飛騨の乱
概要編集
15世紀初頭、飛騨国司の姉小路家は、小島家(小島城)・古川家(古川城)・向家(向小島城)の3家に分裂していた。当時、小島師言が宗家の当主として在京した一方、古川尹綱が飛騨国司に補せられて飛騨に在国していた。室町幕府は宗家の小島家を優遇したため、古川家は不満を抱いていた。
応永18年(1411年)、尹綱は南北両朝の合体条件の不履行に関する飛騨の山科家領を巡る争いもあって、古川城にて挙兵した[1]。そして、小島家と幕府との仲を取り持つ向家を討つため、小島城と向小島城を攻撃した。
これに対して、幕府は飛騨守護・京極高光に尹綱の追討を命じたが、高光は病床の身であったため、弟の京極高数が総大将として領国の軍勢を率いて討伐に向かった。また、越前からは斯波氏の被官であった甲斐氏・朝倉氏が、信濃からは守護・小笠原持長が幕命を受けて出陣している。
幕府軍5千に対し、尹綱は武安郷の広瀬高堂城城主・広瀬常登の協力を得たが、国司側の兵力は500ほどであった。激戦の末、尹綱と常登は敗走し、最後は共に討ち取られた。
尹綱の戦死後、尹綱の子・昌家は宗家の当主・小島師言に引き取られた。師言は昌家を自身の子・持言と兄弟同様に育て、昌家の成長後には、古川家を再興させた。
飛騨の乱は歴史の表舞台には出て来ないが、姉小路家の歴史を語る上では重要視される史実である。