高杉晋一
日本の実業家
高杉 晋一(たかすぎしんいち、1892年(明治25年)3月1日 - 1978年(昭和53年)6月6日)は、日本の実業家。
来歴
編集1892年3月1日、茨城県鉾田町の高杉健作の子として生まれる。1910年(明治43年)、土浦中学校卒業(岡野保次郎と同期)[2]。第二高等学校を経て、1917年(大正6年)東京帝国大学法学部を卒業。
同年三菱合資銀行部に入社。名古屋支店長を経験し、監査、取締常務を歴任する。1947年(昭和22年)1月、三菱電機社長となる。1956年(昭和31年)11月、三菱電機会長となる。1962年(昭和37年)、同会長を退任。
1964年(昭和39年)12月14日、日韓会談における日本側首席代表の杉道助が死去[3]。1965年(昭和40年)1月7日、高杉は杉の後任に就任。そしてこの日、外務省記者クラブにおいて「日本は朝鮮を支配したが、いいことをしようとした」「創氏改名もいいこと」「搾取とか圧迫とかいうものでない」などと発言した。日韓会談の停滞・破談を恐れた韓国側の要請で、当該発言はオフレコ扱いとされたが、同月10日に『赤旗』が、同月19日に韓国の『東亜日報』が高杉の発言を暴露した[3]。
栄典
編集脚注
編集- ^ a b 『中日新聞』1965年6月23日付朝刊、1面、「日韓条約・協定に調印」。
- ^ “【土浦一高東進会長挨拶】”. 土浦一高 東進会. 2021年4月13日閲覧。
- ^ a b 梶居佳広. “日韓国交正常化(1965年)と主要紙社説”. 立命館大学. 2025年5月27日閲覧。
- ^ 中野文庫 旧・勲一等瑞宝章受章者一覧
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