田中禄春

日本のヤクザ、実業家
韓禄春から転送)

田中 禄春(たなか ろくしゅん、1922年4月23日 - 2018年1月13日)は、在日韓国・朝鮮人実業家在日本大韓民国民団中央・大阪本部常任顧問。富士観光社長[1]。元暴力団員で、三代目山口組に加入し富士会(現在の一心会)を設立した。本名は韓禄春(ハン・ロクチュン、한록춘)。

たなか ろくしゅん

田中 禄春
生誕 (1922-04-23) 1922年4月23日
大韓民国の旗 韓国江原道高城郡
死没 (2018-01-13) 2018年1月13日(95歳没)
住居 日本の旗 日本大阪府
国籍 大韓民国の旗 韓国
職業 実業家
肩書き 在日本大韓民国民団中央本部常任顧問
同・大阪本部顧問
元三代目山口組舎弟
一心会元会長
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来歴 編集

大日本帝国領朝鮮江原道高城郡(現・韓国江原道高城郡)で生まれる。14歳の時に単身で来日し、大阪府大阪市港区バー「黒猫」で、ボーイ兼皿洗いをして働いた。終戦直後はうどん屋の闇商売を始め、昭和23年(1948年)、大阪ミナミに小料理屋「新宿」を出店。その後、曽根崎警察署の裏に、キャバレー「ヴィーナス」をオープンさせた。

山口組加入後 編集

昭和28年(1953年)には、大阪ミナミの宗右衛門町にマンモスキャバレー「富士」をオープン。しかし、地元の愚連隊春日会西宮市諏訪組柏木組からみかじめ料などを要求され、自ら諏訪組の舎弟となって事業を守ろうとしたものの断られる。その後、大阪市淀川区十三中川組中川猪三郎組長の紹介で、昭和32年(1957年)10月に持参金を持って、三代目山口組田岡一雄組長の盃を受ける。田中は田岡の若衆となり富士会を結成、更に大野組組員だった桂木正夫(後の四代目山口組若頭補佐、五代目山口組舎弟頭補佐)を若衆とした。昭和35年(1960年)8月5日にはマンモスキャバレー「キング」を開店し、開店祝いでは田端義夫が出演すると共に田岡組長が来店。その後の打ち上げでのトラブルが明友会事件の発端となっている。

だが、第一次頂上作戦で山口組の主だった傘下組織が摘発・解散の憂き目に遭い、田中も新たに起こした山口組一心会を昭和41年(1966年)8月23日[1]に解散し、ヤクザから引退する。

民団幹部時代 編集

昭和40年(1965年)に日韓基本条約が締結されると、近畿2府4県の在日本大韓民国民団関係者と実業家を糾合して「駐大阪総領事館建設期成会」を発足。田中は会長となって、御堂筋駐大阪総領事館を竣工させた。

その後も近畿地方の韓国系実業家の有力者として活動し、平成2年(1990年)の国際花と緑の博覧会では資金を提供している。民団でも2003年に民団大阪本部顧問となり、2006年には民団中央本部常任顧問となっている。

出身地の大韓民国江原道への援助も多く、平成11年(1999年)9月の江原国際観光博覧会には資金面で援助し、この貢献により江原道名誉道民に選ばれている。平成14年(2002年)の台風15号の来襲時には2000万ウォンを寄付した。また平成15年(2003年)の大邱地下鉄放火事件にあたっても民団中央本部に義援金1000万ウォンを提供、同年の台風14号でも義援金として500万円を民団中央本部・金宰淑団長に渡している。

脚注 編集

  1. ^ a b 溝口敦 『山口組ドキュメント 血と抗争』 P.289 三一書房 1985年 ISBN 4-380-85236-9

参考文献  編集