顕昭

顕昭(けんしょう、大治5年(1130年)? - 承元元年(1209年)?)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての歌僧。亮公(すけのきみ)、亮阿闍梨(すけのあじゃり)とも呼ばれる。父母については不明であるが、左京大夫藤原顕輔養子となったため、藤原姓を賜っていた。1191年(建久2年)までに阿闍梨、晩年に法橋に叙せられた。

少年期比叡山で修学したが離山、後に仁和寺に入寺し、『袖中抄(しゅうちゅうしょう)』など多くの歌学書を著している。それらの大部分は仁和寺宮守覚法親王に献呈したものである。

顕輔・清輔没後は六条藤家の中心的存在として歌壇で活躍。歌合への出詠は20数度に及ぶ。「六百番陳状」は「六百番歌合」の判者藤原俊成への反駁文である。「千五百番歌合」などの判者も勤めている。『千載和歌集』以下の勅撰和歌集に43首入集。『今撰和歌集』は顕昭の私撰集とされる。

実作上では『万葉集』尊重、風情重視の立場をとり、藤原定家らと対立したが、むしろ六条藤家歌学の大成者としての功績が大きい。