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馬場 文耕(ばば ぶんこう、享保3年(1718年) - 宝暦8年12月29日1759年1月27日))は、江戸時代中期の講釈師。本姓を中井、通称を左馬次・文右衛門と称したとされる。没日を25日とする異説もある。

世話物講談の分野を開き、「近世講談の祖」とも評価されるが、その作品を理由として処刑された近世日本の言論弾圧の犠牲者としても知られている。

経歴編集

文耕の経歴については、関根只誠の『只誠埃録』に記載されているが、文耕の著作に記された経歴と矛盾する話も伝えられており、詳細は不明である。

伊予国出身で、徳川吉宗の時代に江戸幕府御家人だった時期もあるが、職を失って浪人となり、一時は出家したり、還俗して易占いで生計を立てたり、白兎園宗瑞俳諧を学んだりしていたとされている。後に書本作家・講釈師として「世話物」で高い評価を得、更に講釈師として武家の下に出入りしているうちに幕閣や大奥、大名を批判する「政事物」と呼ばれる作品も著すようになった。

作品はその内容から無署名・別号のものや写本のみで伝えられるものも多く、文耕の著作を確定することは難しいが、代表的なものとしては『当世武野俗談』『近代公実厳秘録』『近世江都著聞集』『名君享保録』などが知られている。

宝暦8年9月16日1758年10月17日)、榑正町(現在の東京都中央区日本橋3丁目)の文蔵宅で、当時評定所にて審理中であった金森騒動についての講談を行った上にそれを文章化した『平良仮名森の雫』を頒布していたところを捕らえられ、12月29日(一説には25日)に“異説を申し触らして講釈し、書本を貸したこと”を理由に「江戸市中引き回しの上、打ち首獄門」の判決が言い渡され、その日のうちに小塚原刑場にて処刑された。

文耕の処刑の理由について、金森騒動について評定所の判決が出される前に講談の場において私の裁決を行ったことや江戸幕府や諸藩などに関する機密情報を書本や講談の形で公開したことが江戸幕府の怒りを買ったとも言われている。それを裏付けるかのように、後に江戸幕府が編纂した『徳川実紀』には文耕の『名君享保録』からの引用記事が存在している。

参考文献編集

  • 延広真治「馬場文耕」(『日本史大事典 5』(平凡社、1993年) ISBN 978-4-582-13105-5
  • 山田忠雄「馬場文耕」(『国史大辞典 15』(吉川弘文館、1996年) ISBN 978-4-642-00515-9
  • 延広真治「馬場文耕」(『日本歴史大事典 2』(小学館、2000年) ISBN 978-4-09-523002-3