韋皇后 (唐中宗)

唐の中宗の皇后

韋皇后(いこうごう)は、中宗の皇后。京兆府万年県の出身。韋玄貞の娘。しばしば韋后と呼ばれる。

韋皇后
の皇后
在位 弘道元年12月11日 - 嗣聖元年2月6日
684年1月3日 - 2月26日
神龍元年2月14日 - 景龍4年6月2日
705年3月13日 - 710年7月3日

出生 不詳
死去 唐隆元年6月20日
710年7月21日
長安太極宮
配偶者 中宗
子女 李重潤
長寧公主
永寿公主
永泰公主
安楽公主
氏族 京兆韋氏
父親 韋玄貞
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生涯

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中宗が皇太子となると、妃(継室)となった。嗣聖元年(684年)、中宗が即位すると、皇后に立てられた。

中宗は生母である武則天に対抗すべく、韋后の父である韋玄貞を侍中に任用する計画した。結局中宗は武則天の怒を買い、即位後わずか55日で廃位された。中宗が湖北に流されそれに随行、流刑地に赴く途中で末っ子(安楽公主)を産んだ。また韋氏の家族たちは流刑地で死去した。二人の妹しか残っていない。夫婦は苦難の日々を送ったが二人の仲は良かったという。中宗は何度も自殺しようとしたが、韋氏に止められた。中宗は韋氏に対して「もし後日、私が重ねて天日を見ることができたら、きっとあなたを好きなようにさせて、何の制限も加えません」と誓いを立てた。

聖暦2年(699年)、夫は武則天により召還されて再び立太子された。しかし韋后は度重なる不運に見舞われた。次女の永寿公主が早世した。大足元年(701年)、長男の李重潤と三女の李仙蕙が張易之・張昌宗に関し謀議を行ったとして武則天により死を賜った。

神龍元年(705年)、武則天より譲位されて中宗が復位すると、武三思らと結託し、従兄の韋温とともに朝政を掌握した。景雲元年(710年)には自らの即位を意図し、安楽公主とともに中宗を毒殺、温王李重茂(殤帝)を皇帝に擁立した。しかし間もなく李隆基(玄宗)が政変を起こし、その父である相王李旦(睿宗)が復位した。韋后は殺害され、その身分も庶人に落とされた。

子女

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登場作品

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テレビドラマ

関連項目

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