高木 俊朗(たかぎ としろう、1908年明治41年)7月18日 - 1998年平成10年)6月25日)は、日本映画監督脚本家ノンフィクション作家である。

略歴編集

東京生まれ。1933年早稲田大学政治経済学部卒業、松竹蒲田撮影所に入社、清水宏に師事。その後、富士スタジオ、日本映画社に勤務。1939年から陸軍映画報道班員として、日中戦争に従軍し、記録映画を製作する。太平洋戦争中、1942年に陸軍航空本部映画報道班員として、マレーシアインドネシアタイ、仏印などに従軍。映画報道班員としての体験をもとに、新聞や放送の発表と現実の戦況の違い、戦場の苛酷なありさまの見聞等々、インパール作戦の悲惨さを明らかにして陸軍指導部の無謀さを告発することを決意する。

戦争末期、1945年鹿児島県知覧町(現南九州市)の航空基地に転属、特攻隊員たちとの交流を通じて、かれらに人間的苦悩にふれて、その真実を書き留めようと戦記作家として執筆活動をはじめる。

知覧駐在中、特攻隊員と交流を持ち、特攻隊員の誰彼となく高木の報道用のノートにそれぞれの経歴、感想、伝言を書きつけるようになったが、その中に慶應義塾大学経済学部より学徒出陣させられた陸軍特別攻撃隊員、上原良司(第56振武隊特別操縦見習士官、階級は少尉)が出撃前夜に記述した、のちに『所感』として有名になった絶筆も残されていた[1][2]。ただし、実際の『所感』は、報道用ノートへの寄せ書きではなく、日本映画社の報道用原稿用紙7枚に書かれており、高木の主張とは異なる[3]。また、高木が上原に「今の思いを書いてください」を個別にお願いして書いてもらったという報道もあり[4]、高木が『所感』を上原から託されたとする状況は、高木によって脚色を加えられていることも指摘されており、事実は不明である[5]。高木はその絶筆を上原が戦死直後の6月に、直接遺族の両親と妹達に届けたと主張しているが、実際に遺族に届けられた時期も不明である[6]。『所感』は、戦後まもなくの1949年1月に出版された『週刊朝日』(1949年1月23日号)「第二はるかなる山河に」という記事に、日本大学医学専門学校田坂徳太郎の遺書とともに掲載され、のちの『きけ わだつみのこえ』出版のきっかけともなっている。『きけ わだつみのこえ』に、上原の遺書は、高木が遺族に届けたとする『所感』と、1945年4月に上原が故郷に帰郷したさいに家族に残した遺書の2通が掲載された[7]

1951年、フリーの映画製作者となり、主として記録映画の脚本、監督にあたる。1952年ブラジルの移民史映画製作のため、3月ブラジルに渡航。しかし受け入れ側の契約不履行によって、映画の製作は中止となったか、当地の日系人社会において敗戦を認めない勝ち組と敗戦を認める負ち組が対立して、大混乱に陥っていることを知る。その真相を突き止めるため、10ヶ月間ブラジルに滞在して取材活動を続ける。1954年製作の映画『白き神々の座 日本ヒマラヤ登山隊の記録』(演出を担当)はブルーリボン賞を受賞。

戦時中に接した特攻については、「日本はもとより、この地球上に、再び特攻作戦を実現させてはならない」という思いのもとで、1957年刊行の『遺族』(出版協同社)、および『知覧』(朝日新聞社、1965年)、『陸軍特別攻撃隊』(文藝春秋、1974-75年)など特攻に関する詳細な著作を出版、そのなかで特攻隊員の筆舌に尽くしがたい悲しみや、陸軍第4航空軍司令官富永恭次中将と第6航空軍司令官菅原道大中将ら、特攻隊の出撃計画を練り上げて指揮命令した者たちを、ときには誹謗中傷近い記述も交えて強く批判した[8]1975年、『陸軍特別攻撃隊』で菊池寛賞を受賞。学徒出陣や特攻隊をテーマに数多くの講演会に講師として参加。1989年、千葉朝日カルチャー・センターのノンフィクション講座講師をつとめる。

1963年に朝日新聞社が、大阪本社創刊85年、東京本社創刊75周年を記念する事業として一千万円懸賞小説を募集した時にくしくも2席に入賞した。この時の優勝作品は三浦綾子の『氷点』だった。

1969年にTBSラジオで放送された「愛の戦記」というラジオ番組の制作に携わった。この番組は高木自身がラジオのパーソナリティになって、中林淳眞のギター生演奏のなかで、高木が視聴者から寄せられた戦時中の恋愛のエピソードについて語るという番組であった[9]

1998年6月、右腎臓癌のため逝去、享年89。本人の遺志で葬儀・告別式は行なわれなかった(「朝日新聞」1998年7月7日付)。墓所は静岡県駿東郡小山町冨士霊園の文学者之墓。

著述活動編集

1949年に第33師団を主題とした『イムパール』を執筆した。以降、『抗命』『戦死』『全滅』『憤死』などインパール5部作、『陸軍特別攻撃隊』1~3、『狂信 ブラジル日本移民の騒乱』などの多くの戦争記録文学作品を発表した。

なお、『抗命』の初版には秋山修道の同名書と同じく「烈師団長発狂す」との副題がつけられている(文庫版ではこの副題は削除された)。実際には第31師団長、佐藤幸徳は上官である牟田口廉也の上申で確かに精神鑑定を受けることになったものの、作戦中も、その後の精神状態も正常との結論が下されており、医学的にはこの表現は誤りである。高木は『イムパール』の終盤で佐藤を「きちがいになった-しかし真相は別にある」と書いており、「これが、実は牟田口中将の目的であった」と牟田口の責任回避策である旨を明言していた[10]。その後、高度経済成長期に入ると部隊史が相次いで刊行され、資料が充実した為、高木は数年の準備期間をかけ再取材を実施し、東京新聞に1966年7月5日から10月8日まで『抗命』の連載を行った。更に書籍化の企画が文藝春秋より持ち込まれたため、出版に際して誤認訂正と大幅な加筆を実施している[11]。そのため、文庫版などでは軍医が正常と診断した旨についても明記されている。一方、鑑定を行った精神科医(当時軍医大尉)山下實六は『抗命』の調査への努力は評価しているものの、当時を回顧する講演でこの誤解に触れ、この表題をつけた作者の一人として高木を名指ししている[12]

特攻との関わり編集

菅原道大陸軍中将との関わり編集

高木は陸軍映画報道班員として、、沖縄戦における陸軍特別攻撃隊を取材し、多くの特攻隊員を見送った経緯から、隠されていた特攻隊の実状を全体にわたって明らかにしたいと考えて[13]、特攻関係者を、著作『知覧』や『陸軍特別攻撃隊』により激しく糾弾したが、その記述については必ずしも事実ではないとの指摘もあっている。『知覧』において、終戦後に第6航空軍司令の菅原が、参謀長の川嶋虎之輔少将と協議していたときに、参謀鈴木京大佐が、「軍司令官閣下もご決心なさるべきかとおもいます。重爆一機用意しました。鈴木もお供します」と菅原も特攻出撃して責任をとるべきだと詰め寄ったが、菅原は「自分は、これからあとの始末が大事と思う。死ぬばかりが責任を果たすことにはならない。それよりは、後の始末をよくしたいと思う」などと泣き言を言って特攻出撃を拒否し、それを聞いた鈴木が「この人は到底死ねる人ではない」と呆れたとするエピソードが語られているが[14]、菅原は、毎日克明な日記をつけており、この日の日記の記述によれば、鈴木が「閣下も征かれますならお供します」と言ってきたが、躊躇することなく「否、軍は先刻発令の通り」と、玉音放送による天皇陛下からの停戦命令の通りに一切の軍事行動は罷り成らずと言い放ったと書いている[15]

戦時中に時事通信社の報道班員であった軍事評論家伊藤正徳の取材によれば、第101振武隊の特攻隊員数名も鈴木と同じように、菅原に一緒に特攻出撃しようと詰め寄っており、「宇垣中将は沖縄へ特攻出撃されました。閣下はどうされますか。吾々は何時でもお供出来るように用意しております」と、海軍の宇垣纏が終戦後に中津留達雄大尉らを連れて「私兵特攻」出撃したことで、陸軍側も同様に特攻指揮官と特攻隊員で一緒に出撃すべしと申し出たが、菅原は十数秒間黙考したのち「陛下の終戦玉音を拝聴した後は、余は一人の兵士も殺すわけにはゆかぬ。皆、おとなしく帰れ」と、鈴木のときと同様に、天皇陛下の命令を守り、一人の死者も出せないと振武隊員らを諭したとしている。菅原も伊藤の著書を読み「伊藤氏の如き著名な大記者がそのときの光景を正しく書いたことに感謝している」と述べている[16]。このことについては、『知覧』の読者からも高木に事実相違との指摘があっていたが、高木は菅原本人も事実と認めていることを、自分が鈴木ら関係者から取材したから、自分の記述が正しく、菅原と第101振武隊とのやりとりは、伊藤が意図的に、鈴木を第101振武隊の特攻隊員にすり替えて書いたとし、のちに伊藤と知り合いになったので、どうしてすり替えて書いたのか問い質そうと考えていたが、伊藤が不治の病におかされたのでその機会を失ったと主張している[17]

高木は、自分で直接取材をしていないことでもを小説のように記述することがあり、同盟通信社日本映画社の報道班員として、中国大陸から太平洋の最前線で取材を続けた[18]浅井達三からは、高木の記述は「眉唾物」とも評されている[19]。また、高木が特攻の報道について強い義務感を持ったと主張する九州での報道班員在籍時に、高木が所属していた軍報道部の部長であった土屋斉(戦時中は同盟通信社映画部部長、戦後は大垣共立銀行頭取などを歴任)は、高木が軍報道部の一人として食い入っていただけで、どんな行動をしたかもわからないほど印象が薄く、戦後の文筆活動についても「文筆商人」に過ぎないと酷評している[20]。菅原が鈴木に特攻出撃を泣き言を言って拒否したとされる高木の記述は、菅原を始め旧軍に批判的な高木が、意図的に悪く書いたとの指摘もあっている[21]

高木が事実に脚色して書いた例としては、初の神風特別攻撃隊の指揮官となった関行男大尉に、同盟通信社の記者で海軍報道班員の小野田政が取材に行ったところ、これが初対面であった小野田が顔面蒼白となった関から拳銃を突きつけられ「お前はなんだ、こんなところへきてはいかん」と怒鳴られたと、文藝春秋1975年6月号に記述したことが挙げられる[22]。しかし、関と小野田は、関がフィリピンに着任した当初より懇意にしており[23]、このエピソードは小野田本人から事実無根と否定されている。小野田は高木がこのような記述をしていたことを指摘されるまで知らなかったようで、「高木氏は小説家ではなかったのか」と驚いていたという[24]。また、『陸軍特別攻撃隊』において、訓練中に不注意で叱責のために殴られたのが、この著作の主要登場人物佐々木友次伍長であったのにも関わらず[25]、他の「万朶隊」隊員の近藤行雄伍長にされていたり[26]、「万朶隊」初出撃の際に、佐々木が自ら出撃を直訴して出撃が決定したように記述しているが[27]、実際は佐々木は当初から出撃が決定しており、出撃を直訴したのは佐々木ではなく、負傷離脱していた鵜沢邦夫軍曹であったなど、他の隊員の武勇伝や美談を佐々木のものにすり替えるような記述がされている[28]。しかし、高木は『知覧』の後書きで、戦後に特攻隊についての逸話とされているものの多くが、戦時中に書かれた嘘やデタラメがそのまま訂正されずに信じられたものであるが、自分は徹底的に取材して正確な記述を行ったと主張している[29]

高木自らが制作しパーソナリティもやったTBSラジオの「愛の戦記」という番組において、高木は視聴者から体験談を募ったが、採用した体験談を放送するさいには「たくさんの資料で、肉を付け、心を込めて放送します」と脚色を加えることを匂わせており、絶筆『所感』を託した特攻隊員上原が想いを寄せた女性師岡みゑ子に関するエピソードにおいても、かなりの脚色を加えていることが指摘されている。上原については、絶筆『所感』を高木が託されたとする状況についても、著作へ掲載する都度に脚色を加えているため一貫しておらず、高木は特攻隊の悲劇性を伝えようとするなかで、事実に多くの脚色を加えていったが、それがいつしか不動の「事実」となっていった様子がうかがえる。とくに、高木との関係が深い上原については、絶筆『所感』や女性関係などで、注目度も高く、脚色を加える余地が大きかったため、高木やその他の多くの人たちによる脚色によって、実際の人物像とは異なる、「特攻隊員・上原良司」が形作られていったという指摘もある[30]

高木と菅原の関係については、高木が特攻の著作を書くに当たって、菅原が情報や資料を積極的に提供するなど、当初は親密な関係を構築していたが、1961年に高木の特攻隊に関する著作の映画化の話が持ち上がった際に[31]、取材協力をしていた菅原が高木に「特攻作戦の施策に関して、当局や高級指揮官を苛烈に批判するのは構わないが、特攻勇士を揶揄したり冷笑したり英霊を冒涜することはやめてほしい」「特攻はあくまでも志願であった。当時の雰囲気で志願の強制に陥ったことは生存者の手記等で十分にうかがわれるが、極力、志願を根本としたことは、編成面や天皇への上奏で明らかである」「映画の観客に媚びるために多少のラブシーンは仕方ないが、新鮮、清潔でほどほどにしてほしい」「できれば原稿を一覧させてほしい」などと要望の手紙を出したが、高木はこの手紙の内容を、旧軍人の権威主義に基づくおどしであり、検閲に等しいものだと激しく非難し、内容を暴露、特に「ラブシーンの抑制」の意見に関しては、特攻隊員が愛する女性への未練を残すような描写をすることは、特攻隊員を神扱いにし、祖国に対して未練も無く勇ましく出撃したという菅原ら旧軍人の理想像に反するから要望したと激しく批判した[32]

『知覧』においても、高木が航空自衛隊に取材に訪れた際に、同席していた菅原から「特攻隊のことを書くのは結構だが、特攻観音のことも、大いに書いてもらいたい。わしは今日も、お参りに行くところだが、このことを、よく念を押そうと思って君がくるのを待っていたのだ」と話しかけられたことを、「特攻観音の建立に協力し慰霊もして罪の償いはできたとアピールしていると感じた」と、菅原ら元特攻関係者らが、責任逃れの一環として特攻隊員の慰霊活動をしているとする非難する記述を行った[33]。特攻観音については、戦後に自費で全国の特攻隊員遺族巡りをしていた菅原が音頭をとって、元日本陸軍航空総軍司令官河辺正三軍令部総長及川古志郎ら元軍幹部など「特攻平和観音奉賛会」を設立[34]法隆寺の夢違観音像にちなみ、胎内に菅原直筆の特攻戦没者の芳名を記した巻物が収められた[35]「特攻平和観音像」を4体建立し、うち1体を、陸軍航空隊の特攻基地であった知覧に祀りたいと申し出たものであり[36]、同時に、菅原らは観音像を祀る観音堂建立のため知覧町に協力を要請し、日本全国でも寄付金を募った[37]。地元知覧でも、「特攻の母」として高名であった鳥濱トメが知覧町役場に協力を要請するなど積極的に行動していたが、観音堂建立の動きは戦後間もなくの反軍反戦の風潮のなか、平和運動団体などから「戦争賛美」と批判されるなど大変な苦労をしており[38]、鳥濱ら関係者はその都度「戦争犠牲者慰霊のための観音堂がなぜ悪いか」とはっきり反論し、建立にこぎつけたものであった[39]

高木に対しては、菅原も資料の提供などの協力を行っていたのに、高木の記述は必ずしも資料や証言通りではなかったので、菅原の周囲は高木に抗議すべきと促したが、菅原本人は「放っておけ、わかっている人はわかっているんだから」と意に介さず、「高木俊朗にはあること無いことを書かれてしまったよ」と笑いながら語り、敢て反論はしなかったという[40]。高木は、菅原に対する批判的な記述をしていたのにも関わらず、菅原の陸軍幼年学校からの永年の同窓で盟友でもある石原莞爾に関する著作の執筆を計画したときには、菅原に資料の提供を要請している。自分の批判に対する反論を控えていた菅原ではあったが、「君に資料を貸したら、全く逆のことを書かれてしまう。断る」と協力をきっぱりと拒絶したため、それ以降、前にも増して高木の著作に菅原を非難する記述が目立つようになった[41]。その後も『陸軍特別攻撃隊』など高木の著作の引用などにより、菅原には「死を恐れて自決もしなかった愚将」という評価が定着していき、同じように戦後に自決することがなかった特攻隊指揮官富永恭次とともに強い批判を浴びたが、菅原がその悪評に対して積極的に反論することはなかった[41]

富永恭次陸軍中将との関わり編集

高木は富永についても『陸軍特別攻撃隊』で強く批判し、後書きでは「富永は異常であった」などと自らの主観で痛罵している[42]。しかしその根拠として挙げられたもののなかには、富永がフィリピンの前線から台湾へ、大本営などの上部組織の承諾をとらずに無断撤退したことにより、陸軍中央からの処分を待っている間の出来事として、富永が台湾撤退以降滞在していた屏東基地において、屏東基地将校団(駐屯している飛行第8戦隊の将校のみでも佐官10名、尉官32名の合計42名[43])全員分の肉や魚を全部富永がひとりで食べてしまい、将校団の食事が貧層になったなどという、現実性に乏しい真偽不明なエピソード含まれている[44]

また、富永が戦後にソビエト連邦に捕虜となった際に、1941年のソ連攻撃計画(いわゆる関東軍特種演習)についてソ連軍から尋問されて、「私は宮中に行き、天皇と閑院宮載仁親王にこの計画を説明した」「数日後、天皇はこれを承認した」という、天皇に戦争責任があるかのような自供をし、この自供は天皇の戦争責任を追求するためのソビエト連邦のプロパガンダとして利用されて、1946年8月31日にはモスクワから全世界に向けてラジオ放送されたとなどと、批判的な記述しているが[45]、富永が、対ソビエト謀略の最前線にいたことが多かったので、わざわざモスクワに護送され、ルビャンカの監獄に拘置されて厳しい尋問を受けながらも、なかなか核心に至る証言をしなかったので、尋問は6年もの長きに渡ったことや[46]、その尋問の結果、1952年1月モスクワ軍管区の軍法会議にかけられ、当初は死刑を求刑されていたが、懲役75年の判決が確定して、シベリア鉄道バイカル・アムール鉄道(バム鉄道)の沿線となるタイシェットラーゲリに送られたことは記述されていない。バム鉄道沿線のラーゲリの労働条件はもっとも厳しく、特にバム鉄道の建設に従事させられた抑留者は「枕木1本に日本人死者1人」と言われたぐらい死亡者が多かったという[47]。そのような環境下で、富永は将官であったからといって特別扱いを受けることは無く、一般の兵士と同様に、材木のノコギリ引き、建材製造、野菜の選別、雪かき、掃除等の重労働が課せられた。その後も、2年で4カ所のラーゲリを転々とさせられ、ラーゲリ内では看守から踏んだり蹴ったりという暴力を振るわれていた[48]

ラーゲリでは、ソ連側の政治教育が継続的に行われていたが、もっとも重要視されたのは、天皇制破壊、天皇制打倒だった。ソ連は教育を受け入れた者は早めに帰国させるという条件を出していたので、早く故国に帰りたいという一心でソ連の政治教育を受け入れた抑留者も多かったが、富永はそれをはねのけていたという。そのためか体調がすぐれない富永に他の健常者と同様な強制労働が課せられていたが、同じ抑留者たちが富永を支えてくれたので、どうにか生き長らえることができた。しかし、1954年春に高血圧症から脳溢血を発症して入院、医師の診断の結果、今後、強制労働につくのは無理とされて、裁判により釈放が決定された。富永はその判決を病院までわざわざ出向いてきた裁判官から直接聞かされたという[49]

1955年(昭和30年)4月18日、引揚船「興安丸」で舞鶴港に帰国し、多くの旧軍人ら関係者たちが出迎えた。富永は10年間の抑留生活と脳溢血の影響ですっかりと身体は弱っており、ひとりで満足に歩行できず、しゃべるのも困難となっていたことについて高木は、富永が船内で見栄のために服を着替えたことを取り上げて、そこまで体調は悪くないのではと疑問を投げかけているが、富永が脳溢血を発症して、健康面の問題から解放されたことには触れていない[50]。また、帰国した富永は「シベリアでわが将兵、わが同胞が現在なお、いかに苦しい思いをしているかを説明し、帰還を促進してもらうよう陳情します」と、自分と同じ境遇ながらまだ帰国を果たせないシベリア抑留者の解放に向けて尽力することとし[51]国会参考人として自身の体験を証言して、日本政府に問題解決を訴えているが、このことについても高木は無視している[52]

さらに国会で富永が、相馬助治参議院議員から、「率直に申して、あなたの評判はきわめてまずい。いわゆるフィリピンから引き揚げられたときのことがいろいろジャーナリストの諸君によってうわさされております。おそらく、あなた自身にしては御迷惑な思慮判断等によって不当の批判を受けている面もおありと私は思うのです」と、帰国後に雑誌サンデー毎日などから、第4航空軍司令官時の作戦指揮について批判されていることへの質問がなされているが、富永は「皆、私の不徳不敏のいたすところでございまして、私としては、この敗軍の将たる私が、別に私から御説明申すことは一言もなく、ただすべて私の不徳不敏のいたすところと、深く皆様方を初め国民の各位におわびを申すほかはございません。みな私の至らぬ不敏不徳の結果でございまして、いかなる悪評をこうむりましても、私としては何の申し上げようもございません」「この点は、私は一身をもってこの責任を負いまして、すべての悪評はすべて一身に存することを覚悟いたしております」「この間のサンデー毎日なんかにも、私の信頼する幕僚にあたかも罪あるがごとくに書いてございましたけれども、これは全くそうではございません。私が皆悪いために、ああいう批評を受ける次第でございます。どうかそのおつもりで、私の周囲の者に何らの罪もなければ、何らの責任もなく、すべて私が負うべき責任でございます。この点はくれぐれも御了承をお願いいたします。」と答え、敗軍の将の自分が語ることはなにもないが、全ては自分の責任であったと陳謝し[53]、新聞の投書欄で富永を擁護した長女に「余計なことをするな」と叱りつけるなど、沈黙を貫いたのにも関わらず[54]、唯一、富永が戦時中の回想として書いた「比島航空作戦の回顧」という回顧録の記述を持って、高木は富永が保身に汲々としているとも批判している[55]。この回想録についても、「少しも戦場における勘の鋭さがなく、神通力という域にはおよそ縁遠い幼稚な観察眼だと笑われても一言もない」「馬車馬的な視野狭少の感あり、心を込めて幕僚の具申に相済まぬことをしたとと自らの不明を恥じている」「私の不徳、私の連携の不十分の致すところ、これまた恐悦至極の至りである」と富永は懺悔の言葉を並べている[56]

特攻基地知覧との関わり編集

特攻基地があった知覧町の知名度向上には、高木の文筆活動が大いに貢献している。高木は、自らが批判している菅原ら特攻指導者が主導して建立した「特攻平和観音像」に対して否定的であったが、功利打算なく特攻隊員を供養し続ける鳥濱をクローズアップすることで「特攻平和観音像」に意義を見いだそうと考え、自分の著作に鳥濱を何度も登場させた。とくに1964年6月劇場公開された、高木の特攻に関する著作の映画化である『出撃』で鳥濱を「特攻おばさん」として紹介、この映画上映後に高木は知覧を訪れて、鳥濱の旅館に宿泊し、知覧高等女学校の女生徒で編成された勤労奉仕隊「なでしこ隊」の元女学生らから証言を集めるなど取材を行って、この取材に基づき、1964年から1965年にかけて「週刊朝日」で知覧特攻基地についての連載を行い、後にこの連載は『知覧』として書籍化された[57]。高木が知覧町に訪れたときに撮影された、笑顔で会食する高木と元女学生の写真が知覧町の町報に掲載されており、当時の高木に対する知覧町の歓迎の様子がうかがえる[58]

鳥濱は高木の著作に取り上げられたことで、知名度が全国区となっていったが、さらに1972年に、歌謡曲『岸壁の母』を二葉百合子がカヴァーしたことによって起こったリバイバルブームで、『岸壁の母』のモデル端野いせのように銃後の母の物語が注目されるようになり、自分の息子のように特攻隊員と優しく接した鳥濱も銃後の母の1人としてクローズアップされて、「特攻おばさん」から「特攻の母」と呼び名が変わり、更に知名度が向上していき、全国放送のテレビ番組にも出演して、鳥濱をモデルにした歌謡曲『基地の母』(歌唱:菊池章子)もレコード化された。この曲が発売されたあとには、鳥濱と歌手の菊池と「岸壁の母」端野の3名が、「特攻平和観音像」建立後に毎年開催されるようになっていた「知覧特攻基地戦没者慰霊祭」に参列する様子が、読売新聞などの全国紙に取り上げられ、知覧町の町報にも大きく取り上げられた[59]

1960年代から1970年の知覧町は過疎化が進行し、また知覧茶に代表される主要産業であった茶業も嗜好の変化によって苦境に立たされていた。そこで、知覧町は地域活性の起爆剤として、高木の文筆活動によって向上していた知名度にあやかって、知覧特攻観音付近を観光資源として開発を進めることにした[60]。まずは、知覧基地跡地に整備されていた運動公園に休憩所を新築、その2階を特攻隊員の遺品や遺書を展示する知覧特攻遺品館として整備することとし、陸軍航空隊陸軍少年飛行兵戦友会「少飛会」などと連携し全国で寄付を募り、不足分は知覧町が地方債を発行して調達した[61]

このように、知覧町は特攻を観光資源として観光地化を進めており、その経過で「特攻平和観音像」建立の発起人として、自らガリ版刷りで案内状を印刷するなど主導的な立場で、特攻隊員の慰霊・顕彰に尽力し成果を挙げていた菅原[62]ら特攻作戦を推進した旧軍人とも良好な関係を築いていた。知覧町の住民も、慰霊祭などで知覧を訪れる旧軍人を表立って批判することはなかったので、旧軍人や特攻には徹底して批判的であった高木は次第に苛立ちを募のらせていく[63]。当時の旧軍人と知覧町の関係については、菅原らの「知覧特攻基地戦没者慰霊祭」の参列がたびたび知覧町の町報で報じられており、良好な関係がうかがえる[64]

高木が知覧特攻遺品館を訪れた際には、特攻の概要の音声説明に高木の著作の記述の一部が無断で使用されていたり、また遺品の展示の仕方や施設の運営のあり方も高木の理想とはほど遠かったため、「特攻遺品館は、低俗、後進意識で運営されている」「特攻を観光化して不潔」などと激しい言葉で批判[65]、また以前は懇意にしていた「なでしこ隊」の元女学生らが出版した『知覧特攻基地』という著作を「私の著作に反論し、特攻を肯定する著作だ」と激しく非難し[66]、元女学生のひとりの「特攻隊員たちは、日本の平和を願いながら出撃していきました」という言葉に目くじらを立てて、「これは、作り話だ」とも断じている[67]。ただし、『知覧特攻基地』は「なでしこ隊」の女生徒自らの戦中戦後の手記や、特攻隊員の遺書等をまとめたもので、女学生側からの高木に対する反論の記述はない[68]

一方で、高木が著書の中に掲載した「なでしこ隊」の女学生が作ったとする短歌が、実は高木自身が作ったものであり、短歌の作者として実在の女学生の名前を勝手に使用していたということが判明したり[69]、当初は快く高木の取材を受けていた鳥濱が、話したことと著作の記述があまりにも違っていたり、著書には記述しないと約束していた、関係者の出自に関するプライバシーを、鳥濱の許可なく記述されたりしたことが続いたため、不信感を募らせてすっかり取材嫌いとなってしまい、後年は高木を含むジャーナリズムに関係する人間の取材を「あんたらに話すことはなにもないよ」と一切拒否するようになってしまった[70]。高木は「事実を書くためには、個人の生活や気持ちをあからさまにすることも必要であった」と主張しているが[71]、プライバシーを暴かれた鳥濱の方は、心を許していた元特攻隊員に「世の中には我が事ばかり考えて、人様の迷惑は顧みない人が多い」とこぼしていたという[72]。高木が激しい言葉で批判した「知覧特攻遺品館」においても、高木が自身の著作の販売を申し入れしたところ、当時の館長がその申し入れを拒否しているなど[73]、高木と知覧町の人たちは、最後には完全に袂を分かつこととなっている[63]


著作編集

単著編集

  • 『イムパール』雄鶏社、1949年5月。
    • 『インパール』文藝春秋、1968年8月。
    • 『インパール』文藝春秋〈文春文庫〉、1975年7月。ISBN 9784167151010
    • 『インパール』文藝春秋〈文春文庫〉、2018年7月、新装版。ISBN 9784167911133
  • 『遺族 戦歿学徒兵の日記をめぐって』出版協同社、1957年7月。
    • 『遺族 戦歿学徒兵の日記をめぐって』文藝春秋企画出版部、2006年7月。
  • 『知覧』朝日新聞社、1965年9月。
    • 『知覧 若き特攻隊員の悲劇の記録』学習研究社〈中学生の本棚 9〉、1970年3月。
    • 『特攻基地 知覧』角川書店〈角川文庫〉、1973年7月。
    • 『特攻基地 知覧』角川書店〈角川文庫〉、1995年5月、改版。ISBN 9784041345016
  • 『抗命 インパール作戦烈師団長発狂す』文藝春秋、1966年11月。
    • 『抗命』文藝春秋〈文春文庫〉、1976年11月。ISBN 9784167151027
    • 『抗命 インパール2』文藝春秋〈文春文庫〉、2019年8月、新装版。ISBN 9784167913373
  • 『戦死』朝日新聞社、1967年8月。
    • 『戦死 インパール牽制作戦』文藝春秋〈文春文庫〉、1984年12月。ISBN 9784167151034
  • 『全滅 インパール作戦 戦車支隊の最期』文藝春秋、1968年6月。
  • 『憤死 インパール作戦 痛根の祭師団参謀長』文藝春秋、1969年8月。
  • 『神風特攻隊の出撃 太平洋上の死闘』小野田俊絵、偕成社〈太平洋戦史 4〉、1970年1月。
  • 『狂信』朝日新聞社、1970年8月。
  • 『焼身 長崎の原爆・純女学徒隊の殉難』毎日出版社、1972年。
    • 『焼身 長崎の原爆・純女学徒隊の殉難』角川書店〈角川文庫〉、1980年8月。ISBN 9784041345030
  • 『陸軍特別攻撃隊』上巻、文藝春秋、1974年11月。
  • 『陸軍特別攻撃隊』下巻、文藝春秋、1975年1月。
    • 『陸軍特別攻撃隊』上巻、文藝春秋、1983年8月、新装版。
    • 『陸軍特別攻撃隊』下巻、文藝春秋、1983年8月、新装版。
    • 『陸軍特別攻撃隊』1、文藝春秋〈文春文庫〉、1986年8月。ISBN 9784167151041
    • 『陸軍特別攻撃隊』2、文藝春秋〈文春文庫〉、1986年8月。ISBN 9784167151058
    • 『陸軍特別攻撃隊』3、文藝春秋〈文春文庫〉、1986年8月。ISBN 9784167151065
    • 『陸軍特別攻撃隊』1、文藝春秋〈文春学藝ライブラリー 歴史 31〉、2018年12月。ISBN 9784168130779
    • 『陸軍特別攻撃隊』2、文藝春秋〈文春学藝ライブラリー 歴史 32〉、2019年1月。ISBN 9784168130786
    • 『陸軍特別攻撃隊』3、文藝春秋〈文春学藝ライブラリー 歴史 33〉、2019年2月。ISBN 9784168130793
  • 『ルソン戦記 ベンゲット道』文藝春秋、1985年1月。
    • 『ルソン戦記 ベンゲット道』上巻、文藝春秋〈文春文庫〉、1989年8月。ISBN 9784167151096
    • 『ルソン戦記 ベンゲット道』下巻、文藝春秋〈文春文庫〉、1989年8月。ISBN 9784167151102
  • 『戦記作家高木俊朗の遺言』1、文藝春秋企画出版部、2006年7月。ISBN 9784160080249
  • 『戦記作家高木俊朗の遺言』2、文藝春秋企画出版部、2006年7月。ISBN 9784160080249

編集編集

  • 『戦火の中で』筑摩書房〈現代日本記録全集 第22〉、1969年10月。

演じた俳優編集

  • 北村和夫(『遺族』、1961年NHKドラマ、脚本:山田洋次)高木の『遺族 戦歿学徒兵の日記をめぐって』がベースの書き下ろし作で、山田洋次の本格的な脚本家デビュー作となった。山田によれば登場人物の名前を変えた以外は原作に忠実に書いたとのこと。高木は「高田」という名前の報道班員として登場し、特攻隊員から託された遺書を、戦後に遺族に届けようとする。途中に実際の特攻隊員の遺族へのインタビューも挿入されている。
  • 石坂浩二(『空よ海よ息子たちよ』、1981年TBS特別ドラマ、主演:吉永小百合)高木の『知覧』『陸軍特別攻撃隊』をベースに脚本家木下惠介が書き下ろしたオリジナルドラマ、高木は「高田」という名前で、報道班員としてドラマに登場し、ナレーションもつとめる。

脚注編集

  1. ^ 高木俊朗 1957, p. 89
  2. ^ 高木俊朗Ⅱ 2006, p. 90.
  3. ^ 「展覧会 慶應義塾と戦争ⅠⅠ 残されたモノ、ことば、人々」資料番号1-4 沖縄特攻出撃前夜に記した「所感」(上原良司) 昭和20年5月10日
  4. ^ 毎日新聞『信州・歴史探訪 特攻隊・上原良司さんの碑(池田町) 出撃前夜の思い刻む』2016年11月10日記事
  5. ^ 都倉武之「「特攻隊員・上原良司」の誕生」、慶應義塾大学メディア・コミュニケーション研究所。
  6. ^ 穂苅稔編『新版有明山に日かげさし』(上原良司の灯を守る会,2013 年),P47
  7. ^ 都倉武之「「特攻隊員・上原良司」の誕生」、慶應義塾大学メディア・コミュニケーション研究所。
  8. ^ 高木俊朗 1979, 電子版, 位置No.4294
  9. ^ 都倉武之「「特攻隊員・上原良司」の誕生」、慶應義塾大学メディア・コミュニケーション研究所。
  10. ^ 『イムパール』P367、P369
  11. ^ これらの経緯は「あとがき」『抗命 インパール』にて高木自身が記している。
  12. ^ 山下實六「インパール作戦における烈兵団長の精神鑑定」『九州神経精神医学』24巻1号 1978年4月
  13. ^ 高木俊朗 1979, 電子版, 位置No.4247
  14. ^ 高木俊朗 1979, 電子版, 位置No.2505
  15. ^ 深堀道義 2001, p. 330.
  16. ^ 深堀道義 2001, p. 331.
  17. ^ 高木俊朗 1979, 電子版, 位置No.4147
  18. ^ “浅井達三氏死去/元従軍カメラマン”. 四国新聞社. (2002年4月28日). http://www.shikoku-np.co.jp/national/okuyami/article.aspx?id=20020428000427 2020年2月21日閲覧。 
  19. ^ 深堀道義 2001, p. 329.
  20. ^ 深堀道義 2004, p. 7.
  21. ^ 深堀道義 2001, p. 333.
  22. ^ 森本忠夫 1992, pp. 130-133
  23. ^ 小野田政 1971, p. 20
  24. ^ 深堀道義 2001, pp. 278-279
  25. ^ 大東亜戦史③ 1969, p. 381
  26. ^ 高木俊朗㊤ 1983, p. 292
  27. ^ 高木俊朗㊤ 1983, p. 297
  28. ^ 現代読本④ 1956, p. 252
  29. ^ 高木俊朗 1979, 電子版, 位置No.4271
  30. ^ 都倉武之「「特攻隊員・上原良司」の誕生」、慶應義塾大学メディア・コミュニケーション研究所。
  31. ^ 1964年6月劇場公開「出撃」、配給:日活、監督:滝沢英輔、脚本:八住利雄、主演:浜田光夫
  32. ^ 高木俊朗③ 2018, pp. 465-474
  33. ^ 高木俊朗 1979, 電子版, 位置No.3838
  34. ^ 佐藤, pp. 239-255.
  35. ^ 『特攻隊振武寮』p.278
  36. ^ 知覧高女なでしこ会 1979, p. 219
  37. ^ 知覧町「母の像・特攻平和会館の由来 世界恒久平和を願って」、知覧町、1999年5月。
  38. ^ 福間 & 山口 2015, p. 37.
  39. ^ 佐藤, p. 255.
  40. ^ 深堀道義 2001, p. 336.
  41. ^ a b 深堀道義 2001, p. 337.
  42. ^ 高木俊朗Ⅱ 2006, p. 220.
  43. ^ アジア歴史センター「第10方面軍 隷下第8飛行師団編制人員表」「陸軍飛行第8戦隊(司偵・軽爆)」p.75
  44. ^ 高木俊朗Ⅱ 2006, p. 222.
  45. ^ 高木俊朗③ 2018, p. 425
  46. ^ 1955年(昭和30年)5月12日(木曜日)第022回 参議院 社会労働委員会 第005号
  47. ^ 2014年10月19日付神奈川新聞『シベリア抑留 何があったのか(上)飢えと極寒、倒れる戦友』
  48. ^ 1955年(昭和30年)5月12日(木曜日)第022回 参議院 社会労働委員会 第005号
  49. ^ 1955年(昭和30年)5月12日(木曜日)第022回 参議院 社会労働委員会 第005号
  50. ^ 高木俊朗③ 2018, p. 429
  51. ^ 高木俊朗③ 2018, p. 429
  52. ^ 1955年(昭和30年)6月9日 第022回 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第003号
  53. ^ 1955年(昭和30年)5月12日(木曜日)第022回 参議院 社会労働委員会 第005号
  54. ^ 『サンデー毎日 1955年5月8日号』 p.83
  55. ^ 高木俊朗③ 2018, p. 439
  56. ^ 戦史叢書48 1971, p. 付録.
  57. ^ 福間 & 山口 2015, p. 109.
  58. ^ 福間 & 山口 2015, p. 46.
  59. ^ 福間 & 山口 2015, p. 117.
  60. ^ 福間 & 山口 2015, p. 55.
  61. ^ 福間 & 山口 2015, p. 56.
  62. ^ 水町博勝「菅原道煕顧問追悼の記」『特攻』第92号、公益財団法人特攻隊戦没者慰霊顕彰会、2012年8月、 13頁。
  63. ^ a b 福間 & 山口 2015, p. 50.
  64. ^ 福間 & 山口 2015, p. 62.
  65. ^ 福間 & 山口 2015, p. 83.
  66. ^ 高木俊朗③ 2018, pp. 561-562
  67. ^ 高木俊朗 1979, 電子版, 位置No.4283
  68. ^ 知覧高女なでしこ会 1979, pp. 216-281
  69. ^ 深堀道義 2004, p. 242.
  70. ^ 佐藤, p. 232.
  71. ^ 高木俊朗 1979, 電子版, 位置No.4202
  72. ^ 深堀道義 2004, pp. 247-248.
  73. ^ 深堀道義 2004, p. 243.

参考文献編集

  • 戦記作家 高木俊朗の遺言』1・2 (文藝春秋企画出版部、2006年) ISBN 4-16-008024-3
  • 高木俊朗『遺族―戦歿学徒兵の日記をめぐって』出版協同社、1957年。ASIN B000JACPKY
  • 高木俊朗『知覧』朝日新聞社、1965年。ASIN B000JACPKY
  • 高木俊朗『陸軍特別攻撃隊 上巻』文藝春秋、1983年。ISBN 978-4163381800
  • 高木俊朗『陸軍特別攻撃隊 下巻』文藝春秋、1983年。ISBN 978-4163381909
  • 『戦記作家高木俊朗の遺言』1、文藝春秋企画出版部、2006年7月。ISBN 9784160080249
  • 『戦記作家高木俊朗の遺言』2、文藝春秋企画出版部、2006年7月。ISBN 9784160080249
  • 小野田政 『太平洋戦争ドキュメンタリー〈第23巻〉神風特攻隊出撃の日』 今日の話題社、1971年。ASIN B000J9HY06 
  • 森本忠夫『特攻 外道の統率と人間の条件文藝春秋、1992年。ISBN 4-16-346500-6
  • 深堀道義『特攻の真実―命令と献身と遺族の心』原書房、2001年。ISBN 978-4562040957
  • 深堀道義『特攻の総括―眠れ眠れ母の胸に』原書房、2004年。ISBN 978-4562037490
  • 佐藤早苗『特攻の町・知覧 最前線基地を彩った日本人の生と死光人社〈光人社NF文庫〉、2007年。ISBN 978-4-7698-2529-6
  • 知覧高女なでしこ会『知覧特攻基地』文和書房、1979年。ASIN B000J8EH70
  • 福間良明、山口誠『「知覧」の誕生―特攻の記憶はいかに創られてきたのか』柏書房、2015年。ISBN 978-4760146109
  • 『比島捷号陸軍航空作戦』防衛庁防衛研修所戦史室 編、朝雲新聞社〈戦史叢書48〉、1971年。
  • 『大東亜戦史』3 フィリピン編、池田佑 編、富士書苑、1969年。ASIN B07Z5VWVKM
  • 『現代読本』4 日本特攻隊総集版、日本文芸社 編、日本文芸社、1956年。

関連項目編集