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風魔 小太郎(ふうま こたろう)または風間 小太郎(ふうま/かざま こたろう)は、後北条氏に仕えた乱破集団もしくは風魔一族の師範役的な立場にあったとされる人物である。「風广」「風摩」なる人物が北条氏直に仕えたことが『北条五代記』にみえる。歴史小説や忍者の解説書などでは、相州乱破の頭目が代々「風魔小太郎」を名乗ったと説明されていることが多い。[1]

概要編集

18世紀前半に槇島昭武が著した『関八州古戦録』において、天文15年(1546年)あるいは天文12年(1543年)の上杉憲政による川越城攻めの際、柏原に差し向けられた北条氏康配下の忍び、二曲輪猪助の師として「風間小太郎」の名前が挙げられているのが[2]、江戸期における唯一の言及である。ただし、彼が相州乱破の頭目かどうかについては触れられていない。

三浦浄心の著した寛永18年(1641)刊の『北条五代記』には、天正年間に北条氏直に仕えていた風摩(かざま)という人物が紹介されている。同書によれば、武田軍の兵士は、風摩が「身の丈七尺二寸(2m16cm)、筋骨荒々しくむらこぶあり、眼口ひろく逆け黒ひげ、牙四つ外に現れ、頭は福禄寿に似て鼻高し」という、異様な風貌をしていると噂したという[3]。忍者の解説書において、この風摩は、相模国足柄下郡の出身で、本当は風間姓だが代々風魔小太郎を名乗ったとされていることが多い[4]

『北条五代記』によれば、風摩は合計二百人の乱破を従え、二百人は「四頭」に率いられ、「四盗」すなわち山賊、海賊、強盗、窃盗からなっていた。風摩の一党は、敵陣に忍び込んで、人を生け捕りにし、繋ぎ馬の綱を切ってその馬に乗り、夜討ちをかけた。そのうえ、ここかしこに放火し、四方八方に紛れ込んで、勝ち鬨をあげるので、敵方はさんざん動揺した。

同じ三浦浄心が著した『慶長見聞集』によれば、下総国の向崎という在所にいた甚内という人物が「関東の盗賊の首領はみな風魔の残党・子孫だ」と江戸の奉行所に密告して「盗人狩」が行われ、江戸近辺を荒らしまわっていた盗賊が根絶やしにされた[5]戸部新十郎の『忍者と盗賊』などの忍者の解説本では、この事件において頭目の風魔小太郎も捕縛・処刑されたと書かれている[6]


風間出羽守編集

後北条氏のいくつかの発給文書には、「風間出羽守」「風間」なる人名がみえ、岩付城の警備を担当するなどしていたことが知られている。(以下、下山治久『後北条氏家臣団人名辞典』の「風間(ふうま)」の項を参照)

元亀3年(1572年5月7日付けで、後北条氏は岩井弥右衛門尉らに対して風間某が7月まで6ヶ村に逗留する予定として宿以下の用意を命じ、不法があれば小田原城に訴えるように命じた。元亀4年(1573年)には、後北条氏は、百姓からの訴えを受けて、以後、風間某を武蔵国の「すな原」に在宿させないことにした。

この他に、天正年間に北条氏政十郎氏房にあてたとみられる書状に岩付城の夜間警備を命じられているらしき「風間」の名前がみえたり、天正10年(1582年9月13日付けの「風間出羽守」あての北条氏政書状で、風間は氏政から信濃国遠江国の戦況を知らせられた上で、示し合わせて出陣するよう命じられたりしている。

また、風間出羽守の嫡子に雨宮主水正という者がおり、岩付城下の妙円寺(埼玉県さいたま市岩槻区黒谷)を開基したという。

題材とした作品編集

六代目風魔小太郎編集

2013年5月3日に行われた

参考文献編集

脚注編集

  1. ^ 川口素生 『スーパー忍者列伝』 PHP研究所、2008年。 
  2. ^ 槇島昭武 『関八州古戦録 改訂版』 新人物往来社、1976年。 
  3. ^ 萩原龍夫(校注) 『北条史料集』 人物往来社、1966年。 
  4. ^ 山下昌也 『実録 江戸の悪党』 学習研究社、2010年7月。 など。
  5. ^ 三浦浄心 『慶長見聞集』 新人物往来社、1969年。 
  6. ^ 戸部新十郎 『忍者と盗賊』 河出書房新社、1986年。