順天倭城(じゅんてんわじょう、スンチョンわじょう)は、韓国全羅南道順天市海龍面新城里にあった日本式の城倭城)である。慶長の役の際に日本軍によって築かれたものの一つ。

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順天倭城
大韓民国
順天倭城の天守(『征倭紀功図巻』より)
順天倭城の天守(『征倭紀功図巻』より)
別名 倭橋城, 曳橋城
城郭構造 平山城
天守構造 3重(非現存)
築城主 小西行長
築城年 1597年
主な改修者 小西行長ㆍ宇喜多秀家藤堂 高虎
主な城主 小西行長ㆍ藤堂高虎
廃城年 1598年
遺構 石垣、天守台、虎口、土塁、空堀
指定文化財 全羅南道記念物第171号
位置 北緯34度54分26秒 東経127度34分52秒 / 北緯34.90722度 東経127.58111度 / 34.90722; 127.58111座標: 北緯34度54分26秒 東経127度34分52秒 / 北緯34.90722度 東経127.58111度 / 34.90722; 127.58111
地図
順天倭城の位置(韓国内)
順天倭城
順天倭城
『征倭紀功図巻』局部
順天倭城の櫓門(『征倭紀功図巻』より)

立地と構造編集

文禄・慶長の役を通じて日本軍は朝鮮半島南岸各地に倭城群を築いて布陣していた。その中でも最西端にあたる全羅道順天の光陽湾に面した沿岸に1597年11月から、小西行長宇喜多秀家藤堂高虎を中心として築城を始め、突貫工事により城は短期間で完成をみる。

城の立地は小さな半島状の地形で、三方は海に囲まれた天然の要害で、西側だけが地続きとなっており、ここには丘陵稜線ラインに沿って石垣で長塁を築き、外郭として敵の侵入を塞いでいた。本城は東側最奥部の海に突き出した小山に築かれ、ここに石垣を積み上げ、山頂には3重の天守を上げた。

外郭と本城の間には入り江があり、この入り江には艦船が停泊し軍港の役割を果たしていた。宇都宮国綱の軍功記である『宇都宮高麗帰陣物語』によれば「600艘の船が2つの入り江に入っていた」という。周辺の海は遠浅となっており、そのため海上からの救援が困難であるとしてこの城を放棄する案が提出されたこともあるが、この案は豊臣秀吉が却下した。実際に明・朝鮮軍が攻め寄せたときには、逆に遠浅の海が幸いし、多くの明・朝鮮の軍船が座礁している。現在周囲の海は大部分が埋め立てられている。

歴史編集

交通手段編集

順天倭城の戦い編集

脚注編集

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外部リンク編集