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騎馬隊

騎馬隊(きばたい、cavalry)とは、に乗って行動する隊(一団)のこと[1]。特に騎兵隊のこと[1]

目次

概説編集

騎馬隊とは、に乗って行動する(一団)のことである[1]

戦争では、刀剣などで武装した者を隊にしたもの。騎馬隊は、歩兵と比較して高い機動力・衝力を誇る。

中世では、身分の高い者たち(騎士武士など)しかなれなかった。近代になると、身分にかかわりなく、戦争で有利に戦うためにさまざまな騎馬隊が編成された。戦争の歴史を辿ると様々な優れた騎馬隊があり、挙げるときりがないほどであるが、たとえば、ナポレオン槍騎兵 Lancers、ロシアのコサックの騎馬隊(騎兵隊)等は非常に高い戦力を誇り、敵から恐れられた。

日本では、明治20年に秋山好古がフランスに渡り騎兵戦術を学び、日本のために近代的な騎馬隊を編成、日露戦争での日本の勝利に貢献することになった。

現代ではヨーロッパ米国などでは警察の騎馬隊(騎馬警官の隊)が群衆の統制などで活躍している。また、現代では、式典に華を添えたり、儀礼的な役割を果たしていることなども多い。

騎兵隊編集

日本の騎馬隊編集

歴史編集

日本の騎馬隊は古代日本の軍制が律令制に基づく軍団から国衙軍制へ転換して以降、軍事力の中心となった騎馬武者とその供(時代により従卒、武家奉公人と言われる)を基本単位として構成された部隊を指しており、足軽が戦闘要員として台頭するまでは基本的に公儀の戦闘は武士団=騎馬隊のみが行うものと認識されていた。

戦国時代以降、足軽が新たな戦闘力として認識されると、戦国大名の軍制はを基本としたものへ変貌し、その中で騎馬隊は備の一隊として足軽隊の形成した前線の突破、又はそれらに対する逆襲が主な任務とされた。一備に配備される騎馬隊は20~50騎で編成されており、騎馬隊士の知行は200から300石程度である。彼ら侍の軍役は自弁が原則である為、引き連れてゆく供(武家奉公人)は自身の援護に付く若党(1騎に対し1~2人)を除けば、槍持や小荷駄といった後方要員がその殆どを占めていた。

また、騎馬隊といえば、戦国期甲斐国武田信玄の騎馬隊が有名であるが、これは古来から甲斐や信濃国御牧が設置され騎馬の扱いに長けた者や馬の産地が多く甲斐の黒駒伝承に象徴されるイメージ的な要素や、かの地の馬が山岳機動に優れた能力を示したといった様々な説が唱えられている。

戦術編集

騎馬武者の戦闘法は平安時代においては騎射が主流であったが、治承・寿永の乱の頃より馬ごと相手にぶつかり、馬上で組み打ちを行い、落馬させてを取るという新たな戦闘スタイルが登場する。

鎌倉時代まではそれでも流鏑馬に代表される様に騎射が主流であったが、鎌倉時代後期から室町時代になると悪党・野伏などの出現によりこの傾向は更に加速され、騎馬武者の戦闘は斬撃武器である長巻薙刀を用いる様になる。甲冑大鎧から腹巻へと変わり、の深さも浅いものへとなった。戦国時代に突入すると、騎馬武者の使用武器は同時期に発案されたが主流となり、軍役にも装備するべき武器として記載される様になる。もっとも、先述した様に侍は自弁である為、軍装に関してはかなりの自由裁量が認められており、鉄砲又は槍の替わりに薙刀を武家奉公人に持たす事で様々な武器を扱った。

戦国時代の騎馬武者も当初は騎乗突撃をもって敵陣に突入していた様である。しかし足軽の増大と彼らが繰り出す対騎馬隊戦法(騎馬武者に対する長槍による槍衾、鉄砲隊による射撃は双方とも馬を狙う事が肝要とされている)により、先ず西国から、後には全国的に馬から降りて徒歩で突撃する様になった。しかしそれ以前、平安時代より騎馬武者は必要があれば下馬戦闘も行ってきたし、下馬戦闘が主流になった後も機会があれば騎乗突撃を行っているなど、相手の戦法によって柔軟に運用している。

脚注編集

  1. ^ a b c 大辞泉「騎馬隊」


関連項目編集

参考文献編集

  • 近藤好和 『騎兵と歩兵の中世史』 吉川弘文館、2005年
  • 藤本正行 『鎧をまとう人びと』 吉川弘文館、2000年