高句麗
楽浪郡 紀元前37年 - 668年 新羅
安東都護府
高句麗の国旗
(軍旗)
高句麗の位置
版図が最大に達した476年頃の高句麗と周辺諸国
公用語 高句麗語
首都 卒本城
丸都城(-427年)
平壌城(427年-668年)
高句麗侯、王
前37年 - 前19年 東明聖王
391年 - 413年 好太王
642年 - 668年 宝蔵王
変遷
成立 紀元前37年
滅亡 668年
現在 中華人民共和国の旗 中国
朝鮮民主主義人民共和国の旗 北朝鮮
大韓民国の旗 韓国
ロシアの旗 ロシア
高句麗
各種表記
ハングル 고구려
漢字 高句麗
発音 コグリョ
日本語読み: こうくり
ローマ字 Goguryeo/Koguryŏ
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高句麗(こうくり、朝鮮語: 고구려紀元前37 - 668年)または高麗(こうらい、こま、朝鮮語: 고려)は、現在の中国東北部の南部から朝鮮半島北中部に存在した国家。しばしばツングース系民族によって建てられたとされるが[1]、その詳細は不明である。最盛期は満洲南部から朝鮮半島の大部分を領土とした。三国時代新羅百済と共に朝鮮半島を割拠し、等の中国王朝や倭国と勢力を争った。

三国史記』や『三国遺事』によれば朱蒙(東明聖王)が紀元前37年に高句麗を建てた。考古学者は高句麗は紀元前2世紀古朝鮮の滅亡時期の周辺に既に存在したとする。668年に新羅と唐の連合軍に滅ぼされるまで、高句麗は東アジアにおいて強い影響力を持つ国であった。

目次

名称編集

高句麗は別名を(はく)と言う。日本では「高麗」と書いても「貊(狛)」と書いてもこまと読む。現在では高麗との区別による理由から「こうくり」と読む慣習が一般化しているが、本来、百済・新羅の「くだら」・「しらぎ」に対応する日本語での古名は「こま」である。

高句麗の名前の由来について確実なことはわかっていない。高句麗(句驪)という固有名詞が登場する最も古い記録は『漢書』「地理誌」に見える「玄菟・楽浪郡は武帝の時においた(前107年)。みな朝鮮・濊貊・句驪の蛮夷の地である」とあるもので、玄菟郡の首県として高句驪、上殷台、西蓋馬が言及されている[2]。驪は麗と同音であり、漢人の蔑視による表現であって意味上の差異はない[3]。高句麗の名称の由来については諸説あり、かつて白鳥庫吉はこれを「高」と「句麗」に分解し、句麗はコル(城)、高はコ(大きい)であるから、原義は「大城」であるとした[3]李丙燾はコルを白鳥と同じく理解するが、高はスリ(神聖な/首位の)であり、「首邑」「上邑」の意味であるとした[3]

高句麗は文献記録上は貊族として現れる。そして8世紀に突厥で造られたオルホン碑文にはボクリ(bökli)という東方の国が登場する。岩佐精一郎はこのボクリが高句麗を指すものであると見、「貊句麗」の音を表したものであろうとした[4]。それに対して護雅夫はこれはbök eliと読むべきで、高句麗を指すものには違いないが、意味は「貊の国」であるとする[4]。だが、貊という種族は古く代から中国の史料に登場し、時代や筆者によって異なる実体を指し示したと考えられる語であるため、高句麗を指す「貊」を漢代より前に登場する「貊」と単純に繋がりのあるものとすることはできない[4]

なお、高句麗は『南斉書』「高麗伝」に「高麗」という国名で表記されており、隋唐代の史書でも高麗と表記する。冊封の際の正式名が「高句麗王」から「高麗王」となったのは520年のの冊封が最初であり、高句麗が意識的に高麗へと改名したとする説もある[3]。だが改名したとする決め手もなく、単に省略形が定着しただけである可能性もある[3]矢木毅は、冊封体制における慣例として国号の字数を二字に揃えた物であるとしている[5]

歴史編集

漢の支配編集

紀元前1世紀中頃から漢の玄菟郡・高句麗県に付属していた支配地域は出費が嵩むため放棄され始め、替わって濊貊系に属する濊族の夫余や貊族の高句麗などを冊封する間接支配へ切り替えられた。高句麗を形成した濊貊系民族とは、中朝国境をはさむ山岳地帯で農耕を主とし、その他に狩猟牧畜を生業としていた民族とみられる[6]

建国神話編集

『魏書』と『三国史記』によれば、高句麗は紀元前37年に夫余の王族である朱蒙により建てられたという。朱蒙の母である中国河伯黄河の神)の娘の柳花夫人は、太白山の麓の優渤水で扶余王の金蛙と出会ったが、柳花夫人は「遊びに出た先で、天帝の子を自称する解慕漱に誘われ付いて行くと帰して貰えず、両親一族の怒りを買ってしまい仕方なく此処に住んでいます」と話したが、信用されず東扶余王の元に連れて行かれ軟禁された。やがて柳花夫人は日光を浴びて身篭り、卵を産んだ。金蛙は卵を動物に食べさせたり踏ませたりしようとしたが動物や鳥は卵を守ったため卵を母親へ返し、暖めていると朱蒙が産まれた。朱蒙は子供の頃から非常に弓が上手く(朱蒙は弓の名手の意味)、これを危険視した夫余の人々は朱蒙を殺すよう勧めるが王は拒んだ。その後、馬飼いをしていたが策略によって王を駄馬に乗せ自らは駿馬を手に入れると、夫余の人々は再び朱蒙の殺害を企てるが、危険を察知した柳花夫人の助言により友と共に脱出して卒本へ至って建国したという。

卒本城時代編集

卒本は現在の遼寧省本渓市桓仁満族自治県吉林省との省境近くの鴨緑江の少し北)で、都城の卒本城は五女山山城に比定されている。後漢書高句麗伝によると32年に高句麗は後漢光武帝に朝貢した際に、光武帝より高句麗王に冊封された。

3年には、第2代の瑠璃明王が隣国に在った夫余の兵を避けるため鴨緑江岸の丸都城(丸都山城、尉那巌城。現在の中国吉林省集安市近郊。かつての玄菟郡配下の高句麗県)の山城へ遷都したと伝えられる。[要出典]

丸都城時代編集

 
高句麗が初期に国都を置いた丸都城の宮殿遺跡

その後、山を下りて平地の国内城に王宮を構えたが、山城の丸都城と平城の国内城とは一体のものであり、こうした山城と平城(居城)との組み合わせは、朝鮮半島の城でよく見られる。国内城は最近の考古学的研究により、3世紀初めの築造と見られている。[要出典]高句麗は次第に四方に勢力を伸ばし特に東南方面へ拡張したが、第8代の伯固(新大王)の時代には遼東へも数度寇掠を働いている。しかし、それにより遼東で割拠していた公孫氏の不興を買い侵攻を招くことになる。

197年に第9代の故国川王が死んだ後、王位継承をめぐって発岐と延優(後の10代山上王)との間に争いが起こり、卒本に拠った発岐は公孫度を頼って延優と対立したが、丸都城に拠った延優が王となって発岐の勢力を併呑した。219年、高句麗の政情不安に付け込んだ遼東太守の公孫康が高句麗へ侵攻し、高句麗は敗退して村々が焼かれたほか、伯固の長子発岐、消奴部ほか各将が下戸3万余人を引き連れ公孫氏へ降った。

高句麗は以前からに朝貢を行って臣属しており、司馬懿による公孫氏の平定にも兵数千人を遣わしていたが、魏が公孫氏を平定して国境を接すると、242年に西安平で寇掠を働き魏の将軍毌丘倹による侵攻を招いた。244年に1回目の侵攻が行われ、東川王(憂位居)は2万の兵を率いて迎え撃ったが連戦連敗し、丸都城を落とされ千人が斬首された。毌丘倹は将兵の墳墓破壊を禁じ捕虜と首都を返還したが高句麗は服属せず、翌245年に再び魏軍の侵攻を招いた。魏軍は南北の2方向から侵攻して高句麗を大いに打ち破り全土の村々を落とすと、東川王は南沃沮へ逃げたが更に追撃を受け北方にある粛慎との境いまで逃れた。この戦いにより3千人が捕えられて斬首され、従属させていた東濊も高句麗を離れ魏に服属した。東川王が魏軍が引き上げた後に築城された都を平壌城というが、丸都城の別名または集安市付近の域名であり、後の平壌城とは別のものである[7]

その後も遼東半島への進出を目指し、西晋八王の乱・五胡の進入などの混乱に乗じて312年に楽浪郡を占拠し、この地にいた漢人を登用することで技術的、制度的な発展も遂げた。しかし、遼西前燕を建国した鮮卑慕容部慕容皝に都を落され、臣従した。355年には前燕から〈征東将軍・営州刺史・楽浪公・高句麗王〉に冊封されている。前燕が前秦に滅ぼされると引き続いて前秦に臣従し、372年には僧侶仏典仏像などが伝わった。この間、371年には百済の攻撃に王が戦死する危機に直面する。

391年に即位した19代好太王後燕と戦って遼東に勢力を伸ばし、南に百済を討って一時は首都漢城(現ソウル特別市)のすぐ傍まで迫り、百済王を臣従させた。

4世紀末になると倭が朝鮮半島へ進出を始め、391年に倭が百済□□新羅を破り臣民とした。393年に倭が新羅の都を包囲したのをはじめ、たびたび倭が新羅に攻め込む様子が記録されている。百済はいったん高句麗に従属したが、397年阿莘王の王子腆支を人質として倭に送って国交を結び、399年に倭に服属した。倭の攻撃を受けた新羅は高句麗に救援を求めると、好太王は新羅救援軍の派遣を決定、400年に高句麗軍が新羅へ軍を進めると新羅の都にいた倭軍は任那加羅へ退き、高句麗軍はこれを追撃した。これにより新羅は朝貢国となった。402年、新羅もまた倭に奈勿王の子未斯欣を人質に送って属国となった。404年、高句麗領帯方界まで攻め込んだ倭軍を高句麗軍が撃退した。405年、倭の人質となっていた百済王子の腆支が、倭の護衛により帰国し百済王に即位した。

5世紀長寿王の時代には朝鮮半島の大部分から遼河以東まで勢力圏を拡大し、当初高句麗系の高雲を天王に戴く北燕と親善関係を結んだ。この時代には領域を南方にも拡げ、平壌城に遷都した。

平壌城時代編集

遷都直後は大城山城を拠点としたが、後に平壌城に居城を構えた。長寿王は西へ進出して遼河以東を勢力下に収め、475年には百済の首都を陥落させて百済王を殺害、百済は南に遷都した。この時期は満洲南部、遼東半島朝鮮半島の大部分を支配するに至った。

しかし5世紀末になると百済と新羅が強くなり、百済と新羅の連合により南部の領土を奪われている。危機感を覚えた高句麗は百済に接近し、中国には南北朝の両方に朝貢を行って友好を保ち、新羅との対立を深めていく。高句麗が最も危惧していたのは北朝の勢力であり、その牽制のために南朝や突厥などとも手を結ぶ戦略を採った。

中国で北朝系のを滅ぼして全土を平定すると、高句麗は隋に対抗するため突厥と結ぶ。このため隋から4次にわたる侵攻を受けたが、乙支文徳の活躍もあってこれらすべて撃退した。

隋が滅びてが興ると、今度は唐が高句麗遠征を行った。これに備えて淵蓋蘇文はクーデターを起こして宝蔵王を擁立し、軍事政権によって唐の進出に対抗した。高句麗は緒戦で善戦し、唐の太宗が親征した第1次侵攻を撃退、百済と結んで新羅を攻めた。新羅の宗主国である唐はこれを受けて新羅を全面支援した結果、660年には百済が滅亡、663年の白村江の戦いで百済の残存勢力も一掃されたため、高句麗は孤立した。さらに高宗の時代になって唐が戦略を持久戦に転換した結果、高句麗の国力消耗は著しくなり、その上に淵蓋蘇文の死後子の間で内紛が生じると、これを機に唐・新羅連合軍は第3次侵攻を起こして王都平壌を攻め、668年に宝蔵王は投降。ここに高句麗は滅亡した。

滅亡後編集

北部の高句麗遺民は唐によって営州(現在の遼寧省朝陽市)へ強制移住させられた。剣牟岑[8]など高句麗の末裔による数度にわたる再興は全て失敗したが、一部の遺民は、粟末靺鞨の建国した渤海国に参加している。旧領に残った者は、後に勃興した女真に取り込まれていき、歴史から姿を消した。

一部の遺民は宝蔵王の庶子(あるいは淵蓋蘇文の甥ともいう)の安勝を担いで新羅に入り、新羅から高句麗王(後に報徳王)として冊封され、新羅内で684年まで命脈を保った。

また、遺民の一部にはへ逃れた者もいる。例えば『続日本紀』によれば、武蔵国高麗郡(現在の埼玉県日高市飯能市)は高句麗の遺民たちを移して設置したとされており、高麗神社高麗川・日高市高麗本郷などの名にその名残を留めている。

朝鮮半島では10世紀初め、新羅の王族の弓裔が高句麗の後継を目指して後高句麗を名乗って挙兵し、新羅北部の大半を占領して独立した。その後、王建が後高句麗(当時は泰封と号していた)を乗っ取り、同じく高句麗の再興を意識した高麗が生まれる。「高麗」は高句麗の時代に実際に用いられていた国号という。

日野開三郎は、弓裔の立てた後高句麗国とは別に、唐が現在の遼東半島一帯に旧高句麗王族を擁立して成立させた傀儡政権としての後高句麗国が存在しており、契丹の遼東占領時に滅亡したとする説を唱えている。

言語編集

現在の朝鮮半島から中国東北地方(満州)にかけての古代の言語史料は乏しい。高句麗語も例に漏れず、文法構造や形態を明らかにする情報は残されていない。高句麗語についての情報は、主として『三国史記』「地理誌」から得られる地名の分析による物であり、これによって若干の単語を復元できる[9]。他に、古代の中国の史書には、高句麗の言語と周辺諸族の言語の類似についての言及があるが、具体的な言語自体の情報は乏しい。

『三国史記』「地理誌」からの高句麗語の復元は、同一地名の音読名と訓読名が併記されているものから単語を再構成する手法で行われている[9]。例えば「買忽一云水城(買忽は水城ともいう)」、「水谷城県一云買旦忽(水谷城県は買旦忽ともいう)」という記述から、買=水、旦=谷、忽=城、という関係性を導き出すことが可能であり、買・旦・忽は音読表記、水・谷・城は訓読表記と考えられることから、高句麗語では「水」を意味する単語は「買」と発音したことが推定できる[9]。だが、当時の「買」の発音はどのようなものであったか、という点に更なる推論が必要であり、中国の中古音や朝鮮漢字音(東音)の分析から*maiもしくは*mieなどの復元形が考えられている[9]。「城」を意味する「忽」は、中国の史料に登場する溝漊(*kürü)、忽次(*xurc)、古次(*kuc)と同一の単語であると考えられる[9]。同様に「谷」を意味する「旦」は*tanと復元される[9]

このようにして復元される高句麗語の単語は80程であり、そのうちかなりの確実性を持つものは50例ほどと[10]、質量ともに極めて不十分であるが、高句麗語自体の分析にも周辺諸言語との関係性の分析にも欠かせないものである[9]。既に述べた史料の残存状況が、さらに踏み込んだ分析を不可能なものとしており、高句麗語の詳細については今なおほとんどわかっていない。

言語系統に関する所論編集

韓国語学者の李基文は、中国史料にある、高句麗、夫余(扶余)、東沃沮・濊の言語がほぼ同じであるという記述に依拠し、これらの言語が属する夫余系諸語(扶余語族)の存在を想定した[11]。一方で、『三国志』や『北史』が粛慎靺鞨(勿吉)の言語が高句麗語と異なるとする記録に依拠し、粛慎の言語がツングース系言語と想定されるならば、ツングース諸語と夫余諸語の違いが明記されていることとなり重大な意味を持つとする[11]。この想定に立つ場合、高句麗語は具体的な言語史料が残る唯一の夫余語族の言語ということになる[9]。ただし、高句麗語が使用されていた時代の粛慎語や靺鞨語には、漢字表記された人名以外に現存史料が存在せず、「従ってこれが今日どの言語に引き継がれているのか説明しようがない」(李基文)ものであり[11]、粛慎などをツングース系とするのもあくまで後世の言語分布状況から類推した仮定に過ぎない[11]。これとは別に高句麗語をツングース語の一派とする伝統的な見解がある[12]。朝鮮史学者田中俊明は、系譜的に繋がると見て問題はないとするが、残存する高句麗語の極めて少数の語彙から系統関係を考えるのは容易ではないとして、なお結論は留保している[12]

復元された高句麗語の単語には日本語朝鮮語、ツングース諸語など、東アジアの諸言語との関係性をうかがわせるものも多い。例えば上に挙げた水を意味する「買(*mai/*mie)」は、ツングース諸語であるエヴェンキ語(水)や、日本語midu(水)、中期朝鮮語のmir(水)、中世モンゴル語mören(江、海)などと比較される[11]

日本語の系統論との関係では、高句麗語の数詞である*mil(三)、*ütu(五)、*nanən(七)、*tək(十)や、動物名である*usaxam(ウサギ)、地形を表す*tan(谷)など、類似した語形のものが数多く見出されることが長く注目されており、これを論拠に高句麗語と日本語の近縁関係を想定する論考も古くから出されている[13]

中期朝鮮語とも多数の単語の類似が指摘されており、高句麗語で「横」を意味する*esと、中期朝鮮語の*as、「黒い」を意味する高句麗語の*kəmərと中期朝鮮語のkəm、「牛」を意味する高句麗語*šüと中期朝鮮語syoなどが比較される[9]

ツングース諸語との単語の一致はこれらに及ばないが、高句麗語の*nuami(池、海)と、ツングース諸語のnamu/lamu(海)や、数詞の七である高句麗語*nanənとツングース諸語のnadanのようなものは特記すべきであると李基文は指摘している[9]

文化編集

 
朝鮮の歴史
考古学 櫛目文土器時代 8000 BC-1500 BC
無文土器時代 1500 BC-300 AD
伝説 檀君朝鮮
史前 箕子朝鮮
辰国 衛氏朝鮮
原三国 辰韓 弁韓 漢四郡
馬韓 帯方郡 楽浪郡

三国 伽耶
42-
562
百済
前18-660
高句麗
前37-668
新羅
前57-
南北国 熊津安東都護府
統一新羅
鶏林州都督府
676-892
安東
都護府
668-756
渤海
698
-926
後三国 新羅
-935

百済

892
-936
後高句麗
901
-918
女真
統一
王朝
高麗 918-
遼陽行省
東寧双城耽羅
元朝
高麗 1356-1392
李氏朝鮮 1392-1897
大韓帝国 1897-1910
近代 日本統治 1910-1945
現代 連合軍軍政期 1945-1948
大韓民国
1948-
朝鮮民主主義
人民共和国

1948-
Portal:朝鮮
 
高句麗で使われた屋根瓦

高句麗の文化は石の文化だといわれる。[誰によって?]石で築かれた墓(積石塚)と石で築かれた山城が代表的である。高句麗山城は近年、中国や北朝鮮で大量に発見されており、韓国でも高句麗の勢力が及んでいた地域で高句麗式山城がいくつか発見されている。積石塚は高句麗前期の墓制で、後期には土塚即ち横穴式石室をもつ封土墳に移行した。高句麗墓の特徴として華麗な古墳壁画が挙げられる。起源は中国の古墳壁画に求められうるが、すでに前期古墳にもみられるものであり、高句麗独自の風俗や文化を後世に伝えるものとして重要視されている。前期古墳では中国吉林省集安市付近のものが「高句麗前期の都城と古墳」として、後期古墳では朝鮮民主主義人民共和国平壌市・南浦特級市付近のものが「高句麗の古墳遺跡」として、それぞれ世界遺産に登録されている。

仏教編集

三国遺事』『三国史記』によると、仏教は胡人の僧侶の手により高句麗と新羅にもたらされた[14]。372年(前秦・建元7)、前秦苻堅が高句麗に仏像や経文を送り、高句麗は官史養成のために太学創立、朝鮮半島を支配下に置いていた国家では最も早く仏教を受容した。また『三国史記』高句麗本紀によると、小獣林王の5年(375年)に肖門寺伊弗蘭寺を創建して順道・阿道らの僧を配したことが朝鮮半島での仏教の始まりと考えられている。既に東晋の僧・支遁366年没)が高句麗僧に書を送ったことが伝えられており、小獣林王の主導した仏教受容は国家的な取り組みであったことと見られる。

5世紀初頭の広開土王の時代には平壌に9ヶ寺の建立が進められた。高句麗の仏教は老荘思想を介して神仙信仰と習合していたと見られている[要出典]。神仙信仰はその後、6世紀頃からは道教として支配者層に広まっていったことが、古墳壁画に仙人・天女の描かれることからも窺える。

栄留王の7年(624年)にはに願い出て、『道徳経』などを下賜されるとともに道士の派遣を要請し、高句麗の国内で道教の講義を開いてもいる。また仏教寺院を道観に転じることもあった。

国際関係編集

北方民族や中国との関係編集

高句麗は鴨緑江中流域の中国郡県内に建国し、漢人地域に対する掠奪や侵略で強大化したため、当初から漢文化の影響が強く、匈奴柔然との関係はそれほど強くはなかった。

4世紀、中国が五胡十六国時代に入ると、遼西に興起した鮮卑慕容部が前燕を建国し、高句麗はその攻撃を受けて丸都城を落とされ、臣従するようになった。だが華北に進出した前燕は前秦によって滅ぼされ、華北の混乱は高句麗に有利に作用した[要出典]。この頃、高句麗はシラムレン河流域の契丹や北部満洲の黒水靺鞨にも勢力を延ばしている。また北燕の天王には養子となった高句麗人が擁立されたこともあった[15]

5世紀初頭から中国の北魏貢女していた[16][17]

6世紀に入ってモンゴル高原突厥が興起すると対立関係が生じた。『三国史記』には突厥が高句麗の新城を攻撃した記事が見え、突厥の「ビルゲ可汗碑」にも初代突厥可汗が東方のボクリ可汗を攻撃した記事がみえる。しかしが中国を統一すると巧妙な外交で突厥を分裂させ、一部の契丹や靺鞨が隋に帰付するようになると、高句麗と隋の関係が緊張し、高句麗嬰陽王が隋の営州を攻撃して戦争に発展した。

やがて突厥が復興の兆しを見せると、高句麗は対隋戦略の必要から突厥に接近した。この時期には突厥を通じて西域諸国とも通好したようである。[要出典]だが高句麗と突厥の通好は隋の疑心を招き、煬帝の大遠征に発展した。隋は高句麗を征服することができず、かえって国内の叛乱によって滅ぶ。突厥はこの機会に乗じて再び勢いを盛り返した。その後、高句麗がに滅ぼされると、突厥に亡命した高句麗人もいた。

高句麗の4世紀以降の国家発展には、宋晃崔毖郭充馮丕封抽游泓冬寿など中国人の高句麗流入者が無視できない役割を果たした[18]

『魏書』百済伝には以下の記述がある。

自馮氏數終,餘燼奔竄,醜類漸盛,遂見陵逼,構怨連禍,三十餘載,財殫力竭,轉自孱踧。

〈馮氏(北燕)の数終えし(436年)より、余燼奔竄し、醜類(高句麗)漸く盛んにして、遂に陵逼せられ、怨みを構え禍を連ねること三十余載、財殫き、力竭き転た自ら孱蹴す[19]。〉

430年代以降の高句麗と百済の戦争で、北燕から高句麗に逃亡した残党が百済の疲弊に関して大きな役割を果たしたと百済が訴えており、中国史書には5世紀以降、外交・軍事に中国姓の者の活躍がみられ、高句麗は中国系人士を外交交渉や軍事活動に登用していたと推測もできる[19]

日本との関係編集

長野県には大室古墳群針塚古墳に代表されるように、5世紀から6世紀にかけての高句麗式積石塚が分布し、東京都狛江市の亀塚古墳も高句麗式とみなされる(しかし、亀塚古墳は渡来系による造営ではないことが証明されている[20])。また狛、巨麻の古代地名は以下の例のように近畿、関東に分布する。

4世紀末から5世紀にかけて、高句麗は(日本)と敵対関係にあったので、当時の高句麗人が自発的に移住してきたのか戦争捕虜であったのかは不明である。この時期の高句麗が倭と敵対したことを示すものとして、順帝に対して、478年倭王武が上表した「而句驪無道圖欲見呑掠抄邊隷虔劉不已毎致稽滯以失良風雖曰進路或通或不臣亡考濟實忿寇讎壅塞天路控弦百萬義聲感激方欲大舉奄喪父兄使垂成之功不獲一簣居在諒闇不動兵甲是以偃息未捷至」との文言[21]点からも裏付けられる。

6世紀になって百済と高句麗の関係が改善するにつれて倭と高句麗との関係も友好的なものとなり、相互の通好も行われた。570年に北陸に漂流した高句麗人が「烏羽之表」を携えており、これが正式な国書であると王辰爾によって解読され、初めて国交が開かれたと伝えられる。7世紀前半までの高句麗と倭との国交は文化的な交流に限定されており、特に仏僧の活躍が目立つ。595年に来朝し、後に聖徳太子の師となった恵慈610年に来朝した碾磑(みずうす)を製法を伝えたという曇徴は有名である。7世紀後半には文化交流に留まらず、伊梨柯須弥(イリ・カスミ、通常淵蓋蘇文と表記)のクーデターを伝えてもおり、政治的な関わりをもつようになった。

668年に高句麗が滅亡すると倭に亡命してきた高句麗人もあり、716年には武蔵国高麗郡が建郡された。高麗郡大領となる高麗若光には705年に王(こきし)の姓が贈られており、高句麗王族だと推測される。高麗郡高麗郷の地である埼玉県日高市にはこの高麗王若光を祭る高麗神社が今も鎮座する。ほかにも『新撰姓氏録』には以下のような高句麗系氏族が見られる。

  • 狛人…高麗国須牟祁王の後(河内国未定雑姓)
  • 狛造…高麗国主夫連王より出(山城国諸蕃)
  • 狛首…高麗国人安岡上王の後(右京諸蕃)
  • 狛染部…高麗国須牟祁王の後(河内国未定雑姓)
  • 大狛連…高麗国溢士福貴王の後(河内国諸蕃)
  • 大狛連…高麗国人伊斯沙礼斯の後(和泉国諸蕃)

編集

王家の姓編集

三国史記』高句麗本紀第六や『三国史記』百済本紀第六には、高句麗王は自分たちは黄帝の孫の高陽氏、黄帝の曾孫の高辛氏の子孫であるがゆえに「高」姓を付けたとある[22][23][24][25][26]

宋書』夷蛮伝、『隋書』東夷伝、三国史記高句麗本紀では、高句麗の王族の姓を「」(こう/カウ)としている。高句麗の王は中国史書には長らく名だけで現われており、「高」姓とともに記録に残ったのは『宋書』における長寿王が最初である。長寿王以後は「高句麗王・高璉」というように中国式の姓名表記がなされるようになり、それ以前にはおそらく姓は無かった。

三国史記』では建国当初は高姓ではなく、5代慕本王までは夫余の氏族名である「」(かい/ケ)を本姓としている[27]。高姓の由来としては、早くから中華文明に接触していた高句麗が高陽氏高辛氏の子孫として「高」姓とする付会を行なったとする見解や[28]、元は「高」姓であった北燕王慕容雲高陽氏の子孫としていた)との同族関係の確認によるものとする意見がある[29]

王と五族編集

後漢書』高句麗伝によると、高句麗には五族(消奴部、絶奴部、順奴部、灌奴部、桂婁部)と呼ばれる有力な地縁的集団があった。王は消奴部(後に桂婁部)から立てられ、王妃は絶奴部から出されていた。 これら五族は一定の地域を地盤とする部族国家であり、初期の高句麗は部族連合の態をなしていたと見られている[要出典]

2世紀末、故国川王の死後の発岐・延優(後の山上王)の兄弟争いに公孫氏が介入したことにより、高句麗の本拠地が丸都城(集安市)に移ると、基盤となる地域からの移動のために五族の力が薄れていく契機となった。

3世紀前半の東川王の時代にはの攻撃を受けて逃亡した王を支えたのは直属の五部であり、王都を回復した後の褒賞は五族には与えられず、五部にのみ与えられることとなった。平壌に遷都した後は五族は内・東・西・南・北(或いは黄・前・後・左・右)の五部に改称された。 この改称は地縁的部族に由来する貴族勢力の衰退とも見られるが、貴族層の構成要員が地縁的部族の有力者から王の直属の官僚へと移り変わったことによるものであり、新しい貴族層によって中央集権化が強められたものと見られている[要出典]。この後に五部は高句麗の王都付近及び地方の軍政・行政のための区画となった。高句麗の滅亡時点では五部の下に176城があったといい、部の長官を褥薩、部の配下にある城主を道使といった。これらの王都の区画の制度は高麗五部坊里李氏朝鮮の五部へと受け継がれた。

官制編集

三国史記』によれば、古くは左輔・右輔の官名が最高位のもので、百済でも同様に左輔・右輔が最高位の官名だった。高句麗では第8代新大王のときにその上に国相という官を新設し、王の即位に功績のあった明臨答夫が初めてその位についた。

三国志』や『後漢書』などの表記・序列に異同はあるものの、3世紀には次の10階の官制が整っていたものと考えられている。ただし相加・対盧・沛者・古鄒加は五族の有力者が称したものであり、必ずしも王権の下に一元化された官制だったわけではないと考えられている。

  1. 相加(そうか)
  2. 対盧(たいろ)
  3. 沛者(はいしゃ)
  4. 古鄒加(こすうか)
  5. 主簿(しゅぼ)
  6. 優台(ゆうだい): "于台"と書く場合もある。
  7. 丞(じょう)
  8. 使者(ししゃ)
  9. 皁衣(そうい)
  10. 先人(せんじん)

隋書』や『新唐書』に見られる官位名も異同が著しいが、いずれも12階となっている。第15代の美川王(在位:300年-331年)の時代になって、次のような王権の下に一元下された13階の官制に整備されたと考えられている。

  1. 大対盧(だいたいろ)
  2. 太大兄(たいだいけい)
  3. 烏拙(うせつ)
  4. 太大使者(たいだいししゃ)
  5. 位頭大兄(いとうだいけい)
  6. 大使者(だいししゃ)
  7. 大兄(だいけい)
  8. 褥奢(じょくしゃ)
  9. 意侯奢(いこうしゃ)
  10. 小使者(しょうししゃ)
  11. 小兄(しょうけい)
  12. 翳属(えいぞく)
  13. 仙人(せんにん)

高句麗の末期に大対盧の位にあった淵蓋蘇文はクーデターを起こし、莫離支(ばくりし)の位に就いて専権を振るった。莫離支そのものの名称は『三国史記』職官志では『新唐書』を引いて12階のうちの最下位の古雛大加の別名としている(ただし『新唐書』高麗伝にはそのような記載はない)。

歴史論争:高句麗の歴史帰属をめぐる問題編集

 
高句麗の系統は消滅したが、遺領は新羅(後の朝鮮民族の母体)と渤海(後の満州族の母体)に分割されている。

高句麗は、様々な異種族や亡命中国人集団などを含む複雑な社会であったが[30]中国韓国との間で高句麗はどちらの歴史に帰属するかについての論争が起きている(北朝鮮も参加しているが韓国ほどには積極的でない)。1980年代に中国における高句麗の研究が積極的になり、高句麗を中国史の一部とみなす見解が増え始め、首都が国内城から平壌に移った427年を境に、それ以前を中国史、以後を朝鮮史とする「一史両用論」が学会では主流となった[31]。その後、中国での研究が進み、90年代中頃になると「一史両用論」から、「高句麗を全面的に中国史の一部」との見解が優勢となり、2002年には中国社会科学院による中国東北部の歴史研究プロジェクト「東北工程」が本格的に開始され、2003年末頃に「高句麗は古代中国にいた少数民族である夫余人の一部が興した政権」であり、「高句麗は中国の一部であり自国の地方政権である」との見解が中国国外に知れ渡ることになった[31]

高句麗人はツングースに属するとみられ、韓系である新羅人とは別系統の言語を話した。一般的に現在の朝鮮語の祖語は新羅語と考えられている。このことから言語をもって民族の基準とすると、朝鮮民族を形成していった主流は新羅人であると考えられ、現代の韓国・北朝鮮の祖とみなされる新羅と高句麗とでは民族的・言語的に隔たりがあり(金芳漢著・大林直樹訳『韓国語の系統』)、高句麗を現在の韓国・北朝鮮へ連続する国家と見なす充分な根拠がない。また、高句麗を建国した朱蒙の生母は、中国の英雄河伯の娘柳花夫人であり、朱蒙が中国人の血を引いていることは議論の余地がない[32][33][34]。また、『三国史記』高句麗本紀第六や『三国史記』百済本紀第六には、高句麗王は自分たちは黄帝の孫の高陽氏、黄帝の曾孫の高辛氏の子孫であるがゆえに「高」姓を名乗り、高句麗王族は、中国の英雄の子孫だとしていた[22][23][24][25][26]

矢木毅は、朝鮮北西部の箕子朝鮮衛氏朝鮮などが楽浪郡の支配を受け、箕子の末裔意識を有したまま漢人との同化が進む一方、北から高句麗が朝鮮に勢力を伸ばし、313年に楽浪郡を滅ぼして朝鮮北部を領有してさらに南下の構えを示すと、南の韓族もそれに対抗して国家形成を進めたが、それが新羅百済であり、百済は高句麗に対抗するために高句麗の建国説話に百済の建国説話をつなぎ合わせ、高句麗と同様に自らを扶余の系統に位置づけた[35]。最終的に新羅が朝鮮初の統一国家となり、「朝鮮民族の歴史的・民族的な枠組みを定めた真に画期的な出来事であり、それによって今日につながる韓国・朝鮮の人々の『民族』としての枠組みがはじめて確立したといっても、決して過言ではないであろう。」と述べる[36]。朝鮮を一つのまとまりとする国家や社会が成立したのは新羅の統一以後であり、朝鮮史は南の韓族による北進の歴史であり、現在の韓国の歴史学界が自明視する韓民族(朝鮮民族)という概念は、新羅の統一以後に段階的に形成されていった歴史的産物であり、高句麗にそのまま適用できない。それゆえ高句麗は「中国史」か「朝鮮史」かという二者択一は、「近代国家成立以前の領域に近代国家の領域観を押し付ける、極めて不毛な論争」と断じる[37]。不毛な論争を止揚するために、民族意識・領域意識が不変のものではなく、変わり行くものであり、一国史的観点からの脱却を唱える。高麗を建国した王建は、朝鮮の統一を進めるために女真人から安定的に馬を入手する必要があり、女真人の馬の貢納を促すために自ら高句麗の継承者を標榜し、高句麗にならって国号を高麗とし、北進政策を推進する[38]。しかし、高句麗・高句麗人継承意識は高麗だけでなく渤海人女真人にも受け継がれていた[39]。「国初以来の『北進政策』によって、高麗の領域はひとまず鴨緑江下流域にまで北上したが、それは当時の渤海人・女真人の目からみれば、あくまでも『新羅』が高句麗の旧領を侵蝕していく過程にすぎなかったのである。」と述べる[40]。19世紀後半になると朝鮮人が間島沿海州などに移り住むようになり、朝鮮がに対して間島の領有権を主張する[41]1885年1887年に朝鮮は清と国境画定の談判を行うが、領有権主張は受け入れられなかった[42]大韓帝国は、再び間島の領有を目指すが、日本による外交権接収によってその計画は頓挫した[43]1909年の日清間における間島協約1962年の中朝間における中朝辺界条約においても間島に対する領有権主張は受け入れられず[44]、これに対する不満は、国境画定に直接関与できなかった南側の韓国で顕著であり、このような不満が中国と韓国による高句麗論争の素地になった[45]

金光林井上直樹は両国の論争について、一国史的観点から脱却して東アジア史として捉えていく必要性があると述べている[31][46]。また金は、高句麗は複数の民族・種族から構成された多民族国家であり、高句麗の故地の大半は唐が支配し、一部を新羅が支配した。高句麗人は唐によって中国内地へ移住させられ唐に吸収されたが、一部は新羅に吸収された。しかし、多くの高句麗人が故地に残り渤海などの諸王朝に吸収され高句麗人を継承した。中国の研究者が高句麗の「中国史」への編入を強調するのは、高句麗の故地が現代の中国に存在しており、高句麗人の多くが中国の民族に吸収されたこと、韓国・北朝鮮の学界が古朝鮮の領域を中国東北にまで拡大していることからくる中国東北に領土的野心を持っているという警戒感、現代の領土を統合する中国の多民族一体論が挙げられる[47]。一方、韓国と北朝鮮にも過剰な民族主義史学観、単一民族国家観が存在しており、韓国と北朝鮮において高句麗を中国との独立性を強調するあまり高句麗が中国の歴代王朝と密接に交流していた事実を軽視するのも問題とする[47]

田中俊明によると、3世紀朝鮮半島の高句麗・沃沮・濊・の諸民族が併存しているの様相だけでも、朝鮮半島内の民族が同一民族とは考えられず、そのような意識も存在しなかったという。特に高句麗と韓は、およそ同種とは考えにくく、百済には、始祖が高句麗王から分派した、高句麗と同じ扶余から出た、という百済・高句麗の同源・同族意識を主張しているが、それを歴史的事実とする必要はなく、百済は韓族であり、高句麗とは異民族であり、例えば、広開土王碑には、百済から獲得した領土や人民を「新来の韓濊」と記述しており、高句麗は百済を韓族と認識していた。高句麗による民族識別は代にも残り、中国からの「晋率善濊伯長印」「晋率善高句麗仟長印」の印面を拒否しなかったこと、高句麗が扶余を領土を奪取した際に、「北扶余守事」を派遣したことから、高句麗による扶余支配は異民族統治であったという[48]。また、中原高句麗碑には、新羅を東夷と表現しており、新羅王は寐錦の王号で称され、百済王は主と称されており、広開土王が自らの陵を韓・濊から徴発して守らせるように遺言しており、高句麗王の世界観では、新羅・百済を同族と意識することはなかったという。一方、広開土王碑には、百済・新羅・伽耶・東扶余と倭・稗麗が区別されていることを以て、高句麗と百済・新羅・伽耶・東扶余を同族と認識していたという主張があるが、区別自体が明確ではなく、それが同族認識とどのように関連するのか分からず、分かるのは高句麗が百済を異民族の韓族と認識して属民とみなす認識だけであるという[49]

外山軍治礪波護は、高句麗は満州東部から朝鮮半島北東部に移動した貊族の一種であり、その貊族はツングースであるため「半島の南西部を領した百済、東南部を領した新羅と半島を三分しているが、高句麗は他の二国のように朝鮮民族の国ではない。」と述べている。そして、先住地はもっと西南方であり、その住地の関係から「蒙古系遊牧民混血」が生じたとしている[50]

室谷克実は、中国の史書は「春秋の筆法」が基本で当たり前のことは書いていないため、「(中国の史書には)高句麗などのツングース系民族と韓族との間には、比較の記述がない。(民族が)違うことが大前提であり、わざわざ違うとは書いていない」と述べている[51]

東京大学社会科学研究所のグレゴリー・ノーブル教授は、「中国が高句麗を歴史的に中国の一部としたことに韓国が猛反発したものだが、高句麗が中国の文明との深い交流のなかから生まれてきたことを考えると、中国側の見方に根拠がないわけではない」と述べている[52]

黄文雄は著書で、「満州族先祖が築いた高句麗と渤海」との見出しで、「高句麗の主要民族は満州族の一種(中略)現在の中国の少数民族の一つ、満州族の祖先である」としている[53]は、「ひるがえって、満州史の立場から見れば、3世紀から10世紀にかけて東満州から沿海州、朝鮮半島北部に建てられた独自の国家が高句麗(?~668年)と、その高句麗を再興した渤海(698~926年)である」と高句麗を満州史としている[53]

武光誠は、「高句麗は騎馬民族の流れをひく国である。かれらは中央アジアと共通の文化をもっており、高句麗の支配層は満州族であった。のちに清朝を立てる人びとと高句麗とは系譜的につながっている。満州族は、あるときは中国の支配下におかれ、あるときは渤海などの独自の王朝のもとにまとまり、近代にいたった。」と記述している[54]

松本雅明は、「満州族(夫餘の一派)が独立して、高句麗を建国した。」「その王族は夫餘高句麗と同じく満州族」「北部から北朝鮮にかけて、満州族の高句麗がおこり」と記述している[55]

奈良本辰也編集『日本歴史大辞典 第19巻』河出書房、40頁、1959年には、「北方鴨緑江流域から南下しきた高句麗(満州族)のために滅ぼされた。」との記述がある。

藤田亮策は、「満州族たる高句麗人の馳駆する」「其文化は六朝の夫れをうけ高句麗は満州人によって建てられた最初の大国である。」と記述している[56]

夏川賀央は、「中国国東北部に住んでいた女真族は、朝鮮半島の高句麗や、満州の渤海、華北に進出した金など、たびたび国家を建国してきました。」と記述している[57]

倉山満は、「満州で建国した古朝鮮を受け継いだ高句麗と渤海は満州を支配した東アジア最大の国家だった(申瀅植『梨花女子大学コリア文化叢書 韓国史入門』p4)」とお国自慢をしているが、現在の北朝鮮の領域の先祖であるかつての朝鮮北部と満州を支配した民族がKorea民族なのかは疑問であり、高句麗は朝鮮北部と満州を領域としており、満・韓・漢のどの民族であるかなど完全に区切ることはできず、「韓国人は平気で、高句麗や渤海を朝鮮民族に分類し、日本人も言われるままに信じています。しかし、高句麗も渤海も満州人です。より正確に言えば、満州から現在の極東ロシアや北朝鮮までに広がって混住・混在・混血している人たちです。少なくとも純粋Korea人でないことだけは確かです。中韓の間で、高句麗は中国か朝鮮かという歴史論争がありますが、どちらでもないが正解です。今我々が住んでいるところに昔住んでいた人たちの領土は、我々のものだという思想を、ナチズムと言います。現在の国境からさかのぼって過去の歴史を考えてはなりません。」と記述している[58]

三国史記』巻46巻崔致遠伝では、以下の記述がある。

伏聞 東海之外有三國 其名馬韓·卞韓·辰韓 馬韓則高麗 卞韓則百濟 辰韓則新羅也

古畑徹によると、馬韓=高句麗、弁韓=百済、辰韓=新羅とあり三韓を高句麗・百済・新羅に対応させる歴史意識が見られるが、「実際は、高句麗は韓族と関係なく」、この歴史意識は事実ではなく、別系統の民族である高句麗と韓族の新羅と百済とを同民族とみなす虚構の同族意識であると指摘している[59]。また古畑徹は、「高句麗人を自らのルーツのひとつと認識している韓国・朝鮮人だけでなく、を建国した満族などの中国東北地方の少数民族もその先祖はその領域内に居た種族の子孫であり、また高句麗・渤海の中核となった人々はその後の変遷を経て漢族のなかにも入りこんでいることが明らかである。したがって、高句麗・渤海とも現在の国民国家の枠組みでは把握しきれない存在であり、かつそれを前提とした一国史観的歴史理解ではその実像に迫り得ない存在」と評している[60]。ちなみに古畑徹は、北朝鮮学界の高句麗・渤海研究を「北朝鮮の高句麗・渤海研究が高句麗・渤海が中国史ではないという点のみに集中し、論証が自己撞着に陥り、学問的に非常に低い水準となってしまっている」と批判している[60]

中国の主張

  • 高句麗が誕生した地域は紀元前3世紀にはの領域であり、が六国を統一した後は秦の遼東外邀に属した。紀元前108年に漢が衛氏朝鮮を滅亡させ、玄菟郡を設置した際に高句麗は玄兎郡内の高句麗県に属していた。紀元前37年に高句麗の始祖朱蒙が高句麗の五部を統一し、建国したのも漢の玄菟郡の領土内であった。このように、高句麗は前漢武帝が設置した植民地漢四郡の一つ玄菟郡から興った国であり、中国王朝の秩序の中で建国された[31]
  • 高句麗の始祖朱蒙の建国以前の高句麗県はすでに漢の玄菟郡に属し、東漢の180年間に高句麗は東漢王朝に臣属していた。西暦220年から426年まで高句麗は中国中央王朝に臣属し、高句麗侯・高句麗王・征東大将軍・営州刺史・楽浪郡公などの官職を授けられていた。南北朝時期には、北魏北斉及び南朝の各政権に貢物を納めた。また、北魏・北斉及び南朝の各政権からは高句麗王・都督遼海諸軍事・征東将軍・遼海郡公・領護東夷中郎将・散騎常侍・東夷校蔚・驃騎大将軍・遼東郡開国公などの官職を授けられた。高句麗が隋・唐と数回にわたって戦争を行ったが、その期間は合わせて10年程度に過ぎず、残る70年以上の期間は隋・唐に臣下として臣属し、隋・唐の中央王朝から官職を授けられた。このように、高句麗王国は始終中国の中央王朝の一地方政権であり、一時的な割拠状態を理由にその歴史の全期間にわたって中国へ帰属した事実を否定してはならない[31]
  • 高句麗人は中国古代民族である扶余民族。高句麗が滅びた後、高句麗の後裔たちの多数が中国の中原地域・突厥渤海などに吸収され、中国の各種族に融合され、朝鮮半島の大同江以南の一部の高句麗人たちが新羅に統合された。朝鮮半島に移住した中国の各種族もかなり多い。しかし、高句麗の後裔は少数である。朝鮮民族は新羅人を中核に形成されたため、高句麗人とは違う民族であり、高麗王朝は新羅系の王朝であって高句麗とは何も関係ない[31]
  • 今日の中国と朝鮮の国境を境にすれば、隋・唐の高句麗に対する戦争は侵略戦争であるが、高句麗の領域は高句麗の建国以前の1000年間(箕子朝鮮衛氏朝鮮600年、漢四郡400年)も中国の漢民族が支配していた地域であるため、隋・唐が高句麗を攻めたのは侵略戦争ではなく、中国の民族内部の統一戦争である[31]
  • 朝鮮半島の北部地域が朝鮮民族の居住地になったのは15世紀以後のことである。したがって、5世紀に高句麗が首都を平壌に移したことから、高句麗を朝鮮の歴史と論じられない。15世紀以後の李氏朝鮮箕子朝鮮衛氏朝鮮は朝鮮という名称こそ同じであるが、民族の構成と国家の帰属が異なるので、同列には見なされない。箕子朝鮮・衛氏朝鮮は中国の漢民族の祖先が建国し、中国の歴史に属する[31]
  • 高句麗の領土の3分の2は現在の中国の領土であり、当時の高句麗人の4分の3は中国に帰化した。これは今日のアメリカ史を述べる際、アメリカインディアンの歴史まで包括する反面、移民者の元の故郷のヨーロッパ史を言及しないことと同じである[61]

韓国の主張

  • 高句麗が中国王朝から官職を受けた時期もあるが、これは東アジア前近代で広く行われた外交儀礼であり、中国の論理を適用すると倭国・越南・新羅・百済など周辺国家はすべて中国の地方政権扱いとなる。高句麗は地方政権で、新羅・百済は独立王朝というが、中国と同じ関係を結んでいる三国のうちで、高句麗のみを地方政権扱いする理由は何なのか。そもそも、当時の中国に一貫して中央政府と呼べる統一王朝が存立していない[31]
  • 高句麗滅亡後、多数の高句麗人が唐によって強制移住させられたが、高句麗故地に残った高句麗人の数は強制移住させられたそれより多く、彼らは新羅・渤海に加わり、渤海滅亡後は、渤海遺民が、高句麗復興運動を継承する過程で建国され、高句麗を継承しているという意識が明らかな高麗王朝に吸収された[31]
  • 高句麗が一貫した独立国家である以上、中国国内戦争論は成り立たない[31]
  • 満洲漢民族化したのは清朝末期以降であることから中国の政権とするには不適当[31]
  • 箕子朝鮮は神話であり、衛氏朝鮮は中国人が建国しただけで朝鮮人による王朝を中国の歴史と断定することは出来ない[31]

高句麗遺跡のユネスコ世界遺産登録問題編集

 
吉林省集安市にある高句麗の将軍塚

北朝鮮は2000年頃から、平壌市南浦市に所在する高句麗後期の遺跡の世界遺産登録を働きかけていた(高句麗古墳群)。当初、2003年には登録される見込みであったが、当時の駐日中国大使武大偉から登録の引き延ばしと同時登録を要請された画家の平山郁夫が中朝両国の仲介を行った[62]。その経緯で、両遺跡は2004年の同時登録という形になった。北朝鮮と中国の間に、高句麗地区の領土問題が存在することが改めて認知された。

補注編集

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  1. ^ *シロコゴロフ、川久保悌郎田中克巳訳『シロコゴロフ 北方ツングースの社會構成』(1942年、岩波書店)p285-p287「鳥居龍蔵氏は彼らを北朝鮮の強国、夫余及び高句麗の建設者と見做し、彼等をツングースであろうと考えている。」
    • 白鳥庫吉『白鳥庫吉全集 第4巻』(1970年、岩波書店)P536「『濊貊は果たして何民族と見做すべきか』濊貊の言語には多量のTunguse語に少量の蒙古語を混入していることが認められる。想うにこの民族は今日のSolon人の如く、Tunguse種を骨子とし、之に蒙古種を加味した雑種であろう。」
    • 井上秀雄、他訳注『東アジア民族史1-正史東夷伝』(1974年、平凡社)p103「(高句麗、夫余の)両族は、ともにツングース系と考えられている。両族が同系であることは始祖神話(東明・朱蒙伝説)の類同によっても推測できよう。」
    • 加藤九祚『北東アジア民族学史の研究』(1986年、恒文社)p156「高句麗は北扶余から発したというが、その北扶余がツングース・満州語族に属することは定説となっている」
    • 三上次男神田信夫編『民族の世界史3 東北アジアの民族と歴史』(1989年、山川出版社)p161「Ⅱ(夫余、高句麗、濊、東沃沮)の言語はツングース・満州語の一派か、またはそれに近い言語と思われるが、むしろ朝鮮語と近い親縁関係にあるか、詳しく調べてみなければわからない。」
    • 鳥越憲三郎『古代朝鮮と倭族』(1992年、中央公論社)「高句麗は紀元前1世紀末、ツングース系の濊族によって建国」
    • 浜田耕策『日本大百科全書』「【濊貊】前3世紀ごろモンゴル系民族に押し出されて朝鮮半島北東部に南下し、夫余、高句麗、沃沮を構成したツングース系の諸族を含むのである」
    • 村山正雄『日本大百科全書』「【夫余】古代中国の東北地方に割拠していたツングース系と思われる民族が建てた国名」
    • 佐々木史郎『日本大百科全書』「【満洲族】夫余と靺鞨はツングース系の民族ではないかと考えられている」
    • 護雅夫『日本大百科全書』「【騎馬民族】高句麗は東北アジア、満州にいたツングース系民族」
    • 諏訪春雄「朝鮮で高句麗や百済を建国した夫余族はツングース系の遊牧民族(学習院大学教授 諏訪春雄通信)」
    • 黄文雄『韓国は日本人がつくった』(2002年、徳間書店)「遼東や北満の地は、かつて高句麗人、渤海人などの(中略)ツングース系諸民族が活躍した地である」
    • 広辞苑「【高句麗】紀元前後、ツングース族の扶余の朱蒙の建国という」
    • 大辞泉「【高句麗】紀元前後にツングース系の扶余族の朱蒙が建国」
    • 南出喜久治「私の見解では、高句麗は、建国の始祖である朱蒙がツングース系(満州族)であり、韓民族を被支配者とした満州族による征服王朝であつて、韓民族の民族国家ではないと考へている。(いはゆる「保守論壇」に問ふ ‹其の五›日韓の宿痾と本能論)」
    • 長野正孝『古代史の謎は鉄で解ける』(2015年、PHP研究所)「高句麗はツングース系の騎馬民族がつくった国家で、定住化によって遊牧から次第に離れたが、騎馬による戦力は絶大なものがあった。」
    • 宮家邦彦『哀しき半島国家韓国の結末』(2014年、PHP研究所)p160「高句麗は紀元前三七年、マンジュ地方の鴨緑江付近で興ったツングース系国家であり、四世紀中ごろに南下して、楽浪郡北部を征服した。」
    • 豊田隆雄『本当は怖ろしい韓国の歴史』(2016年、彩図社)p9「高句麗は、韓族で構成される新羅や百済と違って北方のツングース系の国家」
    • 薗田香融『日本古代の貴族と地方豪族』(1992年、塙書房)、p259「今の北朝鮮に当る部分にはツングース系の高句麗」
    • 埴原和郎『日本人と日本文化の形成』(1993年、朝倉書店)p211「歴史時代に興亡した扶余も、靺鞨も、高句麗や渤海も、濊や沃沮などもツングース系だといわれている。」
    • 酒井忠夫『世界史研究』(1953年、績文堂)p128「高句麗(北満の半農半牧のツングース族が漢代以後中国文化の影響により興り建国)」
    • 渡部昇一『ことばの発見』(1975年、中央公論社)p87「東洋史の上で遼とか金とか高句麗とか渤海とか清とか言うのもツングースである。」
    • 三上次男『古代東北アジア史研究』(1966年、吉川弘文館)p87「広く東北アジアに居住する諸族を当昔にわたって見わたすと、東部シベリアから、東満洲、北朝鮮の山岳森林地帯には、古の貊や高句麗、中世以後の女真、満洲など、いわゆるツングース系の語族が変らない大勢力を擁していたことがわかる。」
    • 外山軍治礪波護『東洋の歴史5』(1967年、人物往来社)p20「高句麗を建てたのは、古くから満州東部から朝鮮半島の北東部に移り住んだ貊族の一種である。」「貊族はツングース系統に属する」
    • 青木慶一『民衆と戦争』(1978年、東明社)p40「オロッコ-ツングースなどから成る高句麗が次第に南進して百済を圧迫するに至った。」
    • 成瀬治『世界史の意識と理論』(1997年、岩波書店)p116「すなわち、五胡が中国の華北に侵入し、騎馬民族の高句麗が朝鮮に勢力を拡大したころ、高句麗と同じツングース系の騎馬民族」
    • 沖浦和光『辺界の輝き』(2002年、岩波書店)p32「ツングース族などの騎馬民族系は、南下してきて朝鮮の北部に高句麗を建国します。話が長くなるので略しますが、それから百済王朝を攻め滅ぼします。」
    • 白崎昭一郎『広開土王碑文の研究』(1993年、古川弘文館)p49「『言語法俗大抵与句麗同』というから、高句麗と同系で、恐らくツングース系の民族であったろう。」
    • 水野祐『古代の出雲』(1972年、吉川弘文館)p300「朝鮮半島へ南下した大陸系北方民族が、高句麗にしても、扶余にしても、濊にしても、いずれもみな満州に原住したツングース系統と考えられている。」
    • 小島直記『松永安左ェ門の生涯』(1980年、松永安左ェ門伝刊行会)p1073「朝鮮には、西暦紀元頃、ツングース系の高句鹿と、そして漢民族の移民とが住んでいたという。」
    • 佐々木高明『地域と農耕と文化』(1998年、大明堂)p317「高句麗や渤海も、濊や沃沮などもツングース系の民族だといわれている。」
    • 三田村泰助『世界の歴史14』(1969年河出書房新社)p77「ところで、満州の住民のおもなものは、ツングース系民族で、中国人はこれを東夷といった。むかしの高句麗、つぎの渤海、あるいは金国などは、かれらの建てた強大な国家である。明代では、これらの種族は女直といわれた。」
    • 延恩株 p85「高句麗の種族全体はツングース系の貊族の一部 (延恩株新羅の始祖神話と日神信仰の考察 ― 三氏(朴・昔・金)の始祖説話と娑蘇神母説話を中心に ―桜美林大学桜美林大学桜美林論考『言語文化研究』第2号〉、2011年3月)」
    • 室谷克実『日韓がタブーにする半島の歴史』(2010年、新潮社)p193「(中国の史書には)高句麗などのツングース系民族と韓族との間には、比較の記述がない。(民族が)違うことが大前提であり、わざわざ違うとは書いていない」
    • 武田幸男『週刊朝日百科日本の歴史44』(1987年、朝日新聞社)p330「中国東北地方(遼寧・吉林省)南部の山間に住みついた濊貊族の一派、高句麗」「古代中国の東北地方から朝鮮半島の東北部にかけての広大な地域には、ツングース系といわれる濊貊族が居住した」
  2. ^ 田中 1995, pp. 20-22
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  5. ^ 矢木 2012, pp 51-52
  6. ^ 『東北古代民族研究論網』
  7. ^ 平壌付近には当時は魏の楽浪郡が存在するために、この平壌城は丸都城の別名と考えられている。→(井上訳注1983 p.116 注23)
  8. ^ 『新唐書』本紀、『資治通鑑』、『唐會要』・金康勲『遼東地域の高句麗復興運動と剣牟岑』2016年1月23日・学習院大学にて
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  10. ^ 馬淵ら 1980, p. 6
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  15. ^ 北燕の慕容雲は祖父が高句麗の支族であり元は高氏であったが、後燕慕容宝の養子となって慕容姓を賜ったという。
    『三国史記』巻第十八・高句麗本紀第六・広開土王紀 :「十七年(408年)春三月。遣使北燕。且叙宗族。北燕王雲、遣侍御史李拔報之。雲祖父高和、句麗之支属、自云高陽氏之苗裔。故以高爲氏焉。慕容寶之爲太子。雲以武藝侍東宮。寶子之、賜姓慕容氏。」
  16. ^ http://www.chosunonline.com/news/20110424000023
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  27. ^ 鮎貝1987 pp.70-74. 夫余の王解夫婁、朱蒙の父という解慕漱などに共通する「解」は、太陽・日輪を意味する古朝鮮語を転写したものと推測されており、また解氏は同じ扶余系の百済において有力な氏族となっていることを指摘している
  28. ^ 鮎貝1987 pp.78-80.
  29. ^ 井上訳注1983 p.24 注3
  30. ^ 河上洋 『渤海の地方統治體制 : 一つの試論として』 東洋史研究、1983年9月p5
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  46. ^ 井上直樹『帝国日本と満鮮史』塙書房 2013/02 ISBN 978-4827331165 p229₋p230「このことは高句麗史研究において、現在の国境ではなく、より大きな観点から高句麗史を理解することが必要であることを端的に示しているといえる。それならば、問題を多数内包しているものの、中国東北地方と朝鮮半島を区別することなく、一体的な歴史地理的空間として高句麗史を把握しようとする満鮮史的視座は、高句麗の史的展開過程を考究する上で、有効な視角の一つとおもわれる。それは高句麗の動向を今日の国家という枠組みを超えて巨視的に理解しようとする試みの一つでもある。今日の高句麗史研究が国境を基準とする一国史的史観にとらわれ論及された結果、冒頭で示したようにさまざまな問題を惹起していることを想起すれば、満鮮史的視座は一国史的史観を克服するものとして、再度、考究される余地があってもよいのではないかと考えられるのである。」
  47. ^ a b 金光林「中韓両国の歴史・文化摩擦に対する文明史的考察」『新潟産業大学人文学部紀要』No.20、2008年10月
  48. ^ 田中俊明「朝鮮地域史の形成」『世界歴史9』岩波講座1999年ISBN 978-4000108294 p152
  49. ^ 田中俊明「朝鮮地域史の形成」『世界歴史9』岩波講座1999年ISBN 978-4000108294 p154
  50. ^ 外山軍治礪波護「隋唐世界帝国」『東洋の歴史5』人物往来社1967年、p19-p20
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  59. ^ 古畑徹後期新羅・渤海の統合意識と境域観朝鮮史研究会 36巻、1988年p34
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  62. ^ 世界遺産というパワーゲーム 「人類全体が守るべきもの」を決める裏には熾烈な駆け引きがある(3/3)”. 朝日新聞グローブ. 2017年12月4日閲覧。

関連項目編集

参考文献編集

外部リンク編集