宣阿
(香川景継から転送)
宣阿(せんあ)は、江戸時代中期の武士、歌人。諱は景継(かげつぐ)[1]。
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 正保4年(1647年) |
死没 | 享保20年9月22日(1735年11月6日) |
改名 | 景継→宣阿 |
別名 | 三十郎、吉助、木工允、隣善、一枝軒、淵龍、梅月堂 |
墓所 | 京都市左京区東大路通二条下ル北門前町 聞名寺 |
主君 | 吉川広嘉→広紀→徳大寺家 |
藩 | 周防国岩国領 |
氏族 | 香川氏 |
父母 | 父:香川正矩 |
兄弟 | 正経、景継 |
子 | 景新 |
略歴編集
吉川家家老の香川正矩の次男として生まれ、延宝元年(1673年)に上洛した。初め儒学者として活動したが、貞享4年(1687年)に出家したのを契機として歌人に転じ、二条派の清水谷実業(三条西家一門)や冷泉家に師事[1]。歌道の二条派地下(じげ)宗匠として梅月堂を創始した。和歌は、時衆の文学史とも深く関わった。歌集に『水雲集』がある。一条烏丸の西入町に本拠を構えた[2]。
宣阿と陰徳太平記編集
宣阿は『陰徳太平記』の著者として有名であるが、その原典である『陰徳記』は宣阿の父、香川正矩が執筆していたものである。万治3年(1660年)に父の正矩が執筆半ばにして逝去。父の遺志を継いだ景継は京都に遊学、執筆を続ける。寛文5年(1665年)兄・香川正経は、岩国出身の儒学者宇都宮三近に依頼し、『陰徳記序』を執筆させている。元禄8年(1695年)景継は『陰徳記自序』を書いており、この頃に『陰徳太平記』は完成していたと考えられている。
人物・評価編集
「一条の今西行」と評されていた[2]。
著作編集
- 『陰徳記自序』
- 『陰徳太平記』
- 『草庵和歌集蒙求諺解』
- 『水雲集』
脚注編集
参考資料編集
- 『正徳二年板本 陰徳太平記』 笹川祥生・松田修著
- 『歌人梅月堂宣阿』 渡辺隆一著
- 上智大学国文学論集26号『初代梅月堂香川宣阿のこと』 神作研一著
- 兼清正徳『香川景樹』(吉川弘文館人物叢書) ISBN 4-642-05131-7