韓 当[1](かん とう)は、中国後漢末期から三国時代の武将。に仕えた。幽州遼西郡令支県の人。義公。子は韓綜。『三国志』呉志に伝がある。

韓当

昭武将軍・都督・石城侯
出生 生年不明
幽州遼西郡令支県
死去 黄武5年(226年
拼音 Hán Dāng
義公
主君 孫堅孫策孫権
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生涯 編集

弓術馬術に優れ体力もあったため、孫堅に見出され部下に採り立てられた。『呉書』によると、危険を冒しつつ敵を破ったり、賊を捕虜にするなど活躍した。当時は従軍の身分に過ぎなかったという、英雄豪傑たちに功績を切り取られたため、爵位を与えられることはなく、孫堅の世代を通じて別部司馬となる。また孫策にも仕え、江東に出陣し三郡(会稽丹陽)の討伐に参加して先登校尉となった。兵士2千・騎馬50頭を与えられた。さらに孫策の劉勲討伐にも参加し、援軍の黄祖軍を破って、鄱陽郡の制圧にも同行、楽安県長となった。その後、山越は韓当の武勇に恐れをなし、従順な態度を取るようになったといわれる。『呉録』には、孫策が黄祖を討伐した時の上奏文が収録されており、行先登校尉であった韓当の名もその中に記されている[2]。孫策亡き後は孫権に仕えた。

建安13年(208年)、赤壁の戦いでは中郎将となり、周瑜程普達と共に曹操軍を迎撃した。この戦いで、黄蓋が流れ矢にあたり水中に転落し、兵卒と間違えられ便所の側に放置されていたが、黄蓋が声を振り絞って韓当を呼んだため、韓当は黄蓋を保護し、涙を流して衣服を取り換えてやったという[3]。建安14年(209年)、陳蘭の援軍に赴いたが、曹操軍の臧覇に敗れた[4]。建安24年(219年)、呂蒙達と共に南郡攻略に参加し、これを奪取した。その功績で偏将軍まで昇り、永昌太守にも任命された[5]

黄武元年(222年)、夷陵の戦いでは陸遜朱然と共に劉備が指揮を執る蜀漢軍を迎え撃ち、涿郷で蜀軍を大破した。この功績により威烈将軍にうつり、都亭侯に封じられた。

同年、曹真が南郡(江陵)に攻め寄せて来た時は(三方面での戦い)、城の東南部を守備した。この戦いで統帥として、将兵を励まし一致団結して守りを固め、また中央からの目付の意見にはよく従い、法令を遵守したので、孫権に信頼された。黄武2年(223年)、石城侯に封じられ、昭武将軍へ昇進した。また冠軍太守に任命され、都督の称号も与えられた。

後に敢死・解煩兵(呉軍の特殊部隊)一万人の指揮を執り、丹陽郡の賊を討伐し破った。それから間もなくして病気のため死去した。

三国志演義 編集

小説『三国志演義』では、反董卓連合に参加した孫堅配下の4将軍の一人として、程普・黄蓋・祖茂と共に登場し、大刀を武器として奮う武人とし紹介される。孫堅が袁紹と仲違いした時は、程普・黄蓋と共に袁紹軍の顔良文醜と睨み合いをしている。孫堅が劉表を攻撃し戦死する直前の場面では、凶兆が出ていることを孫堅に伝えている。その後も孫策・孫権の配下として活躍し、後に周泰とペアで行動することが多く、赤壁の戦いの緒戦では、旧袁紹軍の降将で構成された曹操軍の先鋒隊を、周泰と共に迎撃し焦触を討ち取っている。また苦肉の策を成功させた黄蓋が、敵の矢を受け河に落ちていたところを助けている。周泰と共に迎撃し文聘を打ち負かした。南郡の戦いでは、曹洪との一騎討ちで勝利した。濡須口の戦いにおいては、周泰と共に許褚を迎撃し、許褚は辛くも曹操を救い出した。夷陵の戦いにおいては、孫氏三代に仕えた将軍として、周泰達と共に陸遜の指揮に不満を漏らすが、陸遜に戒められている(史実では、不満を漏らした人物の名は不詳である)。

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韓綜-父の死後、韓綜が爵位を継承した。黄武5年(226年)、孫権は石陽に軍を進めたが、韓綜は父親の喪に服しているということで、武昌に留まって守りにあたらせた。しかるに韓綜は、淫乱にふけり無法を働いた。孫権は、韓当に免じてそれをとがめなかったのであるが、韓綜は内心、懼れをいだき、黄武6年(227年)閏12月に韓当の棺を持って、母親や家族、それに部曲など、男女数千人を引きつれて、魏に逃げ込んだ。魏の将軍となった韓綜はしばしば辺境を犯し、呉の平民を殺害した。孫権は彼が攻めてくると聞くといつも悔しがっていた。

建興元年(252年)、東興の戦いでは韓綜は前軍督として魏の先鋒となったが、戦いに敗れて命を落とした。諸葛恪が彼の首を斬って都に送り、孫権の廟にそのことを報告した。

脚注 編集

  1. ^ 繁体字表記では「韓 當」。
  2. ^ 『三国志』孫破虜討逆
  3. ^ 『三国志』黄蓋伝引『呉書』
  4. ^ 『三国志』臧覇伝
  5. ^ 赤壁の戦いの直後にも呉は南郡攻略しているが、この時の主将は周瑜であり、この時に「呂蒙達と共に」という表現はおかしい。また、赤壁の戦いで最大級の活躍をした黄蓋は赤壁戦後に武鋒中郎将に任命されているが、その黄蓋を差し置いて、黄蓋とさして位が変わらない韓当がさしたる戦功もなく、当時の周瑜と同格の偏将軍に出世するのは違和感がある。また、永昌太守は遥任であるが、呉が荊州を奪取した時に周泰も遥任で漢中太守に任じられており、韓当が遥任で永昌太守に任じられたのと同時期であるとみるのが自然である。よって、韓当が参加して功績をあげた南郡攻略は、韓当が陳蘭の救援で揚州方面に出払っていて不在と思われる209年の周瑜主導の時ではなく、219年の呂蒙主導の時とみるのが妥当であろう。

参考文献 編集