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飯詰村(いいづめむら)は、秋田県仙北郡にかつて置かれていた村。仙北郡のほぼ南端に位置する。

いいづめむら
飯詰村
廃止日 1956年9月30日
廃止理由 新設合併
飯詰村金沢西根村仙南村
現在の自治体 美郷町
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 東北地方
都道府県 秋田県
仙北郡
面積 13.33km2.
総人口 4,234
(住民登録、1952年7月1日)
隣接自治体 大曲市藤木村)、六郷町金沢町金沢西根村
飯詰村役場
所在地 019-12
秋田県仙北郡飯詰村佐野字土場
Akita Semboku-gun 1889.png
町村制施行当時の仙北郡
37.飯詰村
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地理編集

横手盆地のほぼ中央部に位置し、丸子川出川の複合扇状地上に所在する。金沢町との境界をなす南側・東側に飯詰山、鞍掛山、山本山、西法寺山などの残丘があるものの平坦地は地味肥沃で県下有数の穀倉地帯の一画を占める[1]。天神堂・飯詰などに湧水がみられる。

西辺部を奥羽本線が走り、北端部に飯詰駅、南端部に後三年駅がある[1]。南部の山本地区には大正年代に村長の江畑新之助によって長岡安平設計の山本公園がひらかれ、西法寺山斜面は後三年スキー場果樹園として利用されている。

歴史編集

 
『後三年合戦絵詞』より雁行の乱れ

後三年の役の古戦場跡地として知られ、「飯詰」の名も、この戦で攻城側の源義家1041年-1108年)が兵糧を蓄えたことに由来するという説がある[1]。ただし、扇状地扇端部の湧水帯にあたるので「イズミ」の転訛とする見解もある。

古代の遺跡としては県指定史跡飯詰竪穴群が山本の地にあるが、詳細な性格は不明な点が多い。上深井地区には、古代竪穴住居跡、墨書土器、人形が出土した矢矧殿遺跡がある。中世の遺跡としては小残丘を利用した飯詰城があり、室町時代には小豪族久米氏(飯詰氏)の居館があった。天神堂の菅原神社、佐野の日吉神社などに南北朝時代板碑がある。

史料には『秋田藩家蔵文書』の正平五年条に秋田城介源泰長が「正平5年(1350年8月出羽国平鹿郡明永熊野神社秋田県横手市)に平鹿郡吉田(横手市吉田)・八幡(横手市朝倉)、仙北郡飯詰の3か郷を寄進し、雄勝郡・平鹿郡・仙北郡の3郡を同社の午王獅子舞の掠領とする」との記録があり、「飯詰」の名がみえる[2][注釈 1]

近世には久保田藩領となった。沖積地の開発は藩政期にさかんで飯詰堰、大沼(金沢では「西沼」と称する)が灌漑用につくられ、出川やその支流厨川が灌漑用水として活用された[1][3]

沿革編集

旧高・旧領編集

明治初年の石高は以下の通り[4]

旧高 旧領 旧県
上深井村 429.608002石 秋田藩(久保田藩) 秋田県
逆高野村 297.632996石 秋田藩(久保田藩) 秋田県
岩野町村 534.447021石 秋田藩(久保田藩) 秋田県
天神堂村 545.052979石 秋田藩(久保田藩) 秋田県
佐野村 461.083008石 秋田藩(久保田藩) 秋田県
境田村 523.905029石 秋田藩(久保田藩) 秋田県
飯詰村 1420.808960石 秋田藩(久保田藩) 秋田県
合計 3667.485016石

出身有名人物編集

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 「掠領」が実際にどれほどの効果をもたらしたものかは不明であるが、塩谷によれば、この記述をみる限り、泰長は単に横手盆地の平鹿郡東部および仙北郡南部の領主ではなく、小野寺氏(雄勝郡)、里見氏(平鹿郡西部)、和田氏(仙北郡西部)、和賀氏(仙北郡東部)など当時の在地領主より上位に立って、何らかの権限を単位におよぼしていたものと推定される、としている。塩谷(1984)

出典編集

参考文献編集

  • 『角川日本地名大辞典 5 秋田県』「角川日本地名大辞典」編纂委員会(編集)、角川書店、1980年3月。ISBN 4040010507
  • 近江正義「飯詰」『秋田大百科事典』秋田魁新報社、1981年9月。ISBN 4-87020-007-4
  • 塩谷順耳「北羽戦国大名の趨勢」『東北大名の研究』小林清治(編)、吉川弘文館、1984年4月。ISBN 4-642-02582-0

関連項目編集

外部リンク編集