高橋由一
高橋 由一(たかはし ゆいち、文政11年2月5日〈1828年3月20日〉- 明治27年〈1894年〉7月6日)は、江戸生まれの日本の洋画家。幼名は猪之助、のち佁之介。名は浩、字は剛。明治維新後に由一を名乗る。号は藍川、華陰逸人。居庵号は、石蒼波舎、伝神楼。
高橋 由一 | |
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![]() 高橋由一 | |
生誕 | 1828年3月20日![]() |
死没 | 1894年7月6日 (66歳)![]() |
国籍 | ![]() |
教育 | 洋書調所画学局、工部美術学校 |
著名な実績 | 洋画家 |
代表作 | 『花魁』『鮭』 |
影響を受けた 芸術家 | 川上冬崖、チャールズ・ワーグマン、アントニオ・フォンタネージ |
近世にも洋画や洋風画を試みた日本人画家は数多くいたが、由一は本格的な油絵技法を習得し江戸後末期から明治中頃まで活躍した、日本で最初の「洋画家」といわれる[要出典]。
略歴 編集
生い立ち 編集
佐野藩(佐倉堀田藩の支藩)藩士高橋源十郎の嫡子として、江戸大手門前の藩邸で生まれる。家は代々新陰流免許皆伝で、藩内で剣術師範を勤めた。この頃婿養子だった父は母と離縁し、由一は祖父母と母に育てられる。天保7年(1836年)藩主堀田正衡の近習を務め、のち近習長となり図画取扱を兼務したという。
わずか数え2歳で絵筆を取って人面を描き、母たちを驚かせたという。12、3歳頃から堀田家に出入りしていた狩野洞庭、ついで狩野探玉斎という絵師に狩野派を学ぶ。しかし、当時は祖父について家業の剣術指南役を継ぐための剣術修行と藩務に忙しく、絵画修業は休みがちになってしまったため、探玉斎の門を退き以後独学で画を学ぶ。弘化4年(1847年)20歳の時に描いた廣尾稲荷神社拝殿天井画「墨龍図」は、狩野派の筆法で力強い龍を描いており、すでに日本画家として充分な力量を備えていた事が窺える。この頃になると、由一が絵の道に進むことを許さなかった祖父も、由一が生来病弱で剣術稽古も休みがちになっていったことを見て、ある時突然剣術の後継者は門人から選ぶので、武術を捨て画学の道に進むことを許される。親戚の紹介で文晁系に属する吉澤雪菴に師事するが、やはり藩の勤務が忙しく充分に学べなかったという。
洋画家を目指して 編集
嘉永年間のある時、西洋製の石版画に接し、日頃目にする日本や中国の絵とは全く異なる迫真的な描写に強い衝撃を受ける。以後、洋画の研究を決意し、生涯その道に進むことになる。文久2年9月5日(1862年10月27日)に蕃書調所の画学局に入局し、川上冬崖に師事した。元治1年12月6日、開成所画学出役となった。本格的に油彩を学ぶことができたのは、慶応2年(1866年)、当時横浜に住んでいたイギリスの画家・ワーグマンに師事したときで翌年にはパリ万国博覧会へ出展している。
明治時代に入り民部省の吏生や大学南校の画学教官など官職を務めるが明治6年(1873年)6月には官職を辞して日本橋浜町に画塾である天絵社を創設し(1879年天絵学舎と改称、1884年閉鎖)、弟子第一号の淡島椿岳や原田直次郎、息子の高橋源吉、日本画家の川端玉章、岡本春暉、荒木寛畝ら多くの弟子を養成する。天絵社で毎月第1日曜に展覧会をひらき、自作および門下生の作品を展覧した。明治9年(1876年)、工部美術学校の西洋絵画教師として来日した、イタリア人画家アントニオ・フォンタネージと交流を深め、作画の指示を仰いだ。
明治12年(1879年)に金刀比羅宮で開かれた第2回琴平山博覧会で、天絵舎に資金援助してもらうため、作品を奉納した。そのため、金刀比羅宮は由一の作品を27点収蔵しており、現在は金刀比羅宮境内にある「高橋由一館」に展示されている。
人物、風景などの作品もあるが、代表作として挙げるべきは『鮭』(東京芸術大学)であろう。極端に縦長の画面に縄で吊るされ、なかば身を欠き取られた鮭のみを描いたこの作品は西洋の模倣ではない文字通り日本人の油絵になっていると評されている。明治12年(1879年)には元老院の依頼で明治天皇の肖像も描いた。1880年4月から8月まで主幹として美術雑誌『臥遊席珍』全5号刊行。
明治14年(1881年)より山形県令であった三島通庸の要請により、三島の行った数々の土木工事の記録画を描いている。代表的なものとして『栗子山隧道図西洞門』がある。明治18年(1885年)12月21日、「展画閣ヲ造築セン事ヲ希望スルノ主意」を元老院議長佐野常民に提出する[1]。
明治27年自宅で逝去。法名は実際院真翁由一居士。墓所は渋谷区広尾の臨済宗祥雲寺。回想記に『高橋由一履歴』がある。洋画家の安藤仲太郎は甥。
代表作 編集
タイトル | 制作年 | 技法・素材 | サイズ(縦x横cm) | 所蔵先 | 備考 |
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花魁 | 1872年(明治5年) | 油彩・キャンバス | 77.0x54.8 | 東京芸術大学 | 重要文化財 |
墨水桜花輝耀の景 | 1874年(明治7年) | 油彩・キャンバス | 61.0x80.0 | 府中市美術館 | |
初代玄々堂像 | 1875年(明治8年) | 油彩・キャンバス | 59.2x42.8 | 神戸市立博物館[2] | |
司馬江漢像 | 1875-1876(明治8-9年)頃 | 油彩・キャンバス | 60.7x45.2 | 東京芸術大学 | |
雪景 | 1876年(明治9年)頃 | 55.1x85.5 | 東京国立博物館 | ||
江の島図 | 1876-77年(明治9-10年) | 油彩・キャンバス | 17.2x74.7 | 神奈川県立近代美術館 | |
甲冑図 | 1877年(明治10年) | 靖國神社遊就館 | |||
官軍が火を人吉に放つ図 | 1877年(明治10年) | 油彩・キャンバス | 65.7x121.3 | ウッドワン美術館 | 同年11月の天絵社月例展示会出品。この光景は由一自身が目にしたわけでは無く、門人の石井冽造が臨写した戦争実況図に基づく[3]。 |
鮭 | 1877年(明治10年)頃 | 油彩・紙 | 140.0x46.5 | 東京芸術大学 | 重要文化財 |
浴湯図 | 1878年(明治11年) | 水彩・紙 | 25.0x35.2 | 東京芸術大学 | |
不忍池 | 1880年(明治13年)頃 | 油彩・キャンバス | 67.0x97.2 | 愛知県美術館 | |
上杉鷹山像 | 1881年(明治14年) | 118.2x73.6 | 東京国立博物館 | ||
大久保利通像 | 1881年(明治14年) | 118.2x73.6 | 東京国立博物館 | ||
栗子山隧道図 | 1881年(明治14年) | 油彩・キャンバス | 99.1x146.5 | 三の丸尚蔵館 | 栗子山隧道開通式に出席した明治天皇が、行在所に掛けてあった本作を見てその場で買い上げ[4]。 |
山形市街図 | 1881年-1892年(明治14-15年) | 山形県 | |||
岩倉具視之像 | 1890年(明治23年)頃 | 油彩・キャンバス | 103.0x72.5 | 三の丸尚蔵館 | 由一自身が献上した作品か[4]。 |
西周像 | 1893年(明治26年) | 油彩・キャンバス | 107.0x75.9 | 津和野町郷土館[5] | 島根県指定文化財 |
西周像 | 1893年(明治26年)頃 | 油彩・キャンバス | 108.0x76.8 | 太皷谷稲成神社[5] | |
国府台真景 | 65.5x98.8 | 東京国立博物館 | |||
日本武尊 | 油彩・キャンバス | 65.3x51.5 | 東京芸術大学 |
脚注 編集
- ^ 高橋由一履歴 高橋源吉編
- ^ 神戸市立小磯記念美術館編集・発行 『神戸市立博物館所蔵 洋画コレクション』 2018年5月22日、第2図。
- ^ ウッドワン美術館編集発行 『ウッドワン美術館 名品選集』 2017年9月、pp.92-93,219。
- ^ a b 宮内庁三の丸尚蔵館編集 『明治美術の一断面 ―研ぎ澄まされた技と美 三の丸尚蔵館展覧会図録NO.82』 宮内庁、2018年11月3日、第22-23図。
- ^ a b 神奈川県立近代美術館編集・発行 『「美は蘇る 検証・二枚の西周像―高橋由一から松本竣介まで」展 図録』 2013年。
参考資料 編集
- 歌田眞介編 『高橋由一油画の研究 明治前期油画基礎資料集成』 中央公論美術出版、1994年 ISBN 4-8055-0284-3
- 山梨絵美子 『日本の美術349 高橋由一と明治前期の洋画』 至文堂、1995年 ISBN 978-4-7843-3349-3
- 歌田眞介 『油絵を解剖する 修復から見た日本洋画史』 日本放送出版協会、2002年 ISBN 978-4-1400-1932-0
- 古田亮 『狩野芳崖・高橋由一 日本画も西洋画も帰する処は同一の処』 ミネルヴァ書房 <ミネルヴァ日本評伝選>、2006年 ISBN 978-4-6230-4561-7
- 古田亮 『高橋由一 日本洋画の父』 中央公論新社<中公新書2161>、2012年 ISBN 978-4-12-102161-8
- 展覧会図録
- 神奈川県立近代美術館ほか編 『没後100年 高橋由一展 近代洋画の黎明』、1994年
- 東京藝術大学大学美術館 京都国立近代美術館 山形美術館ほか企画・構成 『近代洋画の開拓者 高橋由一』、2012年