青木敬一
青木 敬一(あおき けいいち、1888年(明治21年)6月25日[1] - 1974年(昭和49年)11月7日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。
青木 敬一 | |
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生誕 |
1888年6月25日 日本 石川県 |
死没 | 1974年11月7日(86歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1909年 - 1939年 |
最終階級 | 陸軍少将 |
除隊後 | 大日本青少年団幹事 |
経歴
編集石川県出身[1]。陸軍士官学校第21期、陸軍大学校第30期卒業[1]。1924年(大正13年)9月時点で台湾軍参謀の任にあり[2]、1925年(大正14年)5月、陸軍歩兵少佐に進級し[3]、同年9月時点で歩兵第4連隊附に移った[3]。1926年(大正15年)8月には陸軍歩兵学校教官兼同校研究部部員に転じ[4]、1928年(昭和3年)8月に陸軍歩兵学校研究部主事兼同校教官に就任した[5]。1929年(昭和4年)8月、陸軍歩兵中佐進級と同時に第18師団参謀に着任し[6]、1931年(昭和6年)8月に歩兵第41連隊附を経て[7]、1933年(昭和8年)3月に第2師団司令部附となり[8]、東北帝国大学に配属された[8]。
1934年(昭和9年)3月5日、陸軍歩兵大佐進級と同時に台湾歩兵第2連隊長(台湾軍・台湾守備隊司令部[9][10])に着任した[11]。1936年(昭和11年)3月には第1師団司令部附となり[11]、慶応義塾大学に配属され[11]、1937年(昭和12年)11月に澎湖島要塞司令官(台湾軍[12][13])に転じた[11]。1938年(昭和13年)3月に陸軍少将に進級し[11]、5月には新設された歩兵第136旅団長(第106師団)に着任して日中戦争に出動[1]。蕉湖方面から九江に出撃したが[14]、雷鳴鼓劉では全滅寸前の大激戦を繰り広げ[1]、南昌作戦では猛攻撃を展開し大なる戦果を収めた[1]。1939年(昭和14年)1月23日に待命[11]、1月31日に予備役に編入された[1]。
予備役編入後は大日本青少年団幹事[15]、同指導者中央錬成所副所長[16]、東京都青少年団副団長、国民総蹶起運動東京地方連絡会議委員などを務めた[17]。
脚注
編集- ^ a b c d e f g h 福川 2001, 12頁.
- ^ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 大正13年9月1日調311頁
- ^ a b 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 大正14年9月1日調352頁
- ^ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 大正15年9月1日調233頁
- ^ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 昭和3年9月1日調208頁
- ^ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 昭和4年9月1日調166頁
- ^ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 昭和6年9月1日調114頁
- ^ a b 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿: 索引付 昭和8年9月1日調107頁
- ^ 外山・森松 1987, 360頁.
- ^ 外山・森松 1987, 361頁.
- ^ a b c d e f 外山 1981, 267頁.
- ^ 外山・森松 1987, 564頁.
- ^ 外山・森松 1987, 566頁.
- ^ 外山・森松 1987, 537頁.
- ^ 『偕行』第285号、陸修偕行社、1975年2月、37頁。
- ^ 繁田 1942, 7頁.
- ^ 『都政週報』第42号、東京都、1944年6月、5頁。
参考文献
編集- 外山操・森松俊夫 編著『帝国陸軍編制総覧』芙蓉書房出版、1987年。
- 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026。
- 繁田浅二 編『翼賛団体の現勢』思想国策協会、1942年 。