飛鳥井雅賢

安土桃山時代から江戸時代初期にかけての公家

飛鳥井 雅賢(あすかい まさかた)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての公家権大納言飛鳥井雅庸の長男。官位従四位下左近衛少将

 
飛鳥井雅賢
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正13年(1585年
死没 寛永3年閏4月16日1626年6月10日
官位 従四位下左近衛少将
主君 後陽成天皇
氏族 飛鳥井家
父母 父:飛鳥井雅庸
兄弟 雅賢難波宗勝(雅宣)雅章
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経歴 編集

天正13年(1585年)、飛鳥井雅庸の長男として誕生。

慶長14年(1609年)、後陽成天皇の女官と密通した罪(遊蕩の罪)により、隠岐国中之島[1]へと配流された(猪熊事件)。慶長18年(1614年)4月には、中之島において雅賢の生活を支えた村上家の当主・村上秀親に蹴鞠の免許状を発給している。隠岐島の伝説によれば、雅賢には藤若という孫がおり、延宝8年(1680年)に徳川家綱の死去による恩赦で赦免されたとされる。また源福寺には雅賢の邸と伝承される「飛鳥井屋敷」の跡地があったとされる[2]寛永3年閏4月16日1626年6月10日)には配所で没した。弟・難波宗勝も同事件に関わっており、伊豆に配流となった。なお、慶長17年(1613年)に宗勝は赦され、飛鳥井家を相続し、雅胤と名乗った。

脚注 編集

  1. ^ 島根県隠岐郡海士町
  2. ^ 田邑二枝『隠岐の飛鳥井少将』(海士町、1974年)

出典 編集

  • 日本人名事典(講談社)
  • 日本人名大事典(平凡社)