馬込町 (東京府)
馬込町(まごめまち)は、東京府荏原郡にかつて存在した町である。東京都大田区の北部に位置する。
まごめまち 馬込町 | |
---|---|
廃止日 | 1932年10月1日 |
廃止理由 |
編入合併 大森町、入新井町、池上町、馬込町、東調布町 → 東京市 |
現在の自治体 | 大田区 |
廃止時点のデータ | |
国 |
![]() |
地方 | 関東地方 |
都道府県 | 東京府 |
郡 | 荏原郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
面積 | 4.13 km2 |
総人口 |
23,025人 (国勢調査、1930年10月1日) |
隣接自治体 | 池上町、入新井町、大井町、荏原町、碑衾町 |
馬込町役場 | |
所在地 | 東京府荏原郡馬込町字松原458番地 |
座標 | 北緯35度35分38秒 東経139度42分35秒 / 北緯35.59389度 東経139.70961度座標: 北緯35度35分38秒 東経139度42分35秒 / 北緯35.59389度 東経139.70961度 |
ウィキプロジェクト |
沿革
編集地域
編集各項目内の箇条書きは、小字の一覧である。ふりがなは『馬込村誌』による。
東京市編入時に大森区馬込町東になった地域
編集東部逓信局編『東京府荏原郡馬込村』(1917)[7]によると、大字馬込となっている。一方、東京市役所編『大東京新区町名地番表』(1932)[8]によると、大字が設定されていない。
現在の町名:東馬込1・2丁目、南馬込1 - 6丁目、北馬込2丁目、中馬込2・3丁目、中央5丁目[9]
東京市編入時に大森区馬込町西になった地域
編集『東京府荏原郡馬込村』によると、平塚のみ大字池上、その他が大字馬込となっている。一方、『大東京新区町名地番表』によると、大字が設定されていない。
現在の町名:西馬込1・2丁目、南馬込4 - 6丁目、北馬込1・2丁目、中馬込1 - 3丁目、上池台4丁目[10]
- 上䑓
- 根古屋
- 中田
将監谷 ()道々女木 ()- 埋田
- 塚越
- 中丸
大谷 ()- 大久保
二本木 ()- 宮下 - 長遠寺付近。
- 和田
入原 ()- 貝塚
- 寺郷
- 浅間丸
- 山野
- 平塚
東京市編入時に大森区北千束町・南千束町になった地域
編集『東京府荏原郡馬込村』によると、大字馬込となっている。一方、『大東京新区町名地番表』によると、大字北千束と大字南千束に分かれており、小字は設定されていない。
行政
編集村長
編集町長
編集- 野村嘉七 - 1928年1月1日就任[13]
人口
編集江戸時代 - 明治初期
編集宗門人別帳に基づく人口推移は以下の通りであった。なお、町村制施行時に池上村から馬込村に編入した地区は含まない。1834年から1840年の人口減少について、『大田区史 中巻』459頁では、1836年の大凶作飢饉の影響だと推測している。
年 | 人口 | 戸数 |
---|---|---|
1834年(天保 5年) | 461人 | 91戸 |
1840年(天保11年) | 439人 | 86戸 |
1845年(弘化 2年) | 455人 | 84戸 |
1850年(嘉永 3年) | 458人 | 85戸 |
1856年(安政 3年) | 470人 | 88戸 |
1861年(文久 2年) | 487人 | 88戸 |
1865年(慶応元年) | 498人 | 90戸 |
1870年(明治 | 3年)564人 | 94戸 |
明治 - 昭和
編集関東大震災で被害が大きかった地域からの移住や、鉄道の発達により、人口が急増した[15][16]。
年 | 人口 | 戸数 | 出典 |
---|---|---|---|
1900年(明治33年) | 2,208人 | [17] | |
1905年(明治38年) | 2,470人 | ||
1910年(明治43年) | 2,365人 | ||
1915年(大正 | 4年)2,485人 | ||
1920年(大正 | 9年)2,725人 | [18]458戸 | 国勢調査[19] |
1925年(大正14年) | 10,489人 | 2,368戸 | |
1930年(昭和 | 5年)23,025人 | 4,985戸 |
産業
編集馬込村であった当時は農業が盛んであった。とくにキュウリ生産が盛んで[20]、明治時代には馬込半白胡瓜という品種が作出され[21]地域の特産品になっていた。
施設
編集学校
編集交通
編集鉄道
編集そのほか、字平張・小宿などでは入新井町の鉄道省京浜線(現:JR京浜東北線)大森駅が最寄駅となる。
現在は都営地下鉄浅草線の馬込駅、西馬込駅が存在するが、馬込町が存在した当時は開業していなかった。
バス
編集- 五反田乗合自動車
- 城南乗合自動車(現:東急バス)
道路
編集脚注
編集- ^ 『大田区史 下巻』127,129-130頁。
- ^ “「村境界変更」『官報』1923年04月24日”. 国立国会図書館デジタルコレクション. 2025年2月18日閲覧。
- ^ 『荏原郡馬込町現状調査』5頁。
- ^ 『荏原区史』荏原区役所、1943年7月5日、365-367頁 。
- ^ “「町村廃止市区域変更」「市ノ区設置」『官報』1932年05月28日”. 国立国会図書館デジタルコレクション. 2025年2月18日閲覧。
- ^ 東京都大田区役所 編『大田区史』1951年3月31日、191頁。NDLJP:3021827。
- ^ 『地図でみる大田区(1)』86頁。
- ^ 『地図でみる大田区(1)』92頁。
- ^ 『地図でみる大田区(1)』140-141頁。
- ^ a b 『地図でみる大田区(1)』141頁。
- ^ 『大田区史 下巻』132頁。
- ^ a b 日本自治協会 編『市町村治績録』1929年6月25日、11頁。NDLJP:1268923。
- ^ 『荏原郡馬込町現状調査』17頁。
- ^ 『大田区史 中巻』458頁。
- ^ 『荏原郡馬込町現状調査』7頁。
- ^ 『品川区史 通史編 下巻』東京都品川区、1974年8月25日、449頁。NDLJP:9641094。
- ^ 『東京府史 行政篇 第一巻』東京府、1935年1月27日、102-103頁 。
- ^ “世帯数及人員-市町村 01北海道〜19山梨県” (PDF). e-Stat. 大正9年国勢調査. p. 186. 2025年6月6日閲覧。
- ^ 『荏原郡馬込町現状調査』6頁。
- ^ 『荏原郡馬込町現状調査』23頁。
- ^ “馬込半白キュウリ(馬込半白節成キュウリ)|江戸東京野菜について”. JA東京中央会. 2025年2月17日閲覧。
- ^ a b 『荏原郡馬込町現状調査』14頁。
- ^ “沿革”. 馬込小学校. 大田区教育委員会 (2023年5月15日). 2025年6月30日閲覧。
- ^ “沿革”. 赤松小学校. 大田区教育委員会 (2018年9月21日). 2025年6月30日閲覧。
- ^ 『荏原郡馬込町現状調査』16頁。
- ^ “沿革”. 馬込第二小学校. 大田区教育委員会 (2025年3月7日). 2025年6月30日閲覧。
- ^ 東京市役所『東京市郊外に於ける交通機関の発達と人口の増加』1928年3月10日、166頁。NDLJP:1212764。
- ^ 『大田区史 下巻』416頁。
- ^ 社会教育研究所 編『大東京年誌』1932年、1133頁。NDLJP:1688548。
- ^ “「品川道 - 古を伝える道」『広報しながわ』1997号” (PDF). 品川区. p. 1 (2016年). 2025年2月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年6月14日閲覧。
- ^ 大田区史編さん委員会 編『大田区史(資料編)諸家文書5』東京都大田区、1995年1月31日、87頁。NDLJP:9644774。
- ^ 『自治団体之沿革』東京府勢一班115頁。
参考文献
編集- 篠田皇民『自治団体之沿革』東京都民新聞社、1930年8月31日。NDLJP:1268915。
- 『荏原郡馬込町現状調査』東京市臨時市域擴張部、1931年11月。NDLJP:1900807。
- 鉄道省 編『鉄道停車場一覧』川口印刷所出版部、1935年3月27日。NDLJP:1212697。
- 『馬込村誌』1955年。
- 大田区教育委員会社会教育部社会教育課 編『地図でみる大田区(1)』1988年3月31日。NDLJP:9644260。
- 大田区史編さん委員会 編『大田区史 中巻』東京都大田区、1992年3月31日。NDLJP:9644626。
- 大田区史編さん委員会 編『大田区史 下巻』東京都大田区、1996年3月15日。NDLJP:9644818。