。

本名・城下 孝行(しろした たかゆき)。旧芸名・青山 孝。青山 孝史への改称は2002年

愛称は「ター坊」。

佐賀市立協楽園小学校、川崎市立渡田小学校、私立高輪中学校、私立高輪高等学校堀越高等学校を経て、日本大学芸術学部演劇学科中退。血液型はA型

所属事務所編集

渡辺プロダクション → ジャニーズ事務所 → サワズ★カムパニー(現・三木プロダクション) → ノン・エンタープライズ → 株式会社エフエンタープライズ

来歴編集

  • 協楽園小学校4年生の時に父親の仕事の都合で、佐賀市高木瀬町から川崎市東渡田(後の川崎区田島町)へと移り住む。
  • 学校での成績が優秀だった為、小学校の校長先生の推薦により、 東京都港区高輪に在る私立男子校の高輪中学校に入学。ここでも優等生だった。
  • 1967年までは、特待生として「東京音楽学院」に在籍。スクールメイツにも選抜された。
  • アイドル現役当時に日本大学芸術学部音楽学科を受験して話題となったが不合格。その後も芸能活動と受験勉強を両立し、2浪を経て日本大学芸術学部演劇学科に入学した。
  • 1977年ロサンゼルスにて結婚。相手は、ジャニーズ事務所の第2号女性タレントの嶋田じゅん(本名・島田純。1970年のミス・ユニバース日本代表のハーフ)。披露宴は東京で開かれ、その模様は当時フジテレビでも放送された。その時の司会者は徳光和夫。嶋田とは2児をもうけた後に1996年離婚。1997年、別の一般人女性と再婚し、1998年に女児を一人もうけた。
  • 弟の宣博もかつて「青山信宏」の芸名でジャニーズ事務所に所属し、アイドル野球大会に出場したり俳優として活動していた。
  • 1990年頃、おりも政夫と2人で静岡県浜松市中区肴町に在る同じビル内に「ステージバー・グリッター」(3F)というショーパブと「タレント・ミュージック・スクール」(4F)という音楽学校の2つを開いた。実際の出資者はジャニーズ事務所。また、音楽学校の方だけはすぐに閉校してしまった。
  • その後は、「ノン・エンタープライズ」という飲食店チェーン会社の代表取締役、麻雀荘の経営、静岡県沼津市でパブのマスターなどをしていた。
  • 2002年にフォーリーブスを再結成し、亡くなる直前まで活動。また、単独でのライブも並行して行っていた。
  • フォーリーブスの全国ツアーの真最中であった2008年10月中旬に、肝臓がんである事が発覚。すぐに入院して抗がん剤治療を開始した。メンバーたちには翌11月後半に告知。一時は腹水が10kg以上もたまるなどの一進一退の病状で、青山の体調を心配したメンバーはツアーの中止を考えた。しかし青山は、「4人揃わなければフォーリーブスじゃない」とツアーの続行を強く訴えた為、メンバーも青山の意気込みに押されてツアー続行を決意。そして、入院先の病院を抜け出す形で出演した11月24日の中野サンプラザでのコンサートにて、癌である事は伏せながらも「肝臓の病気が酷くなった」という旨をファンに対して発表した。以降もコンサートがある度に病院を抜け出し、2回ステージに立ったが、病状の悪化により、2時間のステージで30分出演するのがやっとの状態だった。
  • 2009年1月16日、「肝臓がん」である事を公式発表。
  • 公式発表の僅か12日後の2009年1月28日午前7時、肝がんで死去。57歳没。
  • 2009年2月3日に渋谷区西原の代々幡斎場にて通夜、翌4日には葬儀・告別式がしめやかに営まれた。2月4日、東京・代々幡斎場で営まれた葬儀には、フォーリーブスのメンバー3人、初代メンバーだった長田栄二、更には郷ひろみ豊川誕川崎麻世井上純一などジャニーズ事務所時代の後輩、歌手の橋幸夫あべ静江西城秀樹野口五郎などの芸能関係者やファンら、3,000人余りが詰めかけた。また、斎場には黒柳徹子平尾昌晃森進一伊東四朗ら多数の芸能関係者からの供花が飾られた。そして弔辞に立った江木俊夫も、「ター坊、言っただろ。『フォーリーブスは永遠に続く』って。約束破るなよ!」、「ター坊の歌声がフォーリーブスの歌声だった。俺たちはこれからどうするんだ?」、「(再結成からの)7年間、本当に楽しかったよ」と、目を腫らしながら語った。当日の遺影に使われた写真は、妻と娘が「一番似合いそうだから」と選んだもので、霊前には青山が大好きだったという「うな丼」が備えられた。そして棺の中には、妻子からの手紙、フォーリーブスのレコードジャケットと歌詞のコピー30枚、好きだったお茶やチョコ、マッサージの時に使った手ぬぐい、天国でも作曲が出来るようにと楽譜と鉛筆、そして、亡くなった翌日に青山の訃報記事が1面で報じられた日刊スポーツなどが納められた。 大好きだったお酒と煙草だけは、青山が生前に夫人に「入れなくていい」と言っていた為に入れられる事は無かった。尚、青山の所属事務所はジャニーズ事務所に対し、通夜と告別式の日程を FAXで知らせたが、弔電さえも届かなかった。
  • 2009年3月29日に東京厚生年金会館大ホールで行なわれたフォーリーブスのラストコンサートには、青山の愛娘も、バックダンサー「KID'S」の一員として参加した。 彼女は小学3年生の12月からダンススクールでレッスンを始めており、約1年間の成果をステージで表現。 「とても楽しかったです。」とコメントした。 そして、「父のように元気をあげられるような人を目指して頑張ります」と、意志も明かした。
  • 同年、おりも政夫とのオフィシャルウェブサイト&ファンクラブ「YG Club」を開設(運営はエフエンタープライズ)。
  • 2010年1月23日には、東京・九段会館で「青山孝史さんを偲ぶ会」が行われ、2,000人を超えるファンたちが献花に集まった。更に同年8月7日には千葉・舞浜のClub IKSPIARIにて、ビデオLIVE「Takashi Aoyama Video Live The four season of 2006 ~Summer~ Once more」が行われた。その後も現在に至るまで、青山を偲ぶビデオライブやイベントやおりものソロライブなどが開催されている。

人物編集

  • ジャニーズ事務所に一週間通い詰め、事務所入りを許されたと当時の雑誌に書かれている。
  • 歌唱力に優れ作曲、編曲を学び自ら作曲も行うなど、グループにおいて音楽面でのリーダー的存在であった。また作曲だけではなく自室をスタジオに改造して楽器演奏や編曲も行っていた。
  • 受験勉強や大学への通学、作曲やアレンジの勉強で多忙だった事もありソロ活動が少なかった。しかし単独での活動が少ない割に人気は高く、当時の雑誌の表紙やグラビアにおいてはメンバーの中では一番大きく扱われる事が多かった。
  • 1970年にフォーリーブスが「あしたが生まれる」で『NHK紅白歌合戦』に初出場した時のステージは、トレードマークであるダンスは無く青山のソロやボーカルをフィーチャーしハーモニーを前面に出した物であった。その後は1976年まで連続で出場した。1974年の『急げ若者』と1975年の『ハッピー・ピープル』は青山のボーカルとダンスを中心としたステージであった。
  • 弟の城下宣博も、かつて「青山信宏」の芸名でジャニーズ事務所に所属していた。 但し活動内容は、テレビドラマの端役と、アイドル野球大会に出場した程度のものだった。 後に兄・孝の追っかけをしていた女性と結婚し、芸能界を引退。
  • 息子の城下カズ(1982年8月4日生まれ)は、Jet Planet と云うアートチームに所属し音楽制作、絵描きなどのアートワーク活動をしている。

主な出演作品編集

テレビ編集

テレビドラマ編集

連続ドラマ編集

単発ドラマ編集

映画編集

舞台編集

ラジオ編集

  • ラジオ村 (2002年8月29日、ラジオニッポン) - ゲスト出演

ディスコグラフィ編集

シングル編集

  • 若いってすばらしい c/w 恋のジェンカ(「スクールメイツ」名義作品、1967年
  • 季節の中の魚たち c/w 青春貴族(映画『わが青春のイレブン』主題歌、1979年7月21日)
  • 潮騒の季節 c/w ワンナイトトリップ(東京12チャンネル『とびだせ!つり仲間』テーマ曲、1981年3月)
  • 塩屋の岬 c/w かもめ(1990年にカセットテープでのみ販売された演歌)

アルバム編集

  • 幸福という二文字(1977年) - 全13曲。 青山自身が全て作曲し、その内6曲は作詞も担当した。尚、このアルバムに、更に1979年のシングル『季節の中の魚たち c/w 青春貴族』を加えたCD盤が、2009年3月17日にソニー・ミュージックダイレクトの「オーダーメイドファクトリー」レーベルより発売された。

提供曲編集

  • 梓みちよ『一人暮し』(シングル『ノクターン』のB面曲。作詞作曲を青山が担当。1977年9月5日)

外部リンク編集

関連項目編集