香川 真一(かがわ しんいち、天保6年4月6日1835年5月3日) - 1920年大正9年)3月8日)は、日本の官僚実業家。元備前岡山藩士。岩倉具視に随行して、欧米を視察。大分県令(現在の知事に相当)。大分県令を退いてのち、実業界に転じ、岡山殖産協会会頭や岡山商業会議所会頭などを歴任。岡山地方の産業の発展に尽力。本姓は岡。通称は英太郎。別名は忠武。

香川真一
かがわ しんいち
生年月日 (1835-05-03) 1835年5月3日
出生地 日本の旗 備前国岡山
没年月日 (1920-03-08) 1920年3月8日(84歳没)

在任期間 1876年9月4日 - 1879年10月

在任期間 1903年9月 - 1917年3月

その他の職歴
岡山県会議員
1887年 - 不明)
テンプレートを表示

略歴 編集

1835年、現・岡山市北区船頭町に、岡山藩士の家に生まれ、西洋式砲術を学んだ。明治2年(1869年)、権大参事。明治4年(1871年)、岩倉使節団に先立つ半年前に第1回欧米視察団に選ばれ、津田弘道らとともに欧米を視察した。翌年に帰国した後は、伊万里県参事、ついで静岡県参事に任じられた。

明治9年(1876年9月4日に大分県権令に就任。明治11年(1878年7月25日に県令となる[1]。在任中は、明治11年(1878年)3月に大分県民会仮規則を布告し、同年7月10日に大分県民会が開設された。これは大分県における議会の嚆矢とされる[2]

翌明治12年(1879年)10月に県令を退任すると、郷土の岡山県に戻って実業界に転じ、第二十二国立銀行、岡山紡績、岡山製紙の取締役や、岡山殖産協会会頭、岡山商業会議所会頭などを歴任した。また、明治20年(1887年)に岡山県会議員に当選し、明治24年(1891年)には議長となった。明治36年(1903年)から大正6年(1917年)まで牛窓町長を務めた[3]

栄典 編集

脚注 編集

  1. ^ 県の長官のうち、五等官は権令、四等官は県令に任じられた。
  2. ^ 大分県議会の沿革 大分県
  3. ^ 岡山商工会議所歴代会頭
  4. ^ 埼玉県令白根多助叙勲」 アジア歴史資料センター Ref.A15110025600 

参考文献 編集

関連項目 編集