青山宗勝
青山 宗勝(あおやま むねかつ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。越前国丸岡城主。官位は従五位下・修理亮。
時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 生年不明 |
死没 | 慶長11年1月11日(1606年2月17日)[1]または元和4年12月10日(1619年1月25日) |
別名 |
虎、貞勝、秀昌[1] 小助、小介、助兵衛(通称) |
戒名 | 清月道旬禅定門 |
官位 | 従五位下・修理亮、伊賀守[1] |
主君 | 丹羽長秀→長重→豊臣秀吉→秀頼→蜂須賀至鎮 |
氏族 | 青山氏 |
父母 | 父:青山正直 |
妻 |
正室:吉田益晴の娘 継室:長清院(丹羽長秀の娘) |
子 | 忠元または正次、甚左衛門、長勝、才兵衛、松山少兵衛[注 1] |
略歴
編集名前
編集諱は複数伝わり、『戦国人名辞典』 などでは宗勝、二本松市史に掲載されている『青山家系図』では貞勝としており[2]、『長命寺文書』では虎と記している[1]。また、『丹羽歴代年譜付録』によれば木下藤吉郎(豊臣秀吉)とは昵懇の仲であったとしており、谷口克広は『太閤記』に登場する青山小助と同一人物であると比定している[1]。
生涯
編集青山氏は元々織田氏に仕えてきた家柄で、父の正直は蜂須賀氏の家老である稲田氏に仕えていたという[3]。『武功夜話』によれば、宗勝は永禄10年(1567年)の稲葉山城の戦いや元亀元年(1570年)の姉川の戦いに参加した[1]。天正10年(1582年)の本能寺の変後は丹羽長秀の下で山崎の戦いや翌天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに従軍し、戦功を挙げている[1]。
天正13年(1585年)閏8月、主家の内紛により丹羽長重の元から離れて羽柴秀吉の家臣となり、越前国に2万石を与えられて黄母衣衆に列した[4][5]。その後、九州征伐に従軍し、伏見城の普請を分担、その功労によって従五位下・修理亮[注 2]に叙任されるとともに豊臣姓を与えられた[4][5]。
慶長3年(1598年)8月、秀吉の死に際して遺物兼貞の刀を受領[5]。同年もしくは翌慶長4年(1599年)に越前国丸岡城主となり、4万6千石[注 3]に加増された[4][5]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは子の忠元[注 4]とともに西軍に属して北国口を防備したため、戦後改易された[4][5]。
その後の動向は諸説あるが、『二本松寺院物語』によると、改易されたのち宗勝は父の縁故を頼って阿波の蜂須賀家に寄食し、元和4年(1619年)12月10日に同地で死去したという。法名は清月道旬禅定門[6]。
系譜
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集参考文献
編集- 宮本久『丸岡城と歴代城主』丸岡観光ボランティアガイド協会、2017年、198-215頁。
- 谷口克広『織田信長家臣人名辞典 第2版』吉川弘文館、2010年、3頁。ISBN 978-4-642-01457-1。
- 桑田忠親『太閤家臣団』新人物往来社、1971年、73頁。ASIN B000J9GTRU
- 高柳光寿; 松平年一『戦国人名辞典』(増訂版)吉川弘文館、1981年、4頁。